畠山七人衆体制と権力闘争

 1551(天文20)年に成立した畠山七人衆。この体制は4年後の1555(弘治元)年に専制支配を確立したい義綱が温井紹春(総貞)を暗殺する事により消滅する。ここでは、畠山七人衆体制がどういう目的で作られたのか、能登畠山氏の政局に影響を与えたのかを考察したい。

はじめに
 能登畠山氏は7代当主義総が死去した跡、畠山駿河守の能登侵攻や能登一国の徳政令発布により政局が混乱した。その為、能登では1551(天文20)年に重臣達の合議体制で政局運営する「能登畠山七人衆」体制が成立したというが、本当にそのような目的で成立したのであろうか。ここでは畠山七人衆の成立過程や崩壊した理由を考察したい。七人衆体制については東四柳氏の「畠山義綱考」(注1)が畠山義綱の動静と合わせて論じていたり、川名俊氏が「戦国期能登畠山氏と本願寺・一向一揆」(『地方史研究402号、2019年)などで本願寺との関係で論じられていたりする。しかし、「畠山七人衆体制」が能登畠山氏の治世に多大な影響を与えたにも関わらず、あまり論じられていない。それゆえ、ここではその成立過程から崩壊までを論じていく。

(1)畠山七人衆の成立とその目的
 能登畠山七人衆が知られる文書は古文書Bより1551(天文20)年の連署である。これによると七人衆のメンバーが温井備中守入道紹春長九郎左衛門続連、三宅筑前守総広、平加賀守総知、伊丹宗右衛門総堅、遊佐信濃入道宗円、遊佐美作守続光であることがわかる。1554(天文23)年に成立した七人衆と区別する為、ここでは古文書Bに見られる七人衆を「第一次七人衆」とし、古文書Dに見られる1554(天文23)年に成立した七人衆を「第ニ次七人衆」と表記する。尚、特に表記せずただ「七人衆」とした場合には「第一次七人衆」の事を示すとする。

(古文書A)「本成寺文書」
「本成寺  菩提心院」
孫次郎(斉藤孫次郎利家ヵ)より状当来候へ共、(中略)

歸國已来無覚束過行候之處ニ、使僧太義二被越候、其許様躰承候而、満足之至候、

一、當寺少納言殿能州へ訴訟候て、九月始此ニ迎船来、愚老も大義して仕立候て、則御屋形(畠山義続)出仕、親父本地之内、百計之所被賜候て、勸持(日導)も覚子も大慶、及来春者、寺建立之企相半ニ、候處ニ、能登國二破候て、屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱候、彼少納ハ何手へ被成候も未相聞候、陸地ハ寺嶋と倉(鞍)河を取合にて、鳥も不通候、水路ハ時分柄之義にて候間、使節往覆不涯候、知存を遣候へ共、半途より還候、旦方より飛脚被越候、四、五日も過候者、いかなり共可来候哉、(中略)恐々謹言
(天文十九年)十月十九日  菩提
  日覚(花押)
(異筆)「天文十九年十月廿七日歸著
遊佐と温井を大将として七頭が守護を取巻いたので大乱に至った。

(古文書B)「東京大学所蔵文書」
 悳祐(花押)
能登国鳳至郡諸岳村之事、為悳胤(義総)搭頭領寄進也、永可全知行候、仍執達如
 天文廿年五月廿三日
(温井) 紹春(花押)
(長) 続連(花押)
(三宅) 総広(花押)
(平) 総知(花押)
(伊丹) 総堅(花押)
(遊佐) 宗円(花押)
(遊佐) 続光(花押)

 畠山義続の前の当主である畠山義総は、当主を1515(永正12)年に継承すると、死去する1545(天文14)年まで安定した政権運営を行ったことで知られている。それは、守護代の家柄である遊佐嫡家を退け大名権力を向上させる一方、微妙な家臣団のバランスを保って政権運営を行ったからである。

