飯川光誠特集

飯川光誠イメージ像
↑飯川光誠イメージ像(畠山義綱画)

☆飯川 光誠<いがわ みつのぶ>(生没年不詳)
 新次郎。主計助。大炊助。若狭守。入道して若狭入道宗玄。畠山義総の寵臣半隠斎宗春の縁辺の人(孫ヵ)。飯川氏は前の能登守護家吉見氏の守護代を勤めた家柄である。光誠は、第二次七人衆(畠山七人衆体制と権力闘争参照)で年寄衆に加わる。弘治の内乱では義綱と土豪衆との仲介役、義綱専制期では義綱の補佐と常に義綱に従い活躍する。義綱亡命後も義綱に追従して近江に逃れ「義綱亡命政府」の中枢となった。

光誠政治活動ちぇっく!
 1541(天文10)年に飯川新次郎光誠が冷泉為広の子・為和に入門するのが光誠の初見である。1547(天文16)年には笠松新介(後の但馬守)押水の合戦についての感状を発給している(古文書A)。この光誠と新介の関係は七頭の乱弘治の内乱でも続くことから、光誠が同心主の軍団に新介が組み入れられているのであろうことが伺える。これら同心主としての活動が評価されたのか、大槻・一宮の合戦(1553年)で遊佐続光が没落した後に成立した第二次七人衆において、遊佐等の欠落した人物に替わって七人衆に加わることになった。
 第二次七人衆の中では守護派(義綱派)であったようで、弘治の内乱(1555年〜1560年)では温井方に属することなく畠山義綱軍の中枢にいて活躍した。遊佐きむち氏は「七人衆の中に飯川光誠を排除できなかった事に義続の強みがある」(旧「能登のぉと」ウェブサイトより)と指摘し、七人衆のなかで唯一主家の立場で意見を述べる者であったと指摘している。
 義綱政権下の光誠は、弘治の内乱期(1552年〜1560年)までは義綱軍の中枢で軍忠の披露や感状の発給の仲介をしていた。また、官途もそれまで「主計助」だったのが1556(弘治2)年には「大炊助」となっており(古文書B無論、光誠とは違う人物の可能性も捨てきれないが)、1557(弘治3)年には「若狭守」となっている(古文書D)。官途からも光誠の地位が上昇していることが伺える。ちなみに(古文書C)では1553(天文22)年段階で「美作守」となっていおり後年「若狭守」と訂正されているが、この文書では名前などの混乱もあり信憑性が低い。
 時代が下って義綱専制期(1560年〜1566年)になると、光誠は年寄衆の中核に列し義綱の補佐をした。年寄衆(七人衆)は弘治の内乱以前までは国政を直接担当していたので、それと比較すると義綱専制期の年寄衆は権力が低下し、大名権力が復権したと言える。権力を削減された年寄衆は反発し永禄九年の政変において長続連遊佐続光らの重臣がクーデターを起こし、義綱を追放するが、これら重臣と行動を共にしないで義綱の亡命に追従したのを考えると、年寄衆の中でも義綱に近い存在であった事が推測される。まさに光誠は義綱の近臣(側近)と言うにふさわしい人物であった。そう考えると、光誠が年寄衆の中核にいたのは、他の年寄衆を監視し復権した大名権力をサポートすべき役割だったからではなかろうか。
 永禄九年の政変後の義綱亡命政府では再び義綱の補佐を担当していることや、笠松但馬守や、飯川肥前守などを亡命政府への帰参交渉に翻弄し成功していることや、義綱復権のために起こした能登御入国の乱(1568年)では軍の中枢に位置するなど亡命政府の中核として活躍している。これらの事績から光誠が義綱に信頼されていた事と、地位の高さ、交渉力能力の高さが伺える。また、義綱亡命政府の晩年までその活動が知られるという事は、いかに同政府において光誠が重要視されていたかを物語る。義綱を裏切ることなく終生亡命政府に留まった事は、義綱との強固な信頼関係があったからであろうか。

(古文書A)飯川光誠書状写(笠松文書)<1547(天文16)年>
于端郡押水、(畠山)駿河殿一戦之刻分射、則駿河殿被渡相、太刀討、太刀疵被疵候。無比類御高名ニ候。弥向後御心懸肝要候。恐々謹言。
(天文十六年)
壬七月七日
 
 笠松新介殿
  御宿所
飯川主計助
 光誠(花押)
 
(古文書B)畠山義綱奉行人連署状(三宅文書)<1556(弘治2)年>
御構柵之木壱間ニ拾本宛、并□□□ねそ八白く口以下申合被相調、為(鳳至郡)諸橋六郷百間、来十日以前ニ急度可被納之旨、依仰配苻如件、
弘治弐
正月廿九日 時長(花押)
景連(花押)
続親(花押)
続朝
三宅鶴千代殿
同九郎右衛門尉殿
伊丹殿
神保孫九郎殿
飯河大炊助殿
山田左近助殿
天野殿
今井出羽守殿
東野殿
徳田彌左衛門尉殿
 
