七頭の乱
[1550年〜1551年]

畠山義続軍VS遊佐・温井軍

●原因
 1515(永正12)年〜1545(天文14)年まで能登に安定をもたらした7代当主・畠山義総が死去し、8代当主・畠山義続に家督が譲られると、守護と家臣間の微妙なバランスが崩れた。新たな守護畠山義続に対して、それまで抑えられていた家臣団の不満が噴出した。家臣団とは(古文書A)に見える遊佐続光温井総貞を大将とした「七頭」であり、その中心の7人とは後の七人衆体制(古文書B)につながる、遊佐続光・遊佐宗円・伊丹総堅・平総知・三宅総広・長続連温井総貞であると考えられる。加賀や越中の他国勢力を巻き込だ家中抗争が勃発し「内輪不慮」(古文書C)となり、大規模な争乱へと発展したのである。その混乱に乗じて、義総の寵愛を受け実力を持った温井総貞と義総政権で政権中枢から排除された守護代嫡家の家柄である遊佐続光が自然と政争の中心になってきた。
七頭方 守護方
勝敗 WIN LOSE
兵力 三千人程度? 一千人程度
主力 遊佐続光
温井総貞
遊佐信濃守(後の宗円)
伊丹総堅
平総知
三宅総広
長続連
温井光宗?
鞍川清房→戦死
鞍川清経→戦死
平重冬
飯川光誠
三宅某(2人)→切腹
神保九郎右衛門尉→切腹
河野弟2人→切腹
得田兵庫
仁岸宗心→戦死

●経過    

●合戦の影響
 「押水の合戦」(畠山駿河の挙兵)が畠山家外部の人物(元々は畠山家の人物だが)による合戦だとすれば、この「七頭の乱」は家中内で起こった権力闘争であるといえる。大名と家臣が争いを始め甚大な被害が出た。しかも室町幕府的な組織の守護畠山氏は直轄軍を持たず(能登畠山氏の軍事組織における考察参照)、守護方は軍事力的に勝ち目がないために、七尾城に籠城し(古文書Dより)、本願寺に敵に支援しないよう求めている(古文書Cより)状況であり圧倒的に不利である。これほど重臣達が守護方に反発したのは、やはり畠山義続の治世に納得がいかなかったと思われる。
 この七頭の乱は、「七尾御本城落去」という守護方の敗北によって終わる。いくら守護方の「治世」に不満が有り、守護方が敗北したとしても重臣による守護方への反乱は「室町的な秩序への挑戦」とも言え、そのため「是ハ天下の仕付見(ミセつけ)御座候」 (『棘林志』より) という「見せつけ」のために、温井総貞、遊佐四右、遊佐信州(後の宗円)、伊丹某が落髪して入道する事態となった。いわゆる守護方と重臣方の痛み分けとして行われたのであろう。そのため七頭だけにあらず、家中を統率し重臣同士の争いを調停する役目である守護である畠山義続も自ら落髪することとなった。

 この乱によって大名権力の衰えを露呈した形となり、重臣たちは守護に代わって新たな重臣間争いを調停する機構を組織しなければならない事態となった。それは、七頭を軸に重臣たちの合議体制(=七人衆)の誕生という形で実現され、当主畠山義続の大名権力は傀儡化されていくのであった。しかし、この七人衆体制は義続は大名権力の復権を目指した動きに加え、重臣たちそれぞれ一層の自己の権力拡大を目指す動きも加わり、さらに畠山家の内情は混沌としてゆくことになるのである。
 この七頭の乱について、『長家家譜』などの江戸期に成立した資料ではこんなエピソードが紹介されている。「遊佐続光が謀反を起こした時、飯川肥前守義宗が城主義続に「この内乱を乗り切るためには長続連を味方に付けるしかない」と進言。それが叶わぬ時は、畠山家の命運が尽きる時であり、その折は長邸で自害して欲しい。私も後を追い殉死する覚悟である、と述べた。その熱意に負けて義続は直々に長邸におもむき合力を請うた。その結果、長続連は主家の味方につき畠山家の危機を退けたのである。」このエピソードは、江戸時代まで子孫が残った長氏方の後世史料であり、そのため勝者贔屓の内容であるから簡単に信を置くにはいかない。後半の「ちぇっくぽいんと」でも振れるが、従来は1543(天文12)年に起きた「石塚の合戦」と表され、その対立構図も、温井総貞遊佐続光に置かれ、温井に守護方が加担すると描かれていた。さらに長が温井方(守護方)に加担し、温井が遊佐を破るという描かれ方をしていたが、これだとその後に成立した七人衆体制で遊佐と温井が両大将として活躍していることに対して説明がつかない。
 そこで、これを解決する新説を提案したい。「この戦いはあくまで畠山義続温井総貞の戦いであった」のではないか。というのも、「七頭の乱」で責任を取って落髪したのは温井総貞、遊佐四右(後の遊佐続光ヵ)、遊佐信州(後の宗円)、遊佐左馬(秀倫ヵ)、長九郎右(左)衛門(長続連)、平殿(総知)、三宅次郎右衛門、伊丹某(続堅)遊佐四右、遊佐信州(後の宗円)、伊丹某である。しかし、この乱後温井総貞温井紹春と、畠山義続畠山徳祐と名乗り入道しているのが文書からも分かるのに、遊佐続光長続連らはその後も入道している形跡が見られない(古文書Bより)。さらに、この乱後において遊佐続光長続連らの名前が見て取れるのは、この乱において温井総貞の影響力が下がり、遊佐続光長続連らが台頭してきたのではないか。それがゆえに、七人衆体制という体制が必要だったのではないかと考察する。
(古文書A)「本成寺文書」
「本成寺  菩提心院」
孫次郎(斉藤孫次郎利家ヵ)より状当来候へ共、(中略)