 しかし、畠山義続が家督を継承してから畠山家の政治状況は、その畠山義総が巧みに重臣達のバランスを取って安定したものであり、その本人の死去に伴いバランスが失われたと考えられている。そこで守護方に対する国政の運営に不満を持つ遊佐続光温井総貞を大将として「七頭」(古文書Aより)が守護方を取り巻き、大乱となった七頭の乱が1550(天文19)年に起こった。この戦いは守護方対七頭(重臣達)の戦いであり、直轄軍を持たず軍事的基盤に弱い守護方(能登畠山氏の軍事組織における考察参照)は七尾城への籠城を余儀なくされ、さらに七尾城は落城の憂き目にあい、結果的に守護方は敗北した。これはおそらく、畠山義続の家臣間の利害調整がうまくいかなかったのが原因ではないだろうか。大名権力が家臣団権力の上位に推戴されるのは、家臣団間の利害調整を期待してのことであるから、それがうまくいかなければ(納得できなければ)、家臣団自身での相論(紛争)解決に乗り出すことになる。おそらく義続の利害調停がうまくいかず引き起こされたのが七頭の乱なのであろう。この乱は、身分が上の者を陥れたとして、是ハ天下の仕付見(ミセつけ)御座候」 (『棘林志』より)家中への見せしめとして、温井総貞、遊佐四右(後の遊佐続光ヵ)、遊佐信州(後の宗円)、遊佐左馬(秀倫ヵ)、長九郎右(左)衛門(長続連)、平殿(総知)、三宅次郎右衛門、伊丹某(続堅)遊佐四右、遊佐信州(後の宗円)、伊丹某である。さらに大名である畠山義続も落髪して入道する結果となった。乱自体は七頭方の勝利であったが、身分的な事を考え、形式上は痛み分けとしてみせしめの落髪が行われたのであろう。
 この乱は、従来「石塚の合戦」として1543(天文12)年に起こり、遊佐と温井の対立から始まる合戦とされていたが、研究が進んで1550(天文19)年の守護方と「七頭」の争いが誤伝されたものであることは七頭の乱コンテンツでも取り上げた。(古文書A)には遊佐・温井総貞の両大将以外の「七頭」の具体的な名前は書かれていない。しかし、おそらくそれは翌年の1551(天文20)年に(古文書B)で見られる「畠山七人衆」とメンバーは同じであると考えられる。それは、守護方に「責任を取らされた」はずの温井紹春(総貞)が「畠山七人衆」として復権している(古文書B)からである。さらに言えば、遊佐続光・遊佐信州(後の宗円)も復権している。七頭の乱の責任者である3人が「畠山七人衆」に入っている。しかも、(古文書B)の連署では上位者が遊佐続光となっている(文書は普通一番奥が上位者である)。このことから、おそらく「七頭」が「畠山七人衆」にスライドしたと考えられる。

 では、なぜ「七頭」が「畠山七人衆」はスライドして権力を保てたのであろうか。この「七人衆体制」は1550(天文19)年の七頭の乱の直後に作られており、畠山義続の家臣団間の利害調整や相論(紛争)解決に限界を感じ、これ以上の争いを避ける為、そして安定的した政権運営できるシステムとしての「第一次畠山七人衆体制」が作られた。つまり、「畠山七人衆」が作られた目的は、大名権力の傀儡化ではなく、安定した政治システムを構築するために重臣間の利害調整機関として作られたと考えられる。しかし、(古文書A)では「遊佐・温井が大将」として見え、この乱後「七頭」が主導権を握ったとするなら、遊佐・温井両名が核となるべきである。しかし、乱後に畠山義続は入道して「徳祐」となり、温井総貞は入道して「紹春」になったのに、他のメンバーは実名で「畠山七人衆」の連署に署名している。つまり両名以外の落髪は「形式的」であったと考えられ、それゆえ乱後は畠山徳祐(義続)温井紹春(総貞)の影響力が低下したのではなかろうか。もう1名この乱で影響力が低下した人物がいる(古文書A)に見える「遊佐」である。従来はこの「遊佐」は『長家家譜』に見られる「石塚の合戦」の記述の影響で(「石塚の合戦」については七頭の乱参照)、遊佐続光と見られていた。しかし、遊佐続光はこの乱後も入道していない(古文書Bより)(古文書A)に見える「遊佐」は「遊佐信濃入道宗円」の事を指すのではないか。もとより宗円の行動は温井総貞と共にあった。それゆえ、遊佐家の主導権が畠山義総時代に嫡流から庶流に流れていたものが、この乱をもって嫡流が復権し遊佐続光が台頭したのではないだろうか。つまりこの乱において温井総貞の影響力が下がり、遊佐続光長続連らが台頭してきたのではないか。それがゆえに、七人衆体制という体制が必要だったのではないか。

