能登畠山氏年表

〜室町期から安土桃山時代までの能登の歴史年表〜

西暦 和暦 守護 事柄 守護館
1369 応安2 吉見氏頼 奥能登の南朝勢力の征伐に成功。



1372 文中元 畠山満慶が生まれる。
1377 永和3 本庄宗成が将軍に能登守護を望むが、氏頼が宗成誅伐を画策したため実現せず。
1379 康暦元 本庄宗成 吉見氏が失脚。将軍に寵愛された本庄宗成が守護となる
1390 明徳元 畠山義忠が生まれる。
1391 明徳2 畠山基国 有力守護畠山基国(越中・紀伊・河内守護)が能登守護を兼任。
1406 応永13 畠山満慶 基国の次男、満則が畠山家を継ぐ。長男は将軍義満に嫌われ左遷。
1408 応永15 義満の死。満則、兄満家に家督を譲渡。能登一国を譲り受ける。満慶と改名し、守護代として遊佐祐信を七尾に派遣。



1410 応永17 能登守護代・遊佐祐信が永光寺の寺中や寺領の竹木の切取、乱妨狼藉を禁じる(永光寺蔵「中興雑記」)
1411 応永18 諸橋郷が能登国鵜河保の内外のどちらにあたるかという幕府の問い合わせに対し、守護代・遊佐祐信を注進させた(「尊経閣古文書纂」)
1412 応永19 4月13日満慶邸に将軍御成り。6月3日満慶が京都の自邸にて猿楽を催す。(「山科家礼記」)
1413 応永20 将軍義持の石清水参詣に供奉した山科教興に馬を貸す。義持の裏松義資邸御成りに満慶も供奉する。(「教興卿記)
1414 応永21 12月、称光天皇即位に満慶が用途55貫を負担する(兄・満家は158貫)。(「京都御所東山御文庫記録」丙13)
1415 応永22 将軍義持、伊勢国司・北畠満雅討伐で大和へ。6月、満慶も出兵が命じられ120〜130騎で軍に参加。途中土一揆に兵糧を奪われる。8月18日帰京。(「国立公文書館内閣文庫所蔵」)
1418 応永25 満慶と山名時煕が足利義嗣の謀反に組したとの噂が立つ。時煕の出仕が停止される。(「看聞日記」)
1422 応永29 将軍義持の伊勢参宮に畠山満家と満慶が供奉する。(国立公文書館内閣文庫所蔵「武家日記三」)
1423 応永30 満慶が三宝院満済を訪ねて年始を賀した。満済より満慶に贈り物。以後、満慶と満済の年始が慣例となる。(「満済准后日記」)
1424 応永31 将軍義量が畠山満家邸に来る。満家・満慶兄弟は膳を相伴する。(「花英三代記」)
同年 畠山満家が弟・満慶を通じて管領職の辞表を提出。前将軍義持はこれを却下する。(「満済准后日記」)
1426 応永33 朝廷より能登諸国に采女養料の進納を満慶に命ずる。(「薩戒記」)
1428 正長元 武家伝奏の万里小路時房が満慶を訪ね、時期将軍予定者の足利義宣(義教)の還俗・任官を賀し、申次を相談する。
同年 足利義宣(義教)の賀茂社競馬の足揃を見物する際、満慶が奉行する。
正長年間ヵ 七尾城が築城されたと言われる。堅固で有名な七尾城も、この頃は館規模にすぎなかった。
1429 永享元 足利義宣(義教)が元服する。満慶の嫡子・義忠が理髪役を勤める。
1430 永享2 満慶の子息・三郎が遁世する。
1431 永享3 畠山満家・満慶兄弟らが三宝院満済に頼み将軍義持に政道の意見を上申する。
同年 8月幕府が室町北小路第の工事に着手。満慶が惣奉行を勤め、長持信が作事奉行を勤める。12月義教が新邸に移る。
1432 永亨4 畠山義忠 満慶死去。嫡子義忠家督を継ぐ。
1433 永享5 義忠嫡子・義有や正徹らが石清水八幡宮に百首歌を奉納する。
1434 永亨6 義忠、御相伴衆に参加。幕政に関与する。義忠邸焼失する。義忠が修理大夫となる。
1435 永享7 義忠が賀茂社競馬の献盃の奉行を勤める。
1437 永享9 義忠が弥郡時春の給分を守護代・遊佐光貞に指示し交付する。そして義忠が安堵する。
1438 永享10 『新続古今和歌集』が撰進され、義忠の和歌が選ばれる。
