畠山義統特集

畠山義統イメージ像
↑畠山義統イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 義統<はたけやま よしむね>(?〜1497)
 能登守護。幕府の御相伴衆。七尾城主。右衛門佐。左衛門佐。畠山義忠の嫡孫。義忠の嫡子義有が早世したために能登畠山家の家督を継いで第3代当主となる。彼の前期は幕政の中枢に位置し、管領にもなり積極的に幕政に関与した。しかし、応仁の乱後荒廃した京都 を見限り分国能登へ下向。在国して大名権力の基盤を固め北陸でかなりの実力を有した。法名は大寧寺殿大彦徳孫大禅定門。

義統支配体制ちぇっく!
義統政権は2期に分類できる。


前期(義統在京期)<1455〜1479>

能登国政の権力者:守護代・遊佐統秀

 義統は幕政の中枢にあり在京していた。その為能登の支配は実質的に守護代遊佐統秀が行っていたようである。しかし、遊佐きむち氏(旧「のとのぉと」サイトの管理人)が指摘するように1478(文明10)年に義統が能登に下向したのをあっさり受け入れるところをみると、下剋上時代に見られる守護代が大名権力を奪う(斯波氏の領国である越前守護代朝倉の例など)のように遊佐統秀が家中を掌握しきっていたということはなかったのかもしれない。さらに、文明年間中に長氏と温井氏の大規模な内乱が能登国内で起こっており、それを調停するためにも守護と守護代との確執は思ったほどなかったかもしれない。これは、能登畠山氏が一国守護であったので、斯波氏等多数の分国を持つ大名より影響力が分散せず、在京時でも影響が強かった事などが挙げられると思う。


後期(義統在国期)<1479〜1497>

権力者:守護・畠山義統、年寄衆:隠岐統朝

  さて、下剋上となる戦国期には、守護の帰国時にすでに守護代が分国の権力を手中にして守護の権力を奪うといったことが見られるが(例:斯波氏領国朝倉氏など)、なぜ守護・義統と守護代・統秀の間にはさしたる確執が見られなかったのであろうか。
1479(文明11)年、それまで室町幕府の幕閣の中枢にいて在京していた守護・義統が、応仁の乱で西軍が敗れたことにより分国・能登に帰国すると、義統は能登国内の政治を取り仕切ったようである。1478(文明10)年8月に義統が永光寺(羽咋市)に発給した文書(古文書B)は、「書下」(かきくだし)という文書で、守護代を通じた間接的に命令を伝える「奉書」と異なり、守護の命令を直接的に伝える形式である。(古文書A)でみてきたように1470(文明2)年の段階で永光寺に対しての命令は、統秀が出している。それに対して、義統の下向が秒読み段階に入った1478(文明10)年では(古文書B)にみられるように、義統は守護が主体の領国統制に意欲を燃やしているのである。このように義統が能登の国政に強い意欲を燃やしていたことに加え、文明年中には将軍直属の奉公衆である長氏と畠山氏被官の温井氏が大規模な内乱を起こしており(詳しくは守護大名の「在京」と「在国」の意味するもの参照)、守護と守護代との確執があっては両者権力を失いかねない状況から協力関係が生まれたのかもしれない。
 守護と重臣との関係がわかる事例として(古文書C)が挙げられる。1497(明応6)年に能登国土田庄における京都の加茂社と土倉野洲井が公用銭の進納で相論した時、義統は病床に伏していた。この時に能登の国政を指揮していたのが、年寄衆の隠岐統朝である。統朝は「土倉野洲井の悪銭を選んで進納する行動を非難」しつつも、加茂社への公用銭の進納を渋っていた。そこで加茂社は社務の使者を下向させたが、統朝は 「(畠山義統)御屋形の御事者、御歡樂の事候間、旁以於國者不可落居候」と、守護の義統の病気を理由に落居(決着)を拒否していた。その上で、「相論の裁定については京都の幕府を頼るように取り次ぎ、解決次第公用銭を渡すことなどを相談して取り決めている」(川名俊「戦国期における守護権力の展開と家臣−能登畠山氏を事例に−」『ヒストリア』第248号、2015年)という決着をみた。この事例を見ると、守護の決裁がなければ重要な決断はできないことがわかり、守護と年寄衆の連携が伺える。一方で、守護不在時には臨時的に年寄衆が裁定することもここからうかがえる。

