永禄9(1566)年11月頃、守護の畠山義綱が父畠山義続や義綱派の家臣と共に長続連、遊佐続光、八代俊盛らに追放される事件が起こった。ここでは、何故のこのようなクーデターが起こったのか。又、起こり得たのか。この政変によって能登畠山家にどんな影響があったかを考える。義綱と有力重臣との関係を中心に、「永禄九年の政変」を考察する。 |
はじめに
1566(永禄9)年能登畠山家9代当主である畠山義綱とその父徳祐(義続)が長続連、遊佐続光、八代俊盛によって追放されるという大事件が起こる。能登での下剋上を想起させる大事件が、今まで論文にて明らかにされたことはない。わずかに、東四柳史明氏が義綱の人物像を論じる視点から永禄九年の政変を「義綱の積極姿勢が重臣層の不満を招来し、数年後にして、義綱父子の能登出奔事件が惹起するという、領国の内的矛盾を醸成することになった」と評価するに留まっている。従って、本格的に永禄九年の政変の要因・意義・その後の影響が論じられた事は無かったのである。ここでは、永禄九年の政変について疑問を投げかける事を目的に、若干の基礎的な論点を提起したい。
(1)永禄九年の政変の起因
永禄九年の政変について、追放された本人である畠山義綱は、曲直瀬道三に向けてその理由を下の(古文書A)で「家中不慮之儀」と畠山家中で思いがけないできごとが起こったと理由を述べている。その思いがけない理由については『長家家譜』など長氏関連の文献の説を中心に従来は以下のような理由付けがされていた。即ち「義綱が好色、酒気に浸った暴君であったとし、その義綱が嫡男の義隆を退けて庶子の義有を家督継承者にしようとしたため、義綱が放蕩に耽っていて外出していた時、重臣たちが連合して七尾城内の義綱の屋敷に火を放ち、クーデターを起こした。城内の異変を悟った義綱は陸路で越後に逃げた。」(片岡樹裏人著『七尾城の歴史』より)というものである。そしてこれがほぼ最近までの通説となっていた。しかし、東四柳氏が義綱の政策的な積極性を明らかにする(『東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号,国史学会,1972年)など、永禄九年の政変が起こった理由が最近では、義綱の行動の外に認められるようになった。即ち「大名権力回復への積極政策が重臣層の反発を招き追放された(一説にはさらに、奸臣の粛清を謀ったため追放されたとも言われる)。」という理由である。ここでは筆者も後者の視点で、永禄九年の政変が起こった要因を論じてみたい。
『長家家譜』に書いている事は、近年進んでいる畠山研究とだいぶ違うことが明らかになっている。例えば、1542(天文11)年の石塚の合戦は、現在では1550(天文19)年の畠山義続と七党と呼ばれる温井総貞と遊佐続光らを中心とする争い(七党の乱)であったということが有力視されて(注1)おり、長家関連資料は一概にそのまま史実として受け入れるにはいかない資料なのである。
そう考えてみると、江戸時代まで前田家家臣として残った長家は、1566年に畠山家当主の義綱を追放している事実を長家関連等の資料で義綱の人物像を無能・暴君と酷評することによって当主追放を正当化してきたと言う事ができないだろうか。とすると、長家関連資料は義綱の人物像を歪曲していると言える。現在の歴史書でも長家関連の文献を参考にした為、義綱の評価が著しく低くされることがある。しかし、能登畠山研究で第一人者の東四柳史明氏は多方面で多大な活躍を知らせる義綱が、長家関連で知られる無能な人物とは思えないと「畠山義綱考」(前掲書)でも述べている(併せて拙稿畠山義綱特集も参照いただきたい)。また、長家関連資料で続連が「八代俊盛なる人物を義綱が寵愛し・・・」として俊盛を引き合いに義綱の無能を説く説明がある。八代俊盛とは、弘治の内乱時に越中椎名氏から義綱軍への援軍として派遣されたが、そのまま能登に居着いた人物である。しかし、この永禄九年の政変では、長続連は批判したはずの八代俊盛と共謀して変を起こしており、さらにその後の義慶政権では、続連と共に俊盛が年寄衆に就任するなど実際の事実とは合い入れないのである。このことからも長家文献によるこの政変における信憑性は低いと考えられる。よって長家関連資料の言う政変の根拠となった義綱無能説も否定されると言えよう。