 重臣間の利害調整機関が7人という複数人で行われた事は、「七頭」の遊佐宗円・温井総貞を両大将の力関係の低下であると考えられる。温井総貞の温井氏は元々能登畠山氏が入国する前からの地元能登の国人であり、畠山家中では譜代の家柄ではなかった。それが前当主である畠山義総が能登守護代の嫡家である遊佐氏(遊佐総光ら)の権力を削ぐために政権中枢から遊佐嫡家を遠ざけ、温井総貞を重用することで家臣団の力を削いでいった。いわば温井総貞にとって畠山義総のバックアップがその権力基盤だったと言える。しかし、1545(天文14)年に義総が死去すると守護代の家柄である遊佐嫡家が再び台頭してきたのではないだろうか。義続はその重臣間の利害調に失敗したと考えられる(注2)。その遊佐嫡家と遊佐庶家の対立が七頭の乱に発展したと言える。その徴証として、七頭の乱やその後に成立した「畠山七人衆」では、温井総貞より遊佐続光が上位者となっている。それは畠山義総のバックアップを無くした温井氏の権力の後退を意味するものと思われる。だからこそ、「七頭」がそのまま、「畠山七人衆」に発展して複数人による利害調整機関になったのではないか。畠山氏に代わる権力が一人では物足りないほど重臣の権力基盤は弱まっていたとも言える。

(2)第一次畠山七人衆体制の政治権力
 1551(天文20)年にスタートした「畠山七人衆」の体制について(注1)論文によると、天文20(1551)年10月頃に温井紹春(総貞)遊佐続光が本願寺へ畠山家とは別個に交渉を持っていることが知られる。これを東四柳氏は「差出所の最初と最後尾の部分に、両者の記載が見えることと併せて、それが七人衆体制の双璧をなす、中核的存在であったことを示唆しよう。」と指摘している。尚、七人衆に外様であった長家(対馬守続連)が名前を連ねていることを考えると、守護方に対抗する勢力として新規に将軍の奉公衆で畠山家中では外部勢力として認識されていた長家を畠山家中、それも重臣側に加担させる必要があったと思われる。(古文書B)では長続連は連署の2番目である。(注1)論文に従えば、「畠山七人衆」の連署の上位者の順は、「2番・7番・6番・5番・4番・3番・1番」の順であると考えられる。つまり長家は1551(天文20)年においては畠山家中で「新参者」であった事がうかがわれる。畠山の晩年での長家の地位を見ると、なんとなくその実力を過大評価してしまうが、七頭の乱をきっかけに畠山家中に居場所が作られたが。畠山家滅亡の約30年前ではそれほどの地位を長家は擁していなかったのである。同内乱以降、畠山家臣団に頻繁に長続連の名が登場するようになるが、これはこの後の、対立軸の一方であった温井総貞遊佐続光の勢力争いからキーパーソンとして大きな軍事力を持っていたから、徐々に家中で重きをなしていったのであろう。
 第一次畠山七人衆の権能については、(注1)論文が詳しく論じている。東四柳氏は同論文で、「従来、領国支配や外交活動で、畠山氏奉行人として頻出する飯川・河野・隠岐等の守護側近勢力が七人衆中に見えず(三宅氏を除く)・温井・遊佐・長等の重臣諸氏から年寄衆が構成されていることは、それが大名権力を圧倒しうる存在で逢ったことを想起させる。」と指摘する。これらのことから、畠山近臣層(奉行人)等は七人衆の活動が活発である時期にはその権力を後退させ、近臣層の権力復活は、義綱専制が確立する弘治元(1555)年頃まで待たなければならなくなることがわかる。