1439頃 義忠嫡子の畠山義有が大和方面の凶徒鎮圧の幕府軍に参加中、陣中で病没。
1440 永享12 義忠が大和国より帰洛する。
1442 嘉吉2 西園寺公名が義忠に家領山城国美豆牧の代官職を希望するのに、畠山持国への執り成しを依頼する。義忠孫・義統元服する。
1443 嘉吉3 遊佐忠光が能登国神明社宝殿の上葺を行う。
1444 文安元 細川氏久被官葉室某が義忠被官伊葉某に殺害され、氏久被官が犯人の引渡しを求めて義忠邸に押し寄せる。
1445 文安2 遊佐忠光が永光寺の諸公事を免除する。また寺内・門前にて乱妨狼藉及び山林竹木の採用を停止させた。
1446 文安3 義忠が自邸で月次和歌会始。一色教親邸月次和歌会にも参加。
1447 文安4 春日社越中国阿努荘(富山県氷見市)の年貢未進を遊佐忠光に催促。この頃能登畠山氏の勢力が氷見市にも及ぶ。
1448 文安5 南朝方の円満院前門主円胤の首実検にて、義忠の子息が渡手を務める。(「康富記」)
1449 宝徳元 義忠が、広橋綱光、吉田社祓物を贈る。
1450 宝徳2 幕府が京都神仙苑の築地壁を修理させるため、畠山持国や義忠らの分国に賦課する。
1451 宝徳3 義忠など御相伴衆協議し、足利義成に専横な振る舞いの上臈局(新参局 大舘氏)追放を進言する。
1452 享徳元 義忠、山城国大原野辺で桜花を観る。大和国に赴き奈良に入る。
1453 享徳2 義忠が被官に命じ、総持寺(輪島市)に礼物を納入する。
1454 享徳3 畠山義就と畠山政久(持富嫡男)の家督争いで畠山持国邸が政久方に襲われる。持国が義忠邸に逃れる。
1455 康正元 畠山義統 義忠が隠居。嫡子義有が死去している為、嫡孫の義統に家督を譲る。
1456 康正2 畠山義忠、戸伏景頼の求めに応じて書籍を書写して与える(「旧武家手鑑」)
1457 長禄元 菩提山報恩院有俊が義忠の依頼により、古今集を書写する。(「経覚私要鈔」)
1458 長禄2 畠山義忠が、伊勢神宮奉納のため、百首和歌を勧進する。(「草根集」)
1459 長禄3 幕府が、義忠らに越前守護代甲斐常治の息子の同国入国へ助勢を命じ、能登・加賀勢が同国に入国し、乱妨狼藉を働く。(「大乗院寺社雑事記紙背文書」)
1460 寛正元 京都の義忠邸炎上。政長派の仕業か?
1461 寛正2 将軍・足利義政が石清水八幡宮に参詣し、義統が供奉する。(「石清水文書」)
1462 寛正3 義統が、能登国永光寺領若部保へ国衙役、正税、検注等の催促を停止する。(「中興雑記」)
1463 寛正4 畠山義忠が死去する。
1464 寛正5 将軍・足利義政が、鞍馬寺塔婆勧進猿楽を観る。それに畠山教国(義忠弟)が供奉する。(「蔭涼軒日録」)
1465 寛正6 幕府が義統などの諸大名に、土御門天皇即位の要脚を賦課する。(「斎藤親基日記」)
1466 寛正7 足利義政・日野富子夫妻が伊勢神宮に参拝する。これに義統、畠山教国(義忠弟)らが供奉する。(「斎藤親基日記」)
1467 応仁元 応仁の乱に西軍(山名方)として兵三千を率いて参戦。
1468 応仁2 京都から帰国しようとした能登兵を東軍の冨樫政親軍が攻撃。能登兵は被害甚大。
1470 文明2 畠山義就の猶子となっていた畠山政国が朝倉孝景に殺害される。
同年 朝鮮に使者を送り、能登で交易を図った。
1473 文明5 前年に将軍の命で東軍に移る。義統、この年に管領に任命される。
1474 文明6 義統3男義智に松波城を築かせ、義智自ら松波畠山氏の祖となり能登畠山家の庶家となる。
1476 文明8 加賀から「土一揆」が能登に侵入したと、畠山氏が幕府に報告する。周囲の勢力への合力要請を幕府に要求する。
1477 文明9 義統は京都を離れるために自邸を放火し、足利義視・土岐成頼らと共に土岐氏分国美濃に逃れる。