次に、義綱の大名権力回復政策が重臣の反発を招いて起こったとする説は、私はかなり信憑性が高いと考える。それは、義綱の領国再編期(1555年~1566年)の改革は、義綱側近である奉行人を中心に政治が運営されており、長続連・遊佐続光ら政変の首謀者ら年寄衆は当主・義綱の補佐に甘んじていたのである。さらに、義綱は側近の飯川光誠を年寄衆にしてその中心的な役割を担わせ、他の年寄衆の権力を抑制していた。しかし、この義綱の改革には能登畠山氏の政治体制が抱える内的矛盾と言うか限界があった。それは、大名直轄軍が存在しないということである(詳しくは畠山義綱特集参照)。即ち重臣の軍事力に支えられている能登畠山氏は、強力なリーダーシップを採れる軍事的背景が大名には存在しないので、重臣権力削減には重臣の同意が必要という内的矛盾を包括しているのであった。それゆえ弘治の内乱で専制支配を確立した義綱であったが、領国改革・再編においても長続連、帰参を許した遊佐続光たち重臣らに配慮する事が求められたのである。そしてさらに一層の大名権力拡大を狙うと重臣たちの猛反発に遭い、追放されてしまうという憂き目にあってしまったのである。まさか弘治の内乱で共に戦った続連や続光が自分を裏切り追放するとは思わなかったのであろうか。
では次に、具体的に永禄九年の政変の起因を古文書から考えてみる。
就二家中不慮之儀一、至二坂本一上津候。仍、連々申談候医道之儀、 此度於二相伝一者、入魂之筋目、可レ為二祝着一候。将亦、近日中気相 煩候。猶冨来小次郎可レ申候。恐々謹言。
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(2)覚慶への支援表明から見るもの
古文書(B)「和田文書」
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古文書(C)「和田文書」
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上記古文書(B)・(C)は(和田)惟政を介して覚慶(後の義昭)に送った返書である。前欠の断簡書状ではあるが、内容はどちらも覚慶に対する支援表明である。返書というからには、当然覚慶自身が「支援依頼」をしたということが言える。さて、上記2つの古文書は差出人が違う。古文書(B)は長続連が送ったもので、古文書(C)は義綱の父・徳祐(義続)が送ったものである。なぜ、能登畠山氏一族とは別に、畠山家被官である続連へ別個に覚慶が支援依頼をしたのであろうか。それは、長家が依頼に関しては、畠山氏とは別の特別な存在であったと考えるべきである。この時期の長家は能登畠山家の重臣として活躍していたが、もともと長家が代々奉公衆として将軍直属の国人であった家柄だったからである。長家は室町中期まで将軍直属の奉公衆であり、足利家に忠実に仕えていた。そのため、畠山家の家臣に組み込まれたといえども長家には別個に支援依頼をしたのではなかろうか。覚慶の支援依頼は関東管領・上杉輝虎(謙信)や畿内の諸大名にも及んでいるのであるが、わざわざ畠山家の重臣である長家に文書を発給したということは、それほど長家の軍事力に覚慶が期待していたとも言える。つまりこの(B)(C)の文書は畠山家中で長家が相当の軍事力を有していたという徴証にもなろう。