(3)第一次畠山七人衆の崩壊とその理由
 第一次七人衆が崩壊したのは、1553(天文22)年に温井紹春遊佐続光が起こした大槻・一宮の合戦が原因である。ではなぜ、安定的な政治システムとして産まれた七人衆体制が崩壊してしまったのであろうか。それは、大槻一宮の合戦の主な陣容を見ればわかる(表1参照)。

(表1) 大槻・一宮の合戦の陣容
温井方(総貞) 畠山義続長続連、土肥親真、遊佐宗円etc
遊佐方(続光) 遊佐秀頼、伊丹総堅、、伊丹続堅、河野続秀etc

 上記表からもわかる通り、温井方も遊佐方にも畠山家中に味方が多数おり、能登畠山家は家中分裂の呈を見せている。特には畠山義総政権時には、ほとんど没落していたはずの遊佐嫡家である遊佐続光が段々と家中での味方をつけ勢力を増していることは、温井紹春にとっては慌てる材料となる。「第一次七人衆」では最上位者を遊佐続光に譲った温井紹春ではあったが、早めに遊佐続光の勢力を追いおとそうとしているのではないか。その徴証として、遊佐方に遊佐宗円が味方せず温井方にいるのが家中の権力闘争の結果とも考えられる(注3)。あるいは、遊佐続光は家中ではまだまだ劣勢であるがゆえに、温井紹春を蹴落とそうと、加賀本願寺や河内の遊佐などの支援を求めているからこそ、遊佐から主体的に戦いを起こした可能性も否定できない。ここに、安定的な政治システムの構築を目的として作られた「畠山七人衆体制」ではあったが、結局は七人衆内の権力闘争に陥ってしまったところに、その崩壊理由が求められよう。

(4)第二次畠山七人衆体制の成立とその目的
 七人衆で双璧をなしていた続光が能登を出奔したことにより、紹春は七人衆の欠員補充に取りかかることになる。一度崩壊した七人衆体制が存続する理由は、残った重臣たちも畠山義続の重臣間利害調整能力を評価していなかったという理由だろう。大名権力の利害調整システムよりは、七人衆体制の利害調整システムの方が重臣たちにとっては評価されていたと言える。そして、欠員を補充して「第二次七人衆体制」がスタートすることになる。七人衆が加えられた事は以下の文書の赤字の部分でも知られる。続光が大槻一宮の合戦で能登に進行するのが1553(天文22)年12月10日頃だから、その前に続光は能登を出奔し、体制を立て直していたことになる。そこで、続光が進行する前に紹春は七人衆のてこ入れをはかったのである。

(古文書C)『天文日記』天文22年12月11日の条
一、従能登徳祐、就今度彼国左右方へ自加州不可合力之由申付之段、祝着之儀書札、香合金糸、・盆一枚来、使飯河越後守也、(下間)頼資披露、虎皮雖出之、直書にも添状にも無之間不請取、
  一、従七人衆以前衆にて無之も、今度ハ加えたる也、就右之儀、太刀吉用、・馬代弐千疋
一、又従七人衆、就予先度(本願寺証如)所身本復、金三枚京目、来、
一、従温井備中入道(紹春)為音信、索麺一箱、・雪魚、来、
一、又小童へ布袋樽来
一、従温井兵庫助(続宗)、備中子也、初而太刀・馬代五百疋来、



