応仁の乱
[1467年〜1477年]
東軍(細川勝元主導)VS西軍(山名宗全主導)
- ●原因
- 将軍家の継嗣問題(義視対義尚)と河内畠山家の家督争い(政長対義就)が当時の有力大名である山名宗全と細川勝元の対立を決定的にし、この乱は将軍継嗣問題と河内畠山家家督問題の代理戦争として始まったが、京都だけでなく多くの地方大名などを巻き込み、日本全国に乱を起こし乱世を創った。いわゆる「戦国時代」の始まりである。能登畠山家当主である畠山義統は、弟・政国が義就の猶子となっていることもあり、この乱には西軍として参戦し、足利義視側(西幕府)に味方した。
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東軍(細川勝元主導) |
西軍(山名宗全主導) |
勝敗 |
DRAW |
将軍家 |
日野富子、足利義尚 |
足利義視 |
河内畠山家 |
<畠山尾州家>
畠山政久(弥三郎)
畠山政長 |
<畠山総州家>
畠山義就 |
能登畠山家 |
− |
畠山義統 |
能登勢主力 |
− |
畠山教国
畠山政栄
畠山政純 ETC・・・。 |
能登勢兵力 |
− |
三千人の兵で参戦 |
●経過(能登畠山家関連の出来事)
- 1467(応仁元)年、義統が三千人の能登勢を率いて入京(「応仁記」)。
- 同年6月、義統ら西軍の大名に将軍・足利義政が御内書を下し東軍への帰属を誘う。(「尋尊大僧正記」応仁元年6月2日条)
- 同年同月、京都の義統邸が京極持清方の放火により炎上する。(「綱光公暦記」応仁元年6月29日条)
- 同年10月、義統ら(土岐、山名他)西軍の大名が興福寺や東大寺らの勢力を西軍に誘う。(「経覚私要鈔」応仁元年10月29日条)
- 1468(応仁2)年4月、帰国しようとした能登兵と加賀守護・冨樫軍(東軍)が合戦となり、能登兵にかなりの被害者が出た。(「碧山日録」応仁2年4月23日条)
- 1470(文明2)年、畠山政国(義就の猶子となった義統の弟)が東軍に寝返った朝倉孝景に殺害される。(「尋尊大僧正記」文明2年10月5日条)
- 1476(文明8)年、山名政豊(西軍方)と細川政元(東軍方)の講和をはかり、その旨を義統など西軍の大名に伝える(「東寺執行日記」文明6年4月3日条)
- 同年、加賀の土一揆が能登国に打ち入り、一部占拠する。(「結番日記」文明8年3月22日条)
- 1477(文明9)年11月、西軍の不利が決定的となり義統ら(大内政弘、土岐成頼)が京都の自邸を焼き、京都を下る。義統は土岐と同行し美濃に下る。(「親長卿記」文明9年11月11日条)
- 上記よって、応仁の乱が終結する。
- 1478(文明10)年7月、足利義政と足利義視が講和する。ついで、将軍・義政が義統と土岐成頼を赦免する。(「尋尊大僧正記」文明10年7月17日条)
- ●合戦の影響
- 1477(文明9)年9月、西軍の主力である畠山義就が河内に逃亡すると、これを好機とみた将軍・足利義政が大内政弘の京都からの退去を要請しこれを政弘もこれを受託した。これより西軍の不利が決定的となったので、西軍の主力の一角を構成していた義統と土岐成頼は京都の自邸を焼きはなって下向した。翌年に義統は将軍・義政に赦免されたが、将軍との関係はそれ以降もなかなか好転せず、義統は上洛することができなかった。これが結果的に能登畠山家を「在京大名」から「在国大名」に変え大名権力基盤を強化する画期的出来事となった(応仁の乱で京都に残った畿内以外の大名家としては、若狭武田家が挙げられるが権力基盤は弱体化している)。多くの国では守護代が守護の実権を奪い、大名を傀儡化し下克上の世が創られたが、能登では守護代であった遊佐統秀が素直に義統の下向を受け入れた。それ故、在国した義統が強力な支配で能登畠山家の基盤の基礎を築き、後の畠山家の繁栄のに繋がっていくのである。(詳しくは守護大名の「在京」と「在国」の意味するもの参照)
- 参考文献
- 須藤儀門『室町武士遊佐氏の研究』業文社.1993
(共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年
(共著)『日本の名族(七)北陸編』新人物往来社,1989年
ETC・・・。
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