さて、(C)で能登畠山家当主である義綱が文書を発給せず、徳祐がこの文書を発給したのはなぜであろうか。この時期の畠山家の外交文書は義綱・徳祐父子の連署で発給されている。それゆえ、徳祐単独で発給された例は上記以外にないのである。これを東四柳史明氏は「能登畠山氏による覚慶への快諾が、公的な表明を避け、裏面的支援の受諾を匂わせるものであった事情を推考させる。」(「能登畠山氏と一乗院覚慶-「畠山義綱考」補遺-」(注2)より)と指摘する。能登畠山氏は5年にもわたる弘治の内乱(1555年~1560年)からの領国復興の途中であり、積極的な支援はできないというものだったのかもしれない。しかし、その「裏面的支援の受諾」という態度も翌年の1566(永禄9)年になると一変する。
資料(D)『資料綜覧』(十)永禄九年七月十六日の条
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古文書(E)「本多文書」
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資料(D)はおそらく古文書(E)を見て書かれたものであろう。これによると1566(永禄9)年に足利義秋(義昭)が義綱に対して出兵を促す文書が届いたが、7月16日になって義綱は「隣国等の擾乱によってこれを辞退」したとしている。一年前の支援表明を一転して翻したのである。ではなぜ方針を転換したのであろうか。まず「隣国等の擾乱」という理由から考えてみる。東四柳史明氏は(注2)の論文で「理由としてあげられている加賀門徒の内訌については、当時の加賀ではそれを窺わせる徴証は知られず、それが畠山氏側の方便であったのがわかる。」としている。それに対して、田中政行氏は当時の加賀の状況を謙信の加賀出兵の動きに対して、「数多くの信仰集団の組を一個の武装集団に変貌させ、加賀一揆予備軍の立場を明かにした。」(「畠山義続に関するニ、三問題(下)其のニ」より)と述べており、加賀では反守護勢力の勢いが徐々に高まり、これに呼応して能登加賀国境で一揆予備軍が軍事行動を起こそうとし、義綱はそれに対する軍事力を割かねばならなかった。それゆえ義綱は「隣国等の擾乱によってこれを辞退」したと述べている。もう一方の能登の隣国である越中の状況は、1562(永禄5)年に義綱の仲介によって神保・椎名・長尾(上杉)との和解が成立しており、椎名氏の動向が多少不安定とはいえ、さほどの混乱はなかったと思われる。
とすれば、加賀の一向一揆の動きから義綱が出兵を辞退した理由が無くもないのである(注3)。しかし、本当に「隣国等の擾乱」だけが出兵辞退の理由であろうか。この出兵辞退の古文書(E)が1566(永禄9)年9月に発給されたものだとしたら、永禄九年の政変で義綱・徳祐父子が追放されるわずか2ヶ月前の文書となる。前述のように、永禄九年の政変が重臣たちの義綱専制に対する反発だとすると、すでにその兆候がこの時期にあったと考える方が妥当であろう。だとすると、義綱が出兵を辞退した真の理由は大名専制体制の揺らぎに有るのではなかろうか。対外戦略で出兵すれば多大な兵力と費用を使う。それに耐えうるだけの求心力を義綱はもっていなかったのではなかろうか(注4)。
では、何故「隣国等の擾乱」という理由を前面に用いたのであろうか。これは前述した東四柳氏の「畠山氏側の方便」であったという見方ができないであろうか。上意を方便を用いて断るというケースは他の大名にも多々見られる。山田康弘氏によると「永禄元年ごろ、甲斐の武田信玄も、将軍義輝から命じられた越後の長尾景虎(上杉謙信)との和平を破る際、自分としては将軍の上意を奉じて和平に向かっていたのだが、長尾方が上意を無視し、武田領を放火したことから仕方なく再戦を決断せざるをえなかったのだ、と将軍に弁明していた。(『戦国遺文』武田氏編、六〇九号)」(山田康弘『戦国時代の足利将軍)』吉川弘文館,2011年,P48)と指摘している。
