隠岐統朝特集

隠岐統朝イメージ像
↑隠岐統朝イメージ像(畠山義綱画)

☆隠岐 統朝<おき むねとも>(生没年不詳)
 藤四郎・藤兵衛・新左衛門尉・豊前守。畠山義統・義元・義総に仕える。統朝の「統」は義統の偏諱。義統政権時に年寄衆となり、側近として実力を得て、義元政権の時には重きをなした。しかしそのため、義元・慶致の兄弟争いに端を発した明応九年の政変(1500年)においては義元ともに出奔することとなる。1508(永正5)年に義元・慶致兄弟が和解し、義元が守護に返り咲くと統朝も帰国し、第二次義元政権で重きをなす。

統朝政治活動ちぇっく!
 統朝の文書初見は1486(文明18)年4月、加茂社土田荘の礼銭算用状に「弐貫文 御屋形さま(畠山義統)」らと共に「壱貫文 おき殿(統朝)」として名前が見られる。「おき殿」の名前は1488(長享2)年12月から1499(明応8)年まで公用銭の進納を担当したり、京都の土倉である野洲井宣助と賀茂社の相論を成敗などをしている。すなわち統朝は、賀茂社の羽咋郡土田賀茂荘の守護請代官職だったようだ。
 一方、1493(明応3)年に、加茂社が能登国土田荘の公用銭の催促を「隠岐備前入道」にしている。おそらく、この「隠岐豊前入道」は統朝の血縁の人(父ヵ)と思われ、1493(明応3)年の時点では家督を譲られていたのであろう。この後にも出てくる1497(明応6)年10月の文書に「隠岐入道」の名が見え、同一人物と思われる。「隠岐豊前入道」は、1493(明応3)年になっても加茂社から守護請を催促されている立場から考えると、この近辺で隠岐豊前家の家督が相続されたことが考えられる。家督継承後も、「豊前入道」は実力者として影響力を行使したのであろう。もしくは、統朝が守護請公銭を中々進納しないので、業を煮やした加茂社が豊前入道を頼ったと思われる。すなわち、1493(明応3)年時点で統朝は家督を継承出来うる成人には達しているが若年であったと想起できる。
 その統朝は、義統の近臣と言われている。その証拠に、義統政権時代の1496(明応5)年、義統・義元・慶致に対し京都祇園社より祈祷の巻数を受け取った時、中風を患い返書の出来ない義統に代わって統朝が謝している古文書が知られる。また、1497(明応6)年5月には能登国土田荘の公用銭について京都加茂社と守護請の代官が相論になった時、統朝は義統が病床に伏しているので相論を裁定できず、京都の幕府に取り次ぐので裁定してもらうよう年寄衆として交渉し取り決めている(古文書A)。これらは、統朝が義統政権において、守護の代理として案件を処理していたことが伺える資料である。同年8月、義統の嫡男・義元が守護になると、統朝はさらに重用され実力を発揮している。同年10月、加茂社領土田荘の公用銭を進納すると一応解決を見たようだ。

 しかしこの状況が明応九年の政変(1500年)によって一変する。すなわち同政変で、畠山義元畠山慶致の兄弟争いが起こり、義元が能登を出奔したのである。そして、畠山家の家督は慶致が継承したのである。この政変は、義元を支援する統朝らのグループと、義統に寵愛され家中でも義元の次に実力を有することになった慶致を支援するグループの対立が引き起こしたものとも言える。だからこの慶致政権では、前義元政権下でよく名のあがった統朝と波々伯部某の名前が全く見えない。これをもって、この2人は義元と同一行動を取って出奔したと解することができる。