1478 文明10 将軍義政、足利義視・畠山義統・土岐成頼を赦免する。義統は能登に下向し、以後能登畠山氏は在国大名となる。
1479 文明11 義統、越後守護上杉房定と共謀して越中進出を企てる。
1480 文明12 義統の招請で、招月庵正広が能登に来訪する。歌合など数々興行する(「松下集」)。
1481 文明13 義統、七尾で歌合を催す(判者招月庵正広。義統義元父子ら14名が参加)。
1482 文明14 招月庵正広が再度能登に来訪する(1486(文明18)年まで滞在する)。
1483 文明15 義統らにより「賦何船連歌」が詠まれる。
1484 文明16 京都より観世大夫氏重ねて七尾に来る。
1486 文明18 9月、能登国が台風(大風)に襲われる(「永光寺年代記」)
1488 長亨2 6月、幕府の命で冨樫政親救済の為加賀出兵→敗北
1490 延徳2 能登国衆の一向一揆が蜂起を企てるが、井口某の裏切りで弾圧に成功。
同年 近江余呉荘に在住していた義統の嫡子・畠山義元が能登に下向する。
1493 明応2 将軍足利義材(義稙)が京都を追われ越中放生津に逃れた際、畠山義統や加賀守護・冨樫泰高が参じた。
1494 明応3 畠山義統が幕府法華八講供料として三万疋進上するが、足利義高(後の義澄)の元服費用に転用される。
1495 明応4 義統内者の遁世者曾阿埜彌が能登より入洛する(「晴富宿禰記」)。義材入洛計画の為の情報収集ヵ、義澄との折衝ヵ。
1496 明応5 義統が病に伏す。祗園社への御礼を病気の義統に代わって隠岐統朝が行う(「八坂神社文書」)。
1497 明応6 畠山義元 畠山義統死去。嫡子義元家督を継ぐ。
同年 11月、義元が三条西実隆に官途昇進を請う(「実隆公記」)。後に左馬助から左衛門佐に昇進する。
1498 明応7 奥能登で大水害が発生(「紙本墨書大盤若波羅蜜多心経」第三五四巻々末余白奥書より)。また、地震も頻発した。
1499 明応8 前将軍・足利義尹(前・義材、後の義稙)が上洛戦に敗れ、周防の大内義興の下へ逃れる。
1500 明応9 畠山慶致 義元・慶致の兄弟争い勃発(明応九年の政変)。慶致が守護に擁立される。
1501 文亀元 幕府、御柏原天皇の即位費用の段銭を能登国など諸国に賦課する。
同年 義元が没落する(「永光寺年代記」より)。
1503 文亀3 慶致が父義統の七周忌を大寧寺にて盛大に営む。
1504 永正元 慶致(弥二郎)が朝廷に対して「錦御旗」の下賜を願望した(『宣胤卿記』永正元年5月13日条より)。
1506 永正3 能登の他全国各地で一向衆が蜂起する(東寺光明講過去帳)。能登の一揆軍には「能登国一宮大坊主」と「鈴(珠洲ヵ)の三崎の鬼次郎」の名がある。この頃、能登天満城が陥落する(「永光寺年代記」)
1507 永正4 温井統永、能登国岩蔵寺を再建する(輪島市岩蔵寺棟札より)
1508 永正5 畠山義元 義元・慶致の両者和解。義元が守護に還任する代わりに、義元の後継者として慶致の嫡子・義総が指名される。
同年 義元上洛する。近衛尚通邸を訪れ、日野内光と対面する(『後法成寺関白記』永正5年9月7日条より)。
1509 永正6 義元、近衛尚通を訪ねる、太刀を贈る。義元が幕府猿楽に供奉する。
1510 永正7 1月に佐脇秀隆が、5月に温井孝宗が岩倉寺に田地を寄進する。義元が幕府猿楽に参する。
1511 永正8 足利義尹(義材・義稙)・細川高国が京都に迫る細川政賢に追われて丹波国に逃げる。義元もこれに追従する。3週間ほどで義尹が京都を奪還し入洛し、義元らも供奉する。
1512 永正9 義元、禁裏御所料の年貢を納入。足利義尹(義稙)の細川高国邸お成りに義元が供奉する。大内義興が義元邸に来訪する。義尹(義稙)が義元邸に来訪する。
1513 永正10 足利義尹(義稙)が隠遁先の近江より入洛するのに義元・義総が供奉する。幕府三条第作事始に義元が総奉行となる。