古文書A 「中興雑記」(羽咋市永光寺蔵)
能登國洞谷山永光寺(鹿島郡)事、於寺中門前・山林等切取竹木、
其外甲乙人不可濫妨狼籍(藉)、若有違犯輩者、可處罪科之状如件、

   文明弐年九月日   (遊佐)統秀 判


古文書B 「中興雑記」(羽咋市永光寺蔵)
能登國洞谷山永光寺(鹿島郡)事、為祈願寺上者、任先例、
於寺領諸公事等、不可有相違之状如件、

   文明十年八月十一日   (畠山)義統 判
 住持
 
古文書C 「加茂別雷神社文書」
 又加茂社務へ御返事認上進之候、可被屆申候、返々態示給候、
遠路之儀本望候、自加茂社務書状等態下給候、委細拝見申候、
然間、私一人のあつかひニても候ハす候間、則年寄衆ニ申聞候、
各被申事ニハ、(宣助)野洲井方より種々申事共候之間、所詮於
京都落居候て承候へ、御公用之事者、用意候て置候事ニ候之間、
何方へニても候ヘ、可渡申候由、最前よりの此方申事ニて候處、
社務此方へ可有下國候由承候、更々無覺悟候、たとへ下國候共、
(畠山義統)御屋形の御事者、御歡樂の事候間、旁以於國者不可
落居候、さやうニ候へハ、遠路之儀、旁以社務彌可爲大儀候間、
然者京都ニて伊勢上野方被仰、以公議落居候者尤可然候由各被
申、自此方其子細上野方・遊佐越中守へ被申上候、此等之趣、
能々加茂へ被申屆候者、可然存候、日供之儀候間、早々落居可
然存候、目出相調候て、重而御左右可承候、事々重而可申候、
恐惶謹言、
(明応六年)八月十三日   (隠岐)統朝(花押)
加茂社務殿 尊報  

義統政治活動ちぇっく!
 1442(嘉吉2)年12月3日に義統は元服して政治活動を開始。1450(宝徳2)年には幕府弓場始に奉行している(「御的日記)。その時の官途は右衛門佐だった。1455(康正元)年には左衛門佐に任じられ(「斎藤基恒日記」)、さらに幕府の御相伴衆にも同年任じられていることから(「蜷川家文書」)、この頃には父・畠山義忠に代わって家督を継いでいたと思われる。応仁の乱は山名宗全方の西軍と細川勝元方の東軍に分かれて日本全国を戦争に巻き込んだ大乱である。この乱において義統は西軍に属した。これは弟の政国が、西軍の畠山義就の猶子となっていたためであろう。しかし、西軍に属するということは時の将軍・足利義政と敵対することを意味する。そこで1467(応仁元)年、将軍・義政から畠山義統ら西軍諸将に東軍に帰属するよう御内書を下している。このことは中央で義統の影響力が大きかった事を伺わせる。しかし、義統はその後も西軍として活躍している。応仁の乱は周知の通りその後も続き、「綱光公略記」の1467(応仁元)六月二十九日条によると、京極持清方の放火により畠山義統邸が炎上したり、1470(文明2)年には畠山義就の猶子となっていた義統の弟政国が朝倉孝景によって殺害されるなど随分被害にもあっている。
 混乱極める京都の中にあって義統は、1477(文明9)年、美濃守護・土岐成頼と周防守護・大内政弘らが下向するとのことで義統も下向を決意した。そのためか同年7月に将軍・足利義政室の日野富子より1000貫を借用して帰国の準備費用を整えている。そして、11月には義統自ら京都の自邸に火を放って京都を離れた(「山科家礼記」などより)。しかし、すぐには分国に下向しなかったようだ。翌年7月17日に義統は足利義視・美濃守護・土岐成頼と一緒に将軍・義政に赦免され(「尋尊大僧正記」などより)、その御礼としてこの三者の使者が美濃国より上洛している(古文書Cより)。このことから、義統は京都の自邸を焼いた後すぐに下向したのではなく、いったん土岐氏の分国である美濃に逃れ、将軍・義政の赦免を請うているのである(注1)
 さて、帰国後の義統は領国能登の基盤強化に努め、畠山家の基礎を築いた人物といえる。本願寺門徒に占拠された加賀の国の余波で、能登でも一向宗が蜂起しそうになったが、家臣・井口某の密告で弾圧に成功し、能登国内の政情も以後安定した。まさに激動の時代を乗りきった当主であった。1493(応仁2)年に将軍足利義材(義稙)が細川政元に京都を追われ、越中・放生津に逃れた時、北陸の他の大名らとともに、義統も馳せ参じている。この後家督を継ぐ義統の嫡子・義元も義材を積極的に支援していることから、父・義統の影響があったに違いない。