 1508(永正5)年に、義元・慶致両氏が和解し、義元は守護に還任することになる。すると義元を支援していた統朝も復帰した。義元・慶致両氏の和解によって、義元派・慶致派グループ共に国政を担当することになった。しかし、その和睦も1513(永正10)年〜1515(永正12)年まで続いた能登永正の内乱で、再び慶致派が反乱を起こして能登国内が錯乱状態に至る。その中で統朝は幕府方の飯尾貞運に詳細に状況を報告しており、一貫して義元派として行動を共にしている。この内乱は義元派勝利で終わったが、その後の政治は義元派である統朝と、慶致派である三宅俊長が連署状を発給しているのである(古文書B) からもわかる通り、負けたとは言え、旧慶致派も入れた両派のバランスを取った政治を行い、その中で統朝は排除されることなく重用されたことからも、旧慶致派に対して強行な手段は用いず、バランスの良い政治活動を行っていたと想起できる。また、両氏は興徳寺(鳳至郡三井)に真宗の動きを危惧する文書を連署して発給もしている。統朝は義統・義元政権で高い政治能力を発揮し、領国経営の中枢をなしていたのであろうと推測できる。
 しかし慶致政権時代には、同代官職に統朝の名前が消え、代わって三宅氏が担当している。これも明応九年の政変で、統朝が出奔した徴証である。土田荘の公用年貢について、1513(永正10)年に幕府の奉行人である飯尾近江守貞運は能登畠山家に催促するが、その相手は守護請代官の加治直誠を始め畠山義元、隠岐統朝、温井孝宗に行っている。これに対し、統朝が繰り返し「当国錯乱」のため年貢収納が遅れているなどの理由を話している。このことは、飯尾が「統朝に願えばなんとかなるのでは」と思っているとすれば、統朝の同荘に対して影響力が強いと見ている証拠で、第二次義元政権内での統朝の地位の高さを表しているとも言える。

古文書A 「加茂別雷神社文書」
 又加茂社務へ御返事認上進之候、可被屆申候、返々態示給候、
遠路之儀本望候、自加茂社務書状等態下給候、委細拝見申候、
然間、私一人のあつかひニても候ハす候間、則年寄衆ニ申聞候、
各被申事ニハ、(宣助)野洲井方より種々申事共候之間、所詮於
京都落居候て承候へ、御公用之事者、用意候て置候事ニ候之間、
何方へニても候ヘ、可渡申候由、最前よりの此方申事ニて候處、
社務此方へ可有下國候由承候、更々無覺悟候、たとへ下國候共、
(畠山義統)御屋形の御事者、御歡樂の事候間、旁以於國者不可
落居候、さやうニ候へハ、遠路之儀、旁以社務彌可爲大儀候間、
然者京都ニて伊勢上野方被仰、以公議落居候者尤可然候由各被
申、自此方其子細上野方・遊佐越中守へ被申上候、此等之趣、
能々加茂へ被申屆候者、可然存候、日供之儀候間、早々落居可
然存候、目出相調候て、重而御左右可承候、事々重而可申候、
恐惶謹言、
(明応六年)八月十三日   (隠岐)統朝(花押)
加茂社務殿 尊報  

(古文書B)連署状 (「加越能古文叢26」)
就今度七尾御出張、忠節神妙之条、御年貢之拾分一永代御免処也、弥尚後粉骨肝要之由、依仰執達如件
永正十一
 十二月廿六日

(隠岐)統朝(花押)
(三宅)俊長(花押)
大呑北庄御百姓中

統朝出陣履歴ちぇっく!
 統朝の直接の出陣記録はない。しかし、1513(永正10)年に起こった内乱に対する恩賞措置で、義元派である統朝と、慶致派である三宅俊長が連署状を発給していることなどから見ると、統朝が領国経営の中枢をなしていたことを考えると、合戦については事後処理担当であったのかもしれない。あとは、義元出奔中の1500(明応9)年〜1508(永正5)年の動きが見えてくると、統朝の合戦の手腕が見えてくるのだが。後考を待ちたい。

統朝文芸活動ちぇっく!
 1518(永正15)年に、冷泉為広が「能州礼銭事」として贈与された銭高を記録している中で、「一○○貫 御やかた」(義総)などに混じって「ニ貫 隠岐藤四郎」との記録がある。さらに隠岐豊前(統朝)は、「ひしくい」を献上している。このようにして、為広の門弟になるべく懇意にしている事実を見ると、それなりの文芸に興味を持っていたであろうことが推測される。

参考文献
小葉田淳『史林談叢』臨川書店.1993年
川名俊「戦国期における守護権力の展開と家臣−能登畠山氏を事例に−」『ヒストリア』第248号、2015年
坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年
(共著)『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社,1981年
「志賀町の中世」(『志賀町史』沿革編の別冊)
東四柳史明他『羽咋市史』中世社寺編,1975年
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