(古文書C)「雑録追加十一」石川県立図書館蔵
畠山義綱年寄衆連署奉書(天文22年12月)
 越能の侍中 下間氏への状
急度以飛脚申上候、当国牢人去十日出張之趣、先度申上候キ、仍此間大槻と申地ニ陣取、従城下(七尾)三里相隔候、然所ニ一昨日廿七日、自此方及断候処、敵悪所を取■相働候間、取懸及一戦、遊佐弾正左衛門尉・加治中務丞、其外雑兵三百人討捕、遊佐美作守(続光)田鶴浜と申地に陣取、彼地へ従当城四里程相隔、翌日廿八日遊佐加州被退候所を、自此方一宮と申地迄追懸、当国牢人・河内衆従加州被立候故、都合弐千余人討捕、早速得本意、大慶此事候、首之注文以別紙申上候、遊佐落所于今不相聞候、遊佐豊後入道(秀頼)・平左衛門六郎此方生捕申候、爰元如此被成候段、併連々御入魂故と、各忝存候、此等之趣、可然様ニ御披露所仰候、恐々謹言、
  (天文二十二年)
極月廿八日
飯川美作(若狭)守光城(誠)
温井兵庫助続宗
長九郎左衛門尉続連
三宅筑前守綱(総)広
三宅彦次郎綱堅
遊佐信濃入道宗円
神保宗左衛門尉総城(誠)
下間左衛門大夫(頼資)殿
 或日、天文十弐(廿ヵ)遊佐続光逆乱之節之事と相見へ申由、
本願寺に第二次七人衆が大槻・一宮の合戦を報告した書状
※■は文字不明瞭
(古文書D)畠山義綱書状写(笠松文書)<1557(弘治3)年>
今度相破候砌、笠松新介早速馳走候。殊種々馳走共神妙候。相当之壱所可申付候。弥可忠功由可申聞候。謹言。
(弘治三年)
十月十日
(畠山)義綱(花押)
飯川若狭守(光誠)殿


 

光誠出陣履歴ちぇっく!
 飯川若狭守が加賀津幡の戦い(1531年)で戦死したとの資料がある(飯川宗春の笠松平四郎宛の書状末の中折紙の添書)。しかし、光誠がこの戦いの後も生存している事は、この合戦以降に光誠の発給文書があることからも明かである。死亡されたとの記述が誤りであるすれば同合戦において、“若狭守の戦死”というのは光誠の部隊が大敗した事を誤伝されたものであろうか。あるいは、この若狭守は光誠の父である若狭守かもしれない(詳しくは“ちぇっくぽいんと-飯川氏の系譜-で後述する)。
 「政治活動ちぇっく」でも述べたが、押水の合戦七頭の乱弘治の内乱において、同心主たる地位で活躍をしている。そしてその下で活躍した笠松新介(但馬守)は目覚しい戦功をあげている。能登御入国の乱(1568年)では義綱軍の中枢に位置し、初戦の勝利に貢献しているので、彼の軍団を統率する能力は評価に値するであろう。

光誠対外政策ちぇっく!
 「出陣履歴ちぇっく!」でも触れたように、畠山家中で同心主としての地位であったゆえ、それなりの地位と人間関係を得ていたと考えられる。それを基にして、義綱亡命政府笠松但馬守や飯川肥前守らを帰参させた事は、一定の影響力があった事が考えられる。

光誠文芸活動ちぇっく!
 7代当主・義総の治世である1541(天文10)年に、為和が七尾に滞在した時、「飯川新次郎光誠」という人物が為和の門弟になるため、同年9月7日入門誓紙を為和に送っている(注1)。年代的に見てもほぼ「飯川若狭守光誠」と同一人物としてみてよいであろう。このことから光誠は歌道にも通じていたと思われる。

飯川光誠年齢考!
 光誠の年齢を示す史料は全く無い。しかし、色々なものを通じて大まかに年齢を把握して見ようと思う。まず、1547(天文16)年には、飯川主計助光誠は同心主として笠松新介に感状を発給している(注2)、これは光誠が飯川若狭家の中でかなりの地位であることが推測できる。あるいは頭領となっているのかもしれない。普通は国司の官途を称する者は一族の中心人物であるが、後述するが飯川若狭守家では1531(享禄4)年に飯川若狭守という人物が戦死していることから、一族の頭領たる人物がいなかったのではないだろうか。とすると、光誠が同心主としての活動が知られる1547年に仮に25歳という年齢を与えてみる(仮の生年が1523年)。とすると、1541年に為和の門弟となったのが推定19歳。1557(弘治3)年に若狭守となったのが35歳。1573(元亀4)年の推定50歳の時に義綱亡命政府内で「飯川若狭入道」の書簡が知られるので入道していることも納得できる。この仮説だと飯川光誠の生年は1523年となる。ただ、これは大雑把な把握なので誤差が10歳前後あるとしても、光誠がおよそ16世紀以降に生きた人であろうことが推測できる。