では、なぜ畠山義綱は方便をついてまで断ったのか。畠山氏は足利一門であり、室町幕府とは密接な関係があり御相伴衆などにも任命されていた家柄であった(詳しくは畠山満慶特集、畠山義総特集など参照)。それが父・義続政権時代に領国の内乱で疎遠な関係となっており、義綱は幕府と密接な関係を復活させようと試みていたことが知られている(詳しくは畠山義綱特集参照)。大名専制体制の揺らぎが見られるということは、反義綱派の勢いが増してきたことが当然考えられる。そのために将軍と良好な関係を保ち、自らの政権の正統性を保つことで反逆を抑え込もうとしていたと考えられまいか。そうであれば、永禄九年の政変の起因である、義綱とその政権を支える重臣の仲は1566(永禄9)年9月の段階で危機的な状況を迎えていたと言うことができよう。
さてもう一歩進めて、義綱と長続連との関係を見てみよう。1565(永禄8)年7月には畠山家と同一歩調で覚慶(義秋・義昭)に支援表明した続連であるが、義綱が義秋の出兵を辞退した時どのような行動をとったのかは続連の発給文書が無いのでわからない。ただ、政変の首謀者の一人に挙げられる続連であるから、当然家臣との仲が危機的状況であったと思われる1566(永禄9)年9月の時点では義綱との仲がかなり悪かったのではなかろうか。とするとその仲が悪くなった原因はなんであろうか。これは全くの推測ではあるが義綱の「出兵辞退」が関係しているのではなかろうか。長家が将軍直属の奉公衆であったことを考えると、少なくとも幕府再興のための出兵を辞退するという義綱の行動には不満であったのではなかろうか。さらに、義綱が出兵辞退の書状を送った数ヶ月に、義綱父子を追放する永禄九年の政変が起こったことを考えると、この出兵辞退が追放劇に影響したとも考えられる。
(3)義綱追放後の影響
では、最後に義綱を追放した事によって、どのような影響があったのかを見ていこう。まず、下の(表1)を見ていただきたい。これは、義綱が追放された時、義綱に付き従って近江まで亡命したリストである。意外に多くの人物が義綱に付き従っていることがわかる。家臣に追放され、権力を剥奪された人物にこれだけ多くの家臣が義綱に付き従ってくると言うのは何か理由があるはずである。その理由はなんであろうか。
武将名 | 追従後の役割 | 能登御入国の乱に参加したか? | 備考 |
飯川光誠 | 近臣(義綱を補佐) | 参加-義綱軍中枢 | |
井上英安 | 義続側近 | 山城東福寺との交渉役 | |
熊木続兼 | 義綱側近 | 参加 | |
佐脇綱盛 | 同行 | 寺社の招誘工作 | 後に離反し義慶方に復帰 |
神保周防守 | 同行 | 参加(馬廻衆)-義綱軍主力 | |
富来綱盛 | 同行 | 参加-曲直瀬道三交渉役 | |
三宅総賢 | 同行 | 参加-別働隊を率いて奮戦 | |
遊佐孫右衛門尉 | 同行 | 参加(馬廻衆) | |
八代藤五郎 | 同行? | 参加-敗退する時義綱に臣従 |
義綱は父・徳祐と共に重臣たちの合議体制である七人衆(詳しくは畠山七人衆体制と権力闘争参照)を解体させ、温井氏ら抵抗勢力も能登から追放し弘治の内乱を平定することで、義綱専制支配を確立した。この専制支配では前述のように長続連・遊佐続光ら年寄衆の権力を削減して、義綱側近の奉行人を重用することで政治を行った。このことから、義綱に優遇されたグループ(親義綱派)=奉行人を中心と、義綱に冷遇されたグループ(反義綱派)=年寄衆を中心に分かれたと言えるではないか。そして、義綱を追放した首謀者である続連・続光は反義綱派に属し、上記に挙げる義綱に付き従った人物はほとんど親義綱派に属している(亡命した義綱とその家臣たちの様子については拙稿「義綱亡命政府」の基礎的考察参照)。また、笠松但馬守が一時義綱方へついたこともあったように、政変後の能登国内でもまだまだ潜在的義綱派が多数存在したと思われる。