同年 能登永正の内乱起こる。義元が能登に下向する(飯尾文書)鎮圧を図るが失敗する。
1514 永正11 義元の後継者・義総が能登に下向し反乱軍と調停し錯乱が沈静下に向かう。
1515 永正12 能登永正の内乱が収束する。
同年 畠山義総 中風の養生をしていた畠山義元が死去。慶致の子で義元の養子となっていた義総が家督を継ぐ。
1516 永正13 興徳寺に禁制。その保護と軍事的拠点化目指す。
1517 永正14 9月上旬、冷泉為広が能登に下向。この年、能登畠山氏の色々な家臣が門弟になったり、贈物を送ったり、歌会を催している、
1518 永正15 5月、冷泉為広が帰洛する。
1519 永正16 越中永正の乱(第1次征伐)開始。畠山・長尾軍敗退。
1520 永正17 越中永正の乱(第2次征伐)開始。畠山・長尾連合軍勝利。両越能三国同盟締結。
1521 永正18 越中永正の乱がまたも勃発。翌年鎮圧する(「畠山体制」が確立する)。
1523 大永3 9月21日、月村斎宗碩らにより「賦何路連歌」が詠まれる。
1525 大永5 7月28日、義総らにより「賦何人連歌」が詠まれる。
1526 大永6 この頃、守護館を七尾城に移す。七尾城中で歌会を開催。2回目の能登下向の冷泉為広とその子・為和が列席。

1527 大永7 守護の支配を拒否する金蔵(輪島市)を全村焼き打ちする。
1528 大永8 熊来荘の領主・三条公頼が年貢収納を維持するため、古歌を後奈良天皇に揮毫してもらい、義総に進物と共に送り届けた。
1529 亨禄2 畠山氏と越後長尾氏の関係が悪化し、互いの領地で船の通行を塞き止めた。
1530 享禄3 義総が、公家の三条西実隆や近衛尚通などと頻繁に交流する。
1531 享禄4 一向一揆の内紛に乗じて朝倉と共同して加賀に攻め込む(加賀津幡の戦い)。
1532 天文元 権大納言藤原尚顕が七尾に来る。
1533 天文2 義総嫡男・畠山義繁が早世したので、次男の義続が後継者と目されるようになる。
1534 天文3 将軍義晴が「畠山治部大輔」に坂本渡海につき太刀・馬を献上する(御内書引付『続群書類従』第23輯下)
1535 天文4 畠山義総が天皇より蘭奢待の拝領を要請し、賜る。
1536 天文5 近江猿楽の日吉大夫が年始の礼で能州に下向する。
1538 天文7 畠山九郎が加賀一向一揆の加勢をうけ能登に数度乱入する。
1539 天文8 近江守護六角定頼と婚姻関係を結ぶ。長谷川等伯が七尾に生まれる。
同年 畠山九郎が能登と加賀の国境を占拠して通行を塞ぐ(「天文日記」)。
1540 天文9 義総政権が、畠山九郎との関係で関係が悪化していた本願寺と和与に成功する。
1541 天文10 「匠作入道(=義総)子息佐殿(=義続)」(今川為和集)と見え、義続の活動がこの年よりみられる。
1542 天文11 畠山義総が幕府に河内守護畠山稙長進退の御内書発給に感謝する。
1544 天文13 河内畠山の要請を受け義続が神保氏と椎名氏の争いを調停。神保長職の富山在城認める(「畠山体制」が機能)。
1545 天文14 畠山義続 義総が死去。義続が家督を継ぐ。義続の河内畠山家相続の話が義総の死去によって消滅。
1546 天文15 義続が能登全域に徳政令を出す。
1547 天文16 7月、将軍義晴が細川晴元・六角定頼に摂津芥川城落居のため、能登畠山氏、大友氏、大内氏、若狭武田氏に京都への応援を求める。(「御内書要文」)
同年  閏7月、畠山駿河が一向一揆と結び能登に乱入(押水の合戦)。
1548 天文17 義続、禁裏に美物三色を進上する(「御湯殿上日記」)
1550 天文19 遊佐続光温井総貞の対立激化で内乱が発生(七頭の乱)。七尾城が一部焼失。義続・総貞らが剃髪する。
同年 近江猿楽の日吉大夫が能州に在国する(「多賀神社文書」より)。
1551 天文20 畠山七人衆体制が成立する。以後重臣間の合議体制で政策決定がなされる。
