↑畠山義元イメージ像(畠山義綱画)
修理大夫、左馬助。能登守護、七尾城主。室町幕府御相伴衆。畠山義統の嫡男。 父義統の死去にともない1497(明応6)年に4代当主となる。しかし、1500(明応9)年兄弟で争いが起こり能登を出奔して越後に逃れる(明応九年の政変)。しかし、畠山家中の分裂を防ぐため越後長尾能景の斡旋もあり弟慶致と和解する。1508(永正5)年に能登守護に還任し、6代当主となる。1515(永正12)年9月20日死去。法名は興徳寺殿久峰徳昌大居士。 |
義元支配体制ちぇっく!
義元政権は3期に分かれている。
第1次義元政権(1497-1500)
権力者:遊佐統秀・隠岐統朝・波々伯部某
父・義統の近臣として活躍した隠岐統朝が、義元政権でも活発な活動が知られる。これは義元の領国経営展開を意識した活動であろうか。義元が統朝を重用したため、明応九年の政変でも義元派として出奔した。
第2次義元政権「義元在京−慶致在国体制」(1508-1513)
<義元派>隠岐統朝・波々伯部某・加治直誠(奉行人)・神保元康
<慶致派>遊佐統秀・遊佐統忠・・三宅俊長・遊佐秀盛
義元派と慶致派が2段階目の和睦となり、義元が守護に還任し、在京守護として活動する。義元は朝廷や幕府の行事に盛んに供奉するが、その時に義元の御供を務めたが加治直誠である。直誠は義元の側近であり、奉行人として活躍していた。一方で、弟・保寧院徳宗(畠山慶致)は家督を引退し、入道して在国して分国支配を行う。和睦の結果、能登でも義元派家臣も復権し、慶致派と共同で領国運営を行った(古文書A)。
第3次義元政権(1513-1515)
<義元派>隠岐統朝
<旧慶致派>三宅俊長
慶致が在国して義元に代わって領国支配を担当した結果、再び義元派と慶致派の分裂が再来し能登永正の内乱(1513年)が起こる。この結果、保寧院徳宗(畠山慶致)は失脚。義元は側近の加治直誠や神保元康らの重用をやめ、義元派と旧慶致派の両立を保つため隠岐統朝と三宅俊長が連署する形式が領国経営の基本となった。
就今度七尾江御出張、忠節神妙之篠、御年貢之拾分一 永代御免處也、彌於向後粉骨肝要之由、依仰執達如件、
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義元政治活動ちぇっく!
義元は父・義統の嫡男であったが、父とはあまり仲が良くなかったとも言われている。例えば、1480(文明12)年義統の招請で招月庵正広が能登に来訪する途中、近江の余呉に寄っている。余呉には義元と畠山被官の平光知の邸宅があり歌会を行っている(古文書B)。1478(文明10)年に能登に下向した畠山義統は、分国の能登と幕府のある京都とで連絡を持つために、その中間点である近江余呉荘を中継基地とし平光知を置いたと言われるが、それに義元も従って近江に赴いたのであろう。また邸宅があったということはそれが一時的な滞在ではなく、連続的に在住していたことを示すものである。義元の能登下向は1490(延徳2)年とされ(古文書C)、つまりそれまでは義元は義統の側にいなかったのである。一方で、1482(文明14)年に能登府中で行われた和歌会には弥次郎(慶致)の名前があり、父と共に七尾に在住していた事実が確認され、弟慶致が常に父義統と行動しているのである。この事実をどのように解すべきだろうか。確かに応仁の乱で将軍家の怒りを買ってしまった能登畠山家にとって対将軍交渉は重要な役目である。それを見越して義統の後継者たる義元を近江に派遣していたと見ることもできよう。しかし、一方で義統の兄弟(義元・慶致)に対する好き嫌いの感情があったのではなかろうか。そのため、在国していた弥次郎慶致に近寄る家臣も存在し、そのことが義元が家督を継承した時に義元派家臣(隠岐統朝・波々伯部某)と慶致派家臣(遊佐統秀・遊佐秀盛・三宅俊長特徴)の対立を生み、明応九年の政変という事態をもたらしたのではなかろうか。
義統が没する前年である1496(明応5)年には、義統が病床に伏しており祇園社より祈念使者が来るが、その時の隠岐統朝の文書(古文書D)で使者を迎えたのが、義統室に続き、義元・慶致と見え、後継者として一族の中で上位者として見られているのがわかる。一方で、この文書にも弟・慶致が登場するあたり、潜在的な慶致支持派も居たであろうことが推察される。
さて、次に義元政権期の政治活動を見ていこう。第1次政権期では、隠岐統朝の発給文書を中心に賀茂社関係の公用銭を進納してたり(注1)、1499(明応8)年に義元自身が能登一宮の気多大社に領地を寄進・安堵しているなど領国経営を徐々に進めている記録がある。また、弟慶致が御土御門天皇に真魚を進上する一方で、兄義元は1498(明応7)年、御土御門天皇から能登国御料所の未進年貢進納分を催促されている。第二次政権政権期では幕府重視の政治姿勢を展開している。例えば10代将軍義稙の復権を支持する政策である。将軍・足利義材(義稙)が細川政元に追放された後も義元は支援した事から、義元は義材(義稙)に重用されることになる。義材(義稙)の将軍環任後、義元は自らも上洛し、細川・大内らとともに御相伴衆に列し以後は在京したのである。このことから、兄義元は幕府重視の外交姿勢であり、弟慶致は朝廷重視の外交姿勢であると見ることもできる。