(古文書D)「雑録追加十一」石川県立図書館蔵
畠山義綱年寄衆連署奉書(天文22年12月)
 越能の侍中 下間氏への状
急度以飛脚申上候、当国牢人去十日出張之趣、先度申上候キ、仍此間大槻と申地ニ陣取、従城下(七尾)三里相隔候、然所ニ一昨日廿七日、自此方及断候処、敵悪所を取■相働候間、取懸及一戦、遊佐弾正左衛門尉・加治中務丞、其外雑兵三百人討捕、遊佐美作守(続光)田鶴浜と申地に陣取、彼地へ従当城四里程相隔、翌日廿八日遊佐加州被退候所を、自此方一宮と申地迄追懸、当国牢人・河内衆従加州被立候故、都合弐千余人討捕、早速得本意、大慶此事候、首之注文以別紙申上候、遊佐落所于今不相聞候、遊佐豊後入道(秀頼)・平左衛門六郎此方生捕申候、爰元如此被成候段、併連々御入魂故と、各忝存候、此等之趣、可然様ニ御披露所仰候、恐々謹言、
  (天文二十二年)
極月廿八日
飯川若狭守光城(誠)
温井兵庫助続宗
長九郎左衛門尉続連
三宅筑前守綱(総)広
三宅彦次郎綱堅
遊佐信濃入道宗円
神保宗左衛門尉総城(誠)
下間左衛門大夫(頼資)殿
 或日、天文十弐(廿ヵ)遊佐続光逆乱之節之事と相見へ申由、
本願寺に第二次七人衆が大槻・一宮の合戦を報告した書状
※■は文字不明瞭

 能登を出奔した遊佐続光、伊丹総堅の替わりに神保総誠、飯川光誠を加え、温井紹春、平総知が年寄衆を引退し、温井続宗、三宅綱賢が七人衆に加わった。この新しい七人衆で大槻・一宮の合戦の報告を本願寺にしている古文書Dが知られる。この結果「第二次畠山七人衆」はその上位順として、1.神保総誠、2.飯川光誠、3.遊佐宗円、4.三宅綱賢(注4)、5.三宅総広、6.長続連、7.温井続宗となった(注5)
 大槻・一宮の合戦で遊佐に勝利した温井氏が「第二次畠山七人衆」で順位7位となっている理由は、温井紹春が形式上引退し、その子である温井続宗が七人衆入りしたからである。この「第二次畠山七人衆」のメンバーの特徴は温井氏と血縁関係の深い三宅氏を2人、遊佐続光と仲が険悪な遊佐宗円が参加するとするなど温井色の強い人事となった。このことによって、「第一次畠山七人衆体制」と「第二次畠山七人衆体制」の成立目的は全く異なるものとなった。すなわち「第一次畠山七人衆体制」は安定的な政治システムとして重臣間の利害関係を調整するために温井総貞遊佐続光と家中の双璧をなす人物が名を連ねているのに対し「第二次畠山七人衆体制」は長続連飯川光誠を除いてすべて温井紹春の息のかかった者で構成されている。重臣間の利害調整というよりは、温井紹春主導の政治体制であることが明白である。つまり、「第二次畠山七人衆体制」の成立目的は大名権力の傀儡化と、温井紹春中心の政権運営の基盤強化にあった。しかし、守護側(義綱方)も全く手をこまねいてばかりではなかった。七人衆に守護方の飯川光誠が2番手として加えられた事実である。権力が失墜したとはいえども、七人衆に光誠が加われた事は、守護権力が侮れなかったものである事を示すものであろう。
 「第一次畠山七人衆」の人物が有名であるのに対して、第二次畠山七人衆についてはあまり知られていない。それは、第二次畠山七人衆の連署が出ていないからであろう。この事は、第二次畠山七人衆の活躍があまりなく、実態が七人衆体制自体をも温井紹春の傀儡であった事を示すものではないかと思われる。ちなみにこの時点においても長続連は6番手であり、しかも温井続宗は温井紹春のバックアップを得ているので、この時点でも長家はまだ七人衆の中で実質最下位であったと言える。

(5)第二次畠山七人衆体制の崩壊の要因
 「第二次畠山七人衆」の崩壊は、1555(弘治元)年に畠山義綱温井紹春を暗殺した(注6)事によって起こる。これによって、義綱に反発した温井続宗や三宅総広は能登を出奔し、加賀一向一揆に救援を求めるのである。その後に起こった弘治の内乱の主な陣容を考えると、第二次七人衆がどうのような状態であったのかわかる。