(古文書C)「兼顕卿記別記」文明10年8月21日条
廿一日、庚戊、リ、(中略)自濃州今出河前大納言(足利義視)御使伊勢八郎(貞職)、備中守貞藤子也・土岐(成頼)雜掌齋藤修理(康明)亮(進)・能登守護(畠山義統)雜掌(佐脇宗隆)等入洛、今度各御免之儀、先且爲畏申入也云々、鵝眼・龍馬等濟々牽進之由、有其沙汰也、(下略)
 

義統出陣履歴ちぇっく!
 義統の軍事行動は主に応仁の乱に関係する。同乱では3000人の兵を引き連れて西軍に属したと言われる。「応仁記」 には畠山氏の庶流の第一に義統が記され、いかに能登畠山家の地位や影響力が大きかったことがわかる。 義統は他の西軍諸将と共に興福寺・東大寺を西軍に勧誘するなど西軍の主力のひとりとして乱を戦うなど、その統率力はなかなかと思われる。その一方で、1467(応仁元)年、畠山義統軍の兵が京都より撤退し帰国の途に着く途中の加賀国で、東軍方の加賀守護冨樫氏と合戦となり、多数の戦死者がでた(碧山目録)。その後、応仁の乱で敵方(東軍)であった畠山政長の能登侵攻計画に対抗し、義統も越中侵攻を企画するなど義統政権は応仁の乱に左右されたと言える。

義統外交政策ちぇっく!
 義統在京時は義忠の跡を受け、幕閣の中枢にあった。しかし、応仁の乱において将軍足利義政に敵対する西軍に属した事から、将軍から嫌われることになってしまった。そのため、1478(文明10)年には将軍家(将軍足利義尚と前将軍義政)からなんとか赦免されたが、ご機嫌を伺う為に帰国後の1479(文明11)年に義統は幕府に送った贈答品を贈ろうと政所執事・伊勢貞宗に取次ぎを依頼するが、一度も返事をもらえないなど冷たくあしらわれている(「晴富宿禰記」文明11年7月27日条より)。その後も義統は何度も将軍家に謝辞の内容の手紙と贈り物を頻繁に送っている(贈り物の内容は下記表1参照)。戦国期の室町幕府の権力は一般に低く見られがちだが、このように当時の守護大名はその存在意義を大部分将軍権力に依存していたということが良くわかる。