その他の義元の領国姿勢としては、従来の当主とは異なり惣持寺 として興徳寺を建立したというものがある。その場所である鳳至郡三井保は長氏と温井氏の中間に位置し両氏の勢力に釘をさしたと東四柳氏は指摘している。義元が領国経営に腐心した姿が垣間みえる。
ただ、義元が政権に就いた1497(明応6)年〜1515(永正12)年までの僅か18年間に、明応九年の政変や、義元自身の守護還任、能登永正の内乱等などと大きな体制変更が3度も起こっている。戦国時代の大きな転換期とは言え能登の混乱は激化の一途を遂げていたと言える。その理由は、
(1)父畠山義統の側に居らず寵愛を受けた弟・慶致への不満から権力手中に固執した。
(2)兄弟対立がゆえに、家中が義元派と慶致派に分裂したため、家中が分裂し不安定になった。
以上の2つの理由が考えられ、ゆえに次代の畠山義総期になって安定したのは、義総が優秀であったことにもあるやもしれぬが、慶致の実子であり義元派と旧慶致派が合致したことに加え、1513(永正10)年の能登永正の内乱以降慶致の動きが見られず、旧慶致派が落ち着くことに加え、義元の実子である宮内大輔などが家中で擁立されずにいたこと(注2)であるも要因と考えられる。
(上略)
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(延徳)ニ庚戊、能州へ左馬亮(助)殿(畠山義元)御下向、義下(元)御事也 |
尚々、毎々御祈念、公私祝著千万候、連々可申述候、 九月五日之御礼、同十日ニ拝見申候、祝著之至候、仍屋形(畠山義統)江御巻數、 則披露仕候、目出度頂戴之由候、尤以書状御返事雖可被申候、中風氣養生之時分 候之間、無其儀候、自私心得可申入之旨候、次女中(義統室ヵ)・左馬助(畠山義元)・ 彌二郎(畠山慶致)、何以申聞候、是又目出祝著之由候、尚々御祈念奉憑候計候、 將又私へ御巻數一合下給候、誠以過分無極存候、委細ヘ林坊へ令申候、 定可有傳達候、萬端期後信之時候、恐々謹言
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義元外交政策・出陣履歴ちぇっく!
義元は、兄弟闘争に敗れて能登を出奔した明応九年の政変(1500年)では、越後の上杉氏の下に逃れ客居することになる。義元が越後を頼って客居したということは、その前提に越後・上杉氏が義元を支援していなければならない。このことから間接的にではあるが、義元は周りの勢力をうまく取り込み味方につける外交能力があったと言えよう。
また、能登畠山氏研究の第一人者である東四柳史明氏の論文により、畠山義元と慶致の和睦について新説が提唱された。従来は1506(永正3)年の能登の他全国各地で一向衆が蜂起したことで、能登畠山氏の分裂を恐れ1508(永正5)年に兄弟の和睦がなり、義元が守護に還任し、慶致の子・義総が義元の後継者に指名されたとしていた。しかし、新説では(古文書E)にみられるように1506(永正3)年の段階で義元と慶致の子・二郎(後の義総)との連携がみられるとし、1508(永正5)年以前に和睦がなったと考察している。さらに東四柳氏は、1503(文亀3)年の足利義澄が能登守護畠山慶致を「能登守護未二御礼申一、然則敵国也」(「鹿苑日録」文亀3年8月3日条)と「敵国」称したのを、この時点ですでに義元と慶致の和睦がなっていた徴証と述べ和睦の時期を早められた。和睦をした後も義元は守護還任の1508(永正5)年まで越後に客居していたということは、能登畠山氏と越後長尾氏との連携が必要であり、東四柳氏は「長尾能景の勧めで義元との対立関係を解消し、北陸の守護勢力連合の一翼を担い、政元と結ぶ本願寺=一向一揆を制する側に転じていたためであろう。」と、義元と慶致の和睦を斡旋した人物に長尾能景の存在を挙げている(注3)。
私は1503(文亀3)年の和睦は「現状を追認する和睦」だったとする説である。つまり慶致が守護を引き続き務め、越後に居る義元と連携を図り一向一揆を制する側になる、というものである(詳しくは「明応九年の政変」参照)。しかし1508(永正5)年には義元が守護に還任し、慶致は入道して保寧院徳宗と称した。その理由は、義元は義稙政権の後見者の一人として在京大名になったことに加えて、前守護・保寧院徳宗(畠山慶致)も上洛して幕閣の一翼をなしている。現守護・前守護が揃って分国・能登を離れては隣国加賀で「両流相論」と呼ばれる一族対立が原因で冨樫家が滅亡したように、この「明応九年の政変」はともすれば、幕府との関係から一向一揆による能登畠山家の滅亡の可能性や、一族対立から内乱状態に発展しかねない不安定要素があった。その状況をなんとか解消に導くために能登畠山家の再統合を義元と慶致は行ったのである。すなわち、義元派と慶致派が再統合したことで家中にいらぬ不具合が起きることを防いだと考えられる(詳しくは「明応九年の政変」参照)。