(表2) 弘治の内乱の陣容
義綱(大名)方 飯川光誠長続連、三宅綱賢(総賢
温井・三宅方 温井続宗、三宅総広

 (表2)を見ていただければわかる通り、「第二次畠山七人衆」のほぼ半分が義綱(大名)方に組しているのがわかる(注7)。つまり「第二次畠山七人衆」が徳祐(義続)・義綱・光誠等によって分裂工作がされていたのだと考える事が出来る。或いは温井紹春の専横に反発勢力を守護方が取り込んでいるとも言える。また、温井紹春が死去して「第二次七人衆」が崩壊した後、七人衆が欠員補充され再編されなかった事を考えると、紹春の影響力がかなりのものであったことが伺われる反面、第二次畠山七人衆の結束力の弱さが見て取れる。やはり、「第二次七人衆」体制そのものが紹春の傀儡であったからであろう。弘治の内乱において、温井三宅連合軍は義綱方と互角な戦いをしたが、それは加賀一向一揆の救援があってのことで、紹春亡き温井方の能登での影響力は下がっていたのである。
 そして、紹春が死去して、温井続宗、三宅総広が出奔すると当主の畠山義綱が家中の実権を手中とし、年寄衆の権力は削減され、義総政権期までにあった大名権力を具現化する奉行人を中心としたシステムに戻っていくのである。

むすびに
 第一次七人衆の成立した主たる原因は、畠山義続の重臣間利害調整の失政による「七頭」を中心とした七頭の乱がきっかけである温井総貞遊佐続光の台頭をお互い牽制し、両大将となる安定的な政治システムを作るためのものであったのである。そして、七人衆のメンバー選抜理由やメンバー内での政治的立ち位置を明かにできた。しかしそれが結果として複数人の合議体制だったが故にバランスの崩壊によって遊佐続光が敗れると、温井紹春(総貞)の傀儡としての「第二次七人衆」が成立したのである。紹春の影響力が大きかったゆえ、紹春亡き後の「第二次七人衆」は脆く、大名権力を復活させるきっかけを与え、七人衆体制は崩壊したことが指摘できた。しかし、まだ七頭の乱を中心として内部抗争の全体を明らかにできなかったので、今後の課題として取り組んで行きたい。

(注釈)
(注1)
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号、1972年
(注2)おそらく畠山義続は、温井総貞を遠ざけ、遊佐続光の復権を許したのではなかろうか。そのため、温井総貞や遊佐宗円から反発をされ家中の秩序が乱れたことが両大将を中心に七頭の乱に発展したのではなかろうか。
(注3)もっとも遊佐続光は遊佐嫡家の美作守の出自で、遊佐宗円は信濃守家の人物なので、畠山義総の代からの遊佐嫡家と遊佐庶家の遺恨を引きずっている可能性もある。
(注4)三宅綱賢は「総賢」のことか?
(注5)東四柳史明『半島国の中世史』北国書籍出版,1992年の262頁による。ただ『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社、1981年には平尭知が第二次七人衆になったと記している。しかし古文書Dを見ると、平尭知が七人衆になったとする指摘は誤りであろう。
(注6)
東四柳史明「能登弘治内乱の基礎的考察」(『国史学』122号、1984年)によると、紹春の暗殺事件は確実な資料を欠くとしたうえで、1555年頃に病死したのでは、と推測している。
(注7)神保総誠、遊佐宗円の行動については知られない。1555年頃に死去(病死)したものか。

(参考)
第1次畠山七人衆(1552-1553) 温井総貞長続連、三宅総広、平総知、伊丹続堅、遊佐宗円、遊佐続光
第2次畠山七人衆(1553-1555) 長続連、三宅総広、遊佐宗円、三宅綱賢、温井続宗、飯川光誠、神保総誠
参考文献
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号、1972年
東四柳史明「能登弘治内乱の基礎的考察」(『国史学』122号、1984年)
東四柳史明『半島国の中世史』北国書籍出版,1992年
川名俊「戦国期能登畠山氏と本願寺・一向一揆」(『地方史研究』402号、2019年)
(共著)『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社、1981年
etc・・・・。

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