1552 天文21 畠山義綱 畠山徳祐(義続)が隠居し、嫡男の義綱に家督を譲る。自らは義綱の後見人となる。
1553 天文22 遊佐続光温井紹春(総貞)に対して挙兵(大槻・一宮の合戦)。
1554 天文23 河内守護代・安見宗房が能登国に使者を送る。路地安全を本願寺に謝する(「天文日記」)。
1555 弘治元 義綱が温井紹春を暗殺する。温井・三宅が反乱を起こす(弘治の内乱〜1560)。
同年 7月25日、近江六角氏の史料『江源武鑑』に拠ると、六角義賢の娘が畠山義綱へ輿入れするという。史料『江源武鑑』の信憑性から日程の再検討の必要がある。
1556 弘治2 1月、七尾城の改修・増強。2月、兵力増強。
1557 弘治3 義綱、長尾景虎に七尾城籠城を伝え、兵糧の援助を求める
1558 永禄元 八代俊盛が椎名氏の援助を受け七尾城に入城。畠山軍が反乱軍の拠点・勝山城を陥落させる。
同年 7月25日、 『江源武鑑』に拠ると、義綱が六角義賢の娘と婚姻後初めて六角家を訪れるとある。しかし、内乱の最中、義綱が近江へ行ったかは疑問である。
1559 永禄2 温井方、再々侵攻。長続連らこれを撃退。
1560 永禄3 温井勢を完全に能登から一層(弘治の内乱鎮圧)。義綱、領国再編に取りかかる。
1561 永禄4 義綱、将軍家に年始の貢ぎ物を再開。義綱が長続連に長邸にて歓待をうける
1562 永禄5 義綱、神保と長尾の戦いの仲介し終戦させる(「畠山体制」が機能)。出羽国より大量に馬を購入。
同年 義綱が正親天皇の勅許を得て能登一宮気多大社の造営をする。
1563 永禄6 義綱が出羽国より馬を購入。(「義綱奉行人連署状」三宅家文書より)
1564 永禄7 義続室(慈真院殿)の入牌のため、興臨院に田地一段半を寄進する(興臨院「慈真院殿 入牌祠堂」より)。
1565 永禄8 3月、義綱が諸橋郷の網(鰤漁)などに厳しい規制を加える。
同年 義綱・徳祐父子の書状での対足利義秋外交交渉が知られる(〜1566)。
1566 永禄9 7月16日足利義秋が義綱に出兵を督促するが、義綱は隣国等の擾乱を理由に辞退。
同年 畠山義慶 義綱・徳祐父子が遊佐・長等に追放され、義慶が当主に擁立(永禄九年の政変)。
1567 永禄10 帰参した温井・三宅一族が、義綱・義続の能登進行に備えて坪山砦(押水町)を築く。
1568 永禄11 義綱が能登奪回を目指し挙兵(能登御入国の乱)。
1569 永禄12 義慶が能登一宮気多大社の造営をする。(〜天正元年まで)
同年 11月、八代俊盛が能登鶏塚にて挙兵(鶏塚の合戦)。しかし、長続連らに討ち取られる。
1570 元亀元 重臣人事刷新(若返り人事)。
1571 元亀2 義慶が修理大夫の官途を受領する。
1573 天正元 4月、一宮気多大社の摂社白山・若宮両社を造営し完成する。
1574 天正2 義綱が、能登越中国境の山を占拠し、越中国瑞泉寺内衆上田石見守に合力を求める。
1575 天正3 12月、遊佐盛光、三宅長盛、平堯知、長綱連温井景隆が謙信に対して織田信長に対抗するため能登への援軍を求める。
1576 天正4 畠山春王丸 畠山義慶が急死(暗殺ヵ)。義隆の嫡子春王丸が2歳で家督を継承。謙信の能登侵略が始まる。
1577 天正5 7月春王丸疫病にて病死。9月遊佐続光が謙信と内応。七尾城を開城させ、畠山氏が滅ぶ。
1579 天正7 上杉謙信 遊佐続光が鯵坂長実を追放し、七尾城を占拠。
1581 天正9 前田利家 織田信長が前田利家に能登一国を与える。
1582 天正10 前田利家が七尾城から小丸山城に移る。 小丸山城
1583 天正11 前田家が加賀を加増され利家が金沢城に移る。政治・経済・文化の中心が金沢へ移る。 金沢城

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