能登永正の内乱
[1513年〜1515年]
畠山義元軍VS畠山慶致軍
- ●原因
- 畠山義統の死去にともない1497(明応6)年に畠山義元が4代当主となるが、1500(明応9)年に兄弟争いが起こり(明応九年の政変)、弟・畠山慶致が5代当主となった。しかし、義元と慶致の分裂は畠山家中まで及び分裂を防ぐため越後長尾能景の斡旋もあり1508(永正5)年に弟慶致と和解し、義元が守護に還任した。その後、能登畠山家は足利義稙政権を支えるため「義元在京−慶致在国体制」が確立する。慶致が在国したことから権力バランスが義元派<慶致派となっていったと考えられ、遊佐嫡家で守護代であった遊佐統秀が死去したことをきっかけに、遊佐庶流家の者を重用し、守護権力の強化を図ろうと画策した義元に対し、遊佐嫡家と思われる遊佐統忠が1513(永正10)年に反乱を起こした。明応九年の政変以来、再び義元派との慶致派の深い対立が浮き彫りになって起こった内乱である。
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畠山義元軍 |
畠山慶致軍 |
勝敗 |
WIN |
LOSE |
兵力 |
不明 |
不明 |
支援者 |
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加賀一向宗 |
主力 |
隠岐統朝
三宅俊長
温井彦五郎
天野俊景
和田彦次郎 |
遊佐統忠 |
●経過
- 1513(永正10)年10月23日、畠山義元は、将軍・足利義稙に管領・細川高国や周防守護・大内義興と並んで幕政の中心にあり在京していたが、「不慮之下國」で京都から能登に下向。(古文書A)
- 一年間経っても能登の内乱が収まる気配なし(古文書B)
- 1514(永正11)年7月、温井彦五郎討死(「栗棘庵文書」)
- 同年同月、天野俊景に和田彦次郎を連れて出津し七尾に来城を求める。(古文書C)
→一夜で来いと命じている事から七尾から距離的に近く、さらにすぐに来往を求めているから危機状況が見て取れる。 - 同年9月、和田彦次郎を出津し七尾に来城し、見廻り業務をしていることを義元は喜んでいる。『尊経閣古文書纂』(天野文書)
- 同じ年12月に家督継承予定者の次郎(畠山義総)が下向すると無事調停が進んだ(古文書D)
- 同年同月、七尾の百姓に忠節につき年貢の1/10を永代免除する。「七尾」の初見文書。(古文書E)
→このことから七尾城まで内乱が及んでいることを示している。
- 1515(永正12)閏2月、調停は続くもまだ鎮圧できず(古文書F)
- 天野俊景は、功績が認められ、本領安堵に加え、守護料所の鹿島郡笠師村の代官職を与えられた。
ちぇっくぽいんと!
能登永正の内乱を直接詳細に示した古文書は無い。幕閣の飯尾文書や年次未詳の文書を組み合わせ初めて断片的に理解できる。
古文書A「尊経閣古文書纂」(飯尾文書)
(封紙ウワ書)
「飯尾近江守(定運)殿 (畠山)義元」
預音信候、祝著候、誠ニ今度者不慮之下國(能登)ニ候、
仍扇子一本送給候、喜悦候、就中彼間之事、
委細者従加治又五郎(直誠)可申候、恐々謹言、
(永正十年)十月廿三日 義元(花押)
飯尾近江守殿 |
古文書B「尊経閣古文書纂」(飯尾文書)
(封紙ウワ書)
「飯尾近江守(定運)殿 (畠山)義元」
就當國(能登)錯乱之儀、委細示給候、本望候、誠不慮之儀、
失面目候、何様達本意、重而可申述候、恐々謹言
(永正十一年)十二月五日 義元(花押)
飯尾近江守殿 |
古文書C「尊経閣古文書纂」(天野文書)
(封紙ウワ書)
「天野次郎左衛門尉(俊景ヵ)殿 (畠山)義元
在所等之儀、被申子細候、和田彦五郎可召具候、
急度用之子細候、明日晝以前ニ早々可出津候、
一夜帰也覚悟可罷出候、堪忍等於迷惑者、
可申付候、謹言
(永正十一年)七月十八日 義元(花押)
天野次郎左衛門尉殿 |
古文書D「尊経閣古文書纂」(飯尾文書)
(封紙ウワ書)
「(後筆)永正十一十二廿九 遊佐孫右衛門尉
飯尾近江守(貞運)殿御返報 秀盛」