表1(畠山義統の幕府進上物表)『七尾市史通史編』より
  鳥目(銭) 太刀 白鳥 海鼠腸 海鼠子 煎海鼠 鯖背腸 鯖子 塩引 来々
1481年分 12000疋 5振 1頭 4羽 17尺 10 830桶 30桶 30束 150桶 120桶 1 50尺 400
1483年分 3300疋 4振   4羽     700桶 20桶 30束 130桶 100桶   10尺  
1485年分 9000疋 6振   4羽 11尺 40 150桶 20桶 30束 150桶 100桶   10尺  
総計 24300疋 15振 1頭 2羽 28尺 50 1680桶 70桶 90束 430桶 320桶 1 70尺 400
 

 上記表1の「幕府進物表」をみると、かなり量の贈答品を贈っている。これは、能登畠山の実力や将軍家と関係を悪化させない事がいかに重要であったかを感じさせるものである。注目すべきは「鰤」であって、この鰤はおそらく富山湾で獲れた鰤であると思われる。1562(永禄5)年の義綱政権で義綱奉行人が富山湾の鰤漁で網の規制をかけているが、すでに義統の時代から富山湾の鰤漁は盛んであった事が推察できるものである。
 義統と祖父義忠は朝鮮の史料『海東諸国記』と『成宋康靖大王実録』によると、朝鮮に使者を送り七尾で交易を図ったとも言われる。1455(康正元)年、「管領畠山修理代夫源義忠」の遣使来朝。1460(寛正)年、「惣大将畠山右金吾督源朝臣義就」の遣使来朝。1470(文明2)年、「管領畠山義勝(義統)」が僧を遣使として朝鮮に派遣し貢物を送り返礼を賜る。1473(文明5)年、「日本国京城管領畠山義勝(義統)」が朝鮮に遣使を派遣。1474(文明6)年、義勝(義統)が使僧を再び派遣。1480(文明12)年、「日本国管領畠山左京大夫義勝(義統)」が朝鮮に遣使を派遣。その使者によると義統は1477(文明9)年に明に貢船を派遣していると報告している。この朝鮮の史料が全て日本の状況を正確に記しているとは思わないが興味深い史料である。畠山義忠や義統が朝鮮の史料で「管領」を名乗っているのは単なる本人による誇張表現で実際の管領職を伴なったものではないと思われる。しかしこの交易が事実であるならば、義統は大内氏のような中国との交易で富をあげる領国経営のセンスと交易を実現できるだけの幕閣での権力と経済力があったことになる。真実はいかであろうか興味深い。さらに、その大内氏と能登畠山氏は縁戚関係であった。義統の母(畠山義有の妻で、賀茂別雷社、社家竹内氏出身)と、政弘の母は姉妹であり、さらに賀茂別雷社の社家・鳥居大路氏の実娘を義統が養女にし、大内政弘に嫁がせた。つまり、能登畠山氏と大内氏とは強い連携関係にあったようである。

 次に、義統の晩年の幕府外交を見ていく。1493(明応2)年4月の「明応の政変」で、10代将軍・足利義材(後の義稙)が細川政元によって廃され、新将軍・足利義高(後の義澄)が擁立された出来事である。同年6月に義材が支援者である畠山尚順の分国である越中放生津に逃れ、その時に畠山義統や冨樫泰高も参じ支援を表明した。若狭武田元信も在京したままだが、義材が上洛する際には支援を表明していた。神保長誠の文書でも義材の立場を「隣国各不存疎略之様候間、目出存候」とあり、一見義材の越中亡命政権の立場が順調であることを示しているように見える。しかし、義材越中亡命政権は1494(明応3)年8月に上洛を企てるがこの試みは失敗しているし、1497(明応6)年9月には越中を出て越前朝倉氏に身を寄せている。この事を考えると、1493(明応2)年の北陸勢の義材への支援表明は形式的であり、軍事支援を必ずしも約束したわけではないと思われる。
 実際、義統は1594(明応3)年12月に、幕府が行う法華八講(法華八巻を講じる法会のこと)の「京都八講供料」として三万疋を進上している(『尋尊大僧正記』明応三年十二月三日条より)。三万疋とは約300貫の価値であり、表1の進上の合計金額を上回るかなりの金額である。しかもこの法華八講は停止され、新将軍・足利義高の元服費用に転じられ、同月に義高は元服の儀を行っている。この多額の能登畠山家の進上金が義材と敵対する義高方(細川政元方)に渡る可能性は十分考えられる。事実上足利義高の元服代金であったのではないだろうか。そして義材と大内氏への遠慮もあってこのように回りくどい進上になったのではないだろうか。翌年1495(明応4)年2月に義統の内者の曾阿弥が能登国より上洛しており、その事情を説明していたとも言えまいか。義材も北陸勢の実情を見越して1497(明応8)年9月には越中を出て越前朝倉氏の下に動座し、1499(明応8)年に上洛戦に敗れたのち、北陸ではなく大内義興の下に逃れたものと思われる。