さらに、後年の義綱が能登奪還を目指して1568(永禄11)年に挙兵し能登に入国した能登御入国の乱をみると、義綱方には上杉輝虎(謙信)、神保長職らが味方し、特に神保氏は積極的に義綱帰国工作を図っていたようだ(注5)。本願寺は義綱方の味方をしなかったようだが、考え方を変えると義慶方を積極的に支援する事も無かったようである。越中椎名氏については能登御入国の乱で義綱軍を支援する目的で能登に進行した上杉軍が突然の越中椎名氏の裏切りによって撤退するので、反義綱の立場と言えるが、これも裏を返せば当初は椎名氏も義綱方と言うことが言えるのである。このように多数の家臣を付き従え、また他国の諸大名も義綱を支援していると言う状況では、義綱は単なる「追放され権力を剥奪された大名」ではなく、"チャンスがあれば能登を奪還できる人物”と言うことができる。そうであれば、もし義綱が大名に復帰すれば親義綱派の側近は再び優遇される。だからこそ義綱に付き従って、義綱が能登を奪還する日を待っていたのではないか(注6)。
一方、その反対に続連・続光らが義慶(1566年当時は元服していないので幼名次郎)を擁立してできた、新生義慶政権は、国内に多数の潜在的反義慶派(即ち潜在的義綱派)をどう抑え、多くの敵対関係を抱える四面楚歌状態の対外関係をどう処理していくかという難題を抱えて、政権を発足させていたのである。これらの多くの問題に対して義慶政権の重臣たちはどういう行動を採ったのか。それは義慶の当主擁立こそが国内の潜在的義綱派の牽制、対外関係の打開策であったと言えるのだ。当主義綱を追放すれば、国内が二分する争いになるばかりか、義綱と親しい神保長職・上杉輝虎と敵対することを重臣たちは十分知っていたはずである。であるから、近江に逃れた「義綱亡命政府」に対して、義綱追放後の能登では重臣達が自ら下剋上して領国経営を行うのではなく、形式上能登畠山家の当主(=義慶)を義綱の後継者として擁立し、その新政権の正当性をアピールすることが必要となったのである。その例は、義慶政権の下で修理大夫の官職就任、一宮の気多大社の本宮造営という中央政権への擦り寄る政策を実施した(詳しくは拙稿畠山義慶特集参照)事等が挙げられる。これらの政策で、当主追放と言う汚名を隠し、正当な政権が後継したと対外的にアピールし、それと同時に国内武将の義綱派への離脱防止、対外政権への融和政策を採りやすくしたのである。これは、義綱派が「亡命政府」としてその正当性を主張している限り必然的に続くものであった。
(注釈)
(注1)久保尚文『越中中世史の研究』桂書房、1983年による
(注2)東四柳史明「能登畠山氏と一乗院覚慶-「畠山義綱考」補遺-」『書状研究』創刊号.1974年
(注3)また、この時期越後上杉氏や越前朝倉氏が領国の事情から出兵に消極的であったことも、義綱が出兵を辞退させたことと関連があるであろう。
(注4)古文書(D)の文書で、義綱の求心力のなさから出兵を辞退したとすれば、古文書(B)で当主の義綱ではなく父徳祐が文書を発給し「裏面的支援の受諾」になった理由は、これもまた義綱の求心力低下に意味づけられないだろうか。古文書(B)は永禄九年の政変のおよそ一年前の時期にあたり、その頃に少し家臣の反発の兆候が出始めていたと考えることもできる。
(注5)神保長職が積極的に追放された義綱を支援した理由は、1562年謙信と長職との合戦で、義綱が仲介に入り、難を逃れたことに端を発する。それにより、越中神保政権は義綱政権の後援を受けていたので、義綱が亡命するというのは、神保政権自体が動揺する事に他ならないからである(詳しくは北国の政治秩序「畠山体制」参照)。
(注6)事実、1568(永禄10)年の義綱による能登御入国の乱が失敗し、義綱の能登復帰の可能性が遠のいた後は、「義綱亡命政府」から離脱するものが多数出現している。
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