先度者預御札、委細令拝見候、仍當國(能登)之儀、
次郎(畠山義総)下國候而、種々以愛無事相調候、可御心安候、
(以下略)
(永正十一年)十二月八日 秀盛(花押)
飯尾近江守殿 御返報 |
古文書E「加能越古文叢」
就今度七尾江御出張、忠節神妙之條、御年貢之拾う分一永代御免除也、
弥於向後粉骨肝要之由、依仰執達如件、
永正十一 |
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十二月廿六日 |
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(隠岐)統朝(花押影) |
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(三宅)俊長(花押影)) |
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大呑庄御百姓中 |
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古文書F「尊経閣古文書纂」(飯尾文書)
(封紙ウワ書)
「(後筆)永正十二 温井兵庫助
飯尾近江守(貞運)殿御返報 孝宗」
一、當國(能登)之儀、種々雖無事之調法候、于今無一途候、
(以下略)
(永正十二年)閏二月八日 孝宗(花押)
飯尾近江守殿 御返報 |
古文書Eに見られる七尾の百姓までも動員された大規模な内乱であったが、詳細な記録が残って居らずいままで能登永正の内乱は、考察の対象にされてこなかった。そこを川名俊氏が指摘(注1)した点は、
(1)内乱直前まで前守護の保寧院徳宗(慶致)が内乱の直前1513(永正10)年5月まで活動が知られるのにも関わらず、能登永正の内乱以降活動が知れず、1525(大永5)年に死去していることから、何らかの変化があった=内乱に加担して敗北したか、内乱の原因となる人物であった。
(2)1513(永正10)年に守護・畠山義元自ら京都から下国して調停にあたっても内乱は沈静下せず、翌1514(永正11)年に後継者とされる畠山義総が京都から下国すると、順調に調停が進み出した点から川名氏は「義総は次期当主という立場もあろうが、何より慶致の実子であるということが重要であると考える。すなわち、義総が実父と叔父の間の緩衝材としての役割を期待されたと見ることができるのではないか。」(注1)としている。
- ●合戦の影響
- 「義元在京−慶致在国体制」をきっかけに、義元派と慶致派のバランスが崩れて起こった「能登永正の内乱」。内乱が拡大し慶致の実子で後継者である畠山義総の調停が功を奏したことで、この内乱では義元派が勝利したが、実質的には再び義元派と旧慶致派の合同がなったとも言える。実際に内乱後の政治では、義元派の重臣である隠岐統朝と旧慶致派の三宅俊長が連署発給が多くなることからもわかる通り、両派のバランスを取った政治が展開される。
一方で、慶致自身はは1525(大永5)年に死去するが全く活動が知られない。家中から実質引退しているとみられるのに対し、義元没後は実子である宮内大輔などが家中の義元派に擁立されることもなく、慶致の子・義総が家督を継いだ。この事から、この内乱に於ける慶致の立場は慶致が能登永正の内乱で擁立され失脚したか、慶致がこの反乱で義元派であったか、義総があくまで義元派としての立場で家督を相続したのかのパターンが考えられるであろう。どのパターンにしても、義元派と慶致派がもう一度再編成されて家中の混乱因子になるべく確率は大幅に低下したと言える。
(注釈)
(注1)川名俊「能登畠山氏の権力編成と遊佐氏」『市大日本史』24号,2021年
- 参考文献
- 東四柳史明「畠山義元と能登永正の内乱」『加能史料会報』19号,2008年
川名俊「能登畠山氏の権力編成と遊佐氏」『市大日本史』24号,2021年
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