こうして義元は慶致の子・畠山義総を後継者とすることを条件に守護還任した。義元は将軍・足利義稙を支えるべくすぐに上洛したようだ。1509(永正6)年12月には義稙邸で「猿楽」を細川高国・大内義興らと共に鑑賞している。また、1511(永正8)年8月24日に足利義稙が京舟岡山で将軍義稙・細川高国が政敵である前将軍・義澄・細川澄元等の敵軍を破った合戦(舟岡山合戦)では、「尚通公記」によると「公方衆二千人計、細川右京兆(高国)三千人計、大内左京兆(義興)衆八千人計、畠山修理大夫(義元)衆三百人計、都合一万五六千計」としているなど、義元は義稙軍の主力として参加している。
さらに、1513(永正13)年に将軍義稙が細川高国・大内義興と不和になり伊賀に隠遁した時、困った幕閣のメンバーである細川高国、大内義興、河内守護・畠山尚順、畠山義元はは政所頭人伊勢貞陸邸で談合(打ち合わせ)をし、その結果将軍に命に背かない起請文をもって、将軍の還任を実現した。将軍・義稙が帰洛するさい、高国、義興、尚順、畠山稙長(河内守護畠山一族)らとともに、畠山義元とその後継者である畠山義総も近江の大津まで出迎えたと言われている(木久史「守護軍事動員に対する代銭奉仕について−能登守護畠山氏の事例−」『出土銭貨』26号,2007年より)。幕閣の有力者の中で細川高国・大内義興とは不和になったと言われるのに対して、義元の名は挙がっていない。それなのに、談合や起請文、帰洛の際の出迎え等に義元の名前が見える。よほど将軍・義稙は義元を信頼していたと見える。このように、将軍・義稙(義尹)に義元が重く用いられた理由はなんであろうか。大内義興と、義元は又従妹であったらしい。従って「義尹将軍復帰の第一功労者である大内義興の親族であることも大きかった。」(『地域社会の史料と人物』北國新聞社.2009年.P33より)と指摘している。
このように義元は将軍・義稙の復権に尽力するなど一貫して幕府重視の外交姿勢であり、そのため幕府内での政治的地位もかなり高かったと言える。また永正の乱(1514-1515)が起きた時、「七尾」初見史料なる文書で七尾の百姓に味方すれば年貢の1割を永代免除すると命じており、改めて中世能登でも兵役が百姓の力に拠っていた事実が伺える。義元は激動の能登を生きた当主のひとりである。
於二其方一無二如在一候由、自二二郎方一申越候。神妙之至候。 猶以其心得可レ為二肝要一候。謹言。
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義元文芸活動ちぇっく!
義元は、義統の影響を受け文芸にも通じていたらしい。1481(文明13)年3月には義元が父義統とともに、能登府中義統邸にて歌合を催している。そこでは義元も歌を詠んだ(古文書F)。その他にも、足利義稙(義材)が将軍に環任し義元も在京して将軍の御相伴衆となった頃の1512(永正9)年4月20日には将軍義稙を自邸に招待し、「初め近江猿楽を、のち今春による猿楽を観賞に供し」(注4)たという。また、三条西実隆や月村斎宗碩や小幡永閑らの風流な士とも交流があり懇意にしていたと言われる。
一番 左勝 義元 心せき浪にはあらき浦かせもしかの都のはなのさかりは 右 立承 たつた山ゆふ付鳥も色ならて花しろたへに明る空かな |
(注釈)
(注1)義元の父・義統の母は賀茂別雷社の社家・竹内氏の出身である。従って能登畠山氏は賀茂社と縁戚の関係となり、守護請の進納は欠かせない重要なものだったと思われる。
(注2)義元の実子である宮内大輔などが家中の義元派に擁立されずにいた理由は、1513(永正10)年に起きた能登永正の内乱における畠山義総の調停が功を奏し、家督継承が確定した旧慶致派の義総の後継が揺るがぬうちに1515(永正12)年で義元が没したためであると言える。もし義元がもっと存命であれば宮内大輔らの復活もあったかもしれない。
(注3)もともと東四柳氏は『志賀町史・沿革編』(志賀町.1980年)において、一向一揆の勢力が強大化し、それが能登でも徐々に進行し越後長尾氏が上記の条件で兄弟の和解を勧めたと、長尾氏が和睦斡旋をした可能性を指摘している。
(注4)米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社.1976年
義綱公式見解「激動の能登を乗り越えた人物」 |
☆参考資料(義元花押)
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