義統文芸活動ちぇっく!
 義統在京時は義忠の跡を受け、幕閣の中枢にあった。この時期、他の大名と交流があったと思われ文化にも精通していた。能登に下向した義統の下には、数々の文化人が下向している。
 例えば、能で有名な京の観世大夫氏重が七尾に下向して、義統に扶持を得て七尾城中で盛んに能が催されたと言う。また、1480(文明12)年義統の招請で和歌で有名な招月庵正広が能登に来訪すると、七尾で歌合など数々の興行を行った。翌年の歌合では招月庵正広が判者となり、義統や嫡子・義元の他に、三宅忠俊、平光知、佐脇宗隆、井上統英、飯川光助など家臣ら14名が参加している。また義統は「賦何船連歌」を作り自らその発句を詠んでいる(表2・表3参照)。義忠は連歌をしなかったが(詳しくは畠山義忠特集参照)義統は積極的に取り組んだようである。またその祖父義忠同様和歌などに長じた。さらに、この招月庵正広が能登に下向した様子が知られる「松下集」によると、義統は万葉集時代にあこがれ、七尾西湾の瀬嵐の海を明石の浦になぞらえて、柿本人麻呂廟を机島に建立し(注2)、同島で連歌を催していた。これらの素晴らしい文芸業績の数々は義統の文化水準の高さを示すが、さらに歌合などの家臣の参加から、家臣の文化水準も高かったことが伺える。


表2 「賦何船連歌」の発句
松風は 雪におさまる かした哉 (畠山)義統
いはほのかけも 水こほるころ  (加治)直盛
嶺たかみ 晴行月の なお寒て (三宅)忠俊
  表3 「賦何船連歌」の発句回数表
畠山義統 一句 俊喬 十五句
加治直盛 一句 玄阿 五句
三宅忠俊 十句 井上統英 八句
善誉 六句 祐厳 九句
寺岡経春 十句 忠清 四句
實春 七句 伊長 二句
立承 十四句 成有 一句
師有 七句

(注釈)
(注1)「須々神社文書」の「高座宮方上之保庶子分之神田之事」によると、在国した遊佐統秀が1478(文明10)年極月(12月)18日に義統送った書簡の返答が年内には到来しないだろうと述べているので、このことからも義統の能登入国は1479(文明11)年だということがわかる。
(注2)現在でも、石川県七尾市中島町の熊来の瀬嵐には、人麻呂社がある。

☆参考資料(義統花押)
義統花押

参考文献
川名俊「戦国期における守護権力の展開と家臣−能登畠山氏を事例に−」『ヒストリア』第248号、2015年
坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年
米原正義「能登畠山氏の文芸(一)」『国学院雑誌』72編11号.1970年
(共著)『七尾市史通史編』七尾市,1974年
(共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社,1981年
(京著)『日本の城下町6北陸』ぎょうせい,1981年
(共著)『地方別 日本の名族(7)/北陸編』新人物往来社,1989年

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