ちぇっくぽいんと!−飯川氏の系譜−
 飯川氏については片岡樹裏人氏(著書『七尾城の歴史』)が詳しく研究している。しかし、片岡氏であっても飯川氏の系図作成には至っておらず、光誠の系譜関係も謎である。手掛かりとなるのは、光誠が半隠斎宗春(出自飯川氏)の「縁辺の人」であるということ(注3)と、「−−加州へ当国より御立候時、おやにて候人うち死に候時、飯川はんより給候書に候。平四郎は我等の若き時の名にて候。くわんとを新介といゝ候。今は但馬守にて候也。うわつづみはうせ候也。」と1531(亨禄4)年と思われる飯川宗春の笠松平四郎宛の書状末の中折紙の添書と(注4)、多くの飯川氏の人物が能登に下向した冷泉為広の門弟となるために提出した入門誓紙である。
 もし光誠が半隠斎宗春の実子であるとするならば「縁辺の人」とは書かないはずだから、子ではないのであろうと推測できる。飯川宗春の文書より、笠松平四郎(=笠松新介、但馬守)の御親父と飯川若狭守が一所(一緒)に討死したことがわかる。先の光誠の年齢考より考えると、加賀津幡の戦いで戦死したのが光誠の父であろう(注5)
 最後に冷泉為広への入門誓紙を検討する。1517(永正14)年9月に飯川半隠斎(軒)宗春、飯川若狭守、飯川新七郎光範が入門誓紙を送り、それぞれ金を2貫、1貫、1貫送っている。それから1541(天文10)年に飯川新次郎光誠が冷泉為広の子・為和に入門している。このことからそれぞれが別人だということがわかる。年齢の違いとしては、献上したお金の違いから「宗春>若狭守・光範」が、官途の違いから「若狭守>光範」が、入門した時期の違いから「光範>光誠」が伺われる。何に依拠したかわからないが、小葉田淳氏はその著書『史林談叢』(15頁)で「若狭守は半隠軒の息」としている。この説を入れると、若狭守・光範の年齢の違いは大きくないので、半隠斎(軒)の子で嫡男・若狭守、次男・光範と推定できる。さらに、3代当主義統に仕えた「光助」という人物について、「主計亮」という官途と「光」の通字、宗春との時代との関連と、当主に重用され、文芸に秀でたと言う事実から、この光助を「飯川若狭守家」の一員と考えたい。光助と宗春の親子関係は不明だが、ここでは一応系譜関係に挙げておくことにする。以上の私見をまとめると飯川氏系図は下図のようになる。

飯川氏系図

『義綱奮戦記』の舞台裏・小説での光誠!
 私の小説の中での光誠は、義綱の幼少の頃から守り役となっており、まさに義綱に尽くすという設定となっている。実際に光誠が義綱の幼少の頃に守り役になったという資料はないが、史実でのあくまでも義綱に尽くすその姿勢に、ただならぬものを感じこのような設定となった。感じとしては、伊達政宗に対する片倉景綱に近い設定となった。

(注釈)
(注1)小葉田淳『史林談叢』臨川書店.1993年.7頁参照。
(注2)1531(亨禄4)年に飯川若狭守が討死したという古文書があるが、1573(元亀4)年の「飯川若狭入道」が若狭守光誠であると考えると、年齢的に1531年以前にすでに一族の頭領となっていた可能性は低いと考えられる。片岡氏は1531年に「飯川若狭守光誠」が討死したのは誤伝であろうとするが、この古文書を素直に解釈し、さらに、1531年〜1557(弘治3)年の間「飯川若狭守」の名前が現出しないところを考え合わせると、1531年討死したのは飯川光誠の父である「飯川若狭守」と考えるのが妥当と思われる。
(注3)片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会、1968年
(注4)1531(亨禄4)年と思われる飯川宗春の笠松平氏郎宛の書状は「御親父若狭守一所御討死之儀、且者感悦、且者御心元」という内容である。
(注5)片岡氏は著書『七尾城の歴史』において「飯川半隠斉が飯川若狭の討死を、その子笠松平四郎に宛てた」というのを根拠に「即ち飯川氏から御屋形衆笠松氏の跡を継いだものである」と主張している。しかし、(注4)の古文書の内容を見る限りには笠松平四郎の父は、飯川若狭守とは解釈するには難しいものがある。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会、1968年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号、1972年
東四柳史明「弘治内乱の基礎的考察」『国史学』122号、1984年
(共著)『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社、1981年

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