歸國已来無覚束過行候之處ニ、使僧太義二被越候、其許様躰承候而、満足之至候、

一、當寺少納言殿能州へ訴訟候て、九月始此ニ迎船来、愚老も大義して仕立候て、則御屋形(畠山義続)出仕、親父本地之内、百計之所被賜候て、勸持(日導)も覚子も大慶、及来春者、寺建立之企相半ニ、候處ニ、能登國二破候て、屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐(続光)・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱候、彼少納ハ何手へ被成候も未相聞候、陸地ハ寺嶋と倉(鞍)河を取合にて、鳥も不通候、水路ハ時分柄之義にて候間、使節往覆不涯候、知存を遣候へ共、半途より還候、旦方より飛脚被越候、四、五日も過候者、いかなり共可来候哉、(中略)恐々謹言
(天文十九年)十月十九日  菩提
  日覚(花押)
(異筆)「天文十九年十月廿七日歸著
遊佐と温井を大将として七頭が守護を取巻いたので大乱に至った。


(古文書B)「東京大学所蔵文書」
 悳祐(花押)
能登国鳳至郡諸岳村之事、為悳胤(義総)搭頭領寄進也、永可全知行候、仍執達如
 天文廿年五月廿三日
(温井) 紹春(花押)
(長) 続連(花押)
(三宅) 総広(花押)
(平) 総知(花押)
(伊丹) 総堅(花押)
(遊佐) 宗円(花押)
(遊佐) 続光(花押)
畠山七人衆が出した連署


(古文書C)『天文日記』 (京都市西本願寺蔵)
(天文二十年一月年)八日、
一、能登左衛門佐(畠山義続)へ以返状、旧冬日付、為返太刀三貫之也、・馬代廿貫
遣之、使亀源寺へ渡遣之、以円山也、返語にハ先度自金吾(義綱ヵ)書状并少弼(六角定頼)
内輪之不慮出来候、就其被官輩加州可引入之由風聞候間、堅可相押之由承候条、加州へ
内輪之儀共間、相溝左右方へ不可令合力之由、堅固ニ申下候処、又可預合力之由承候、
最前之筋目相違之儀難申付候、殊更合力等事者停止候之条、得其意可有宣説之由旨申
出了、一、亀源寺へ為返、織色一端・引合出之
畠山義続が家中の内輪之不慮と原因を伝えており、
また再三本願寺に抵抗勢力に合力しないよう依頼している。


(古文書D)「証如上人書札案」 (龍谷大学図書館蔵)
恩簡令披覧候、仍其方既御籠城之由、千万無御心元候、先度
加州之儀示預候間、即人数等不可相立之旨堅申付候、委細先日
御報令申候き、然而只今承候之趣最前示下之通相達候間御分別
可為祝着候、更非疎意候、恐々
 十六日出之
  (天文十九年ヵ)十一月十三日
  (畠山義続)左衛門佐殿御返報
畠山軍が籠城しているのがわかる史料である。

★ちぇっくぽいんと★
「長家家譜などが伝える『石塚の合戦』についての基礎的考察」

はじめに

 『越登賀三州史』には、遊佐続光が国政を欲しいままにし、それと対立する長続連等を討伐しようと、続光が越中鞍川氏を率いて1543(天文12)年に挙兵したとある。また、『長氏由来記(抄録)』にも1543(天文12)年に続光の挙兵したとの記述がある。しかし、現在では多くの資料で「石塚の合戦」を見かけることはない。しかし現在になって「石塚の合戦」肯定論が出てきた。それは、この合戦を天文19年に起こった内乱と比定しているからだ。それでは現在「石塚の合戦」がどういう風に解釈されているかを列挙する事にしたい。

歴史家は「石塚の合戦」をどうみているか?
(1)日置謙氏
 大正時代に活躍し、1927(昭和2)年に『改訂石川県史』を書き上げた日置氏は、同書において資料的根拠の弱さから「抹殺すべきもの」とみている。
(2)片岡樹裏人氏
 1968(昭和43)年の著書『七尾城の歴史』において「石塚の合戦」の地理的考察を交えて展開されている。しかし、「究極的には、まだ疑問の余地があり、断定出来る程の確証はない」と評されている。
(3)東四柳史明氏
 能登の中世史の第一人者である東四柳氏は著書「畠山義綱考」(『国史学』88号、1972年)では、押水の合戦において加賀門徒の協力や温井総貞の隠居などが見られるため『長気家譜』等が伝える「石塚の合戦」は押水の合戦を後世に誤伝されたものではないかと私見を述べた上で、「後世に多くの伝承をもつ此の合戦が、全く架空だとは思い難いものがある。」とも述べている。
(4)橋本芳雄氏
 「室町中期氷見の豪族鞍川氏」(『富山史壇』78号)において、氷見の国人鞍川父子が1550(天文19)年に能登の内乱に巻き込まれて戦死したとの記述から、「石塚の合戦」を能登で義続が篭城したとされる内乱に比定している。
(5)坂下喜久次氏
 2005(平成17)年の著作である『七尾城と小丸山城』(P.424北國新聞社出版局)において「此の事件は世情遊佐続光の叛乱とされているが、もっと複雑な要因が重なり予期しない展開をみせたようである。」と指摘している。
(6)川名俊氏
 「戦国期能登畠山氏と本願寺・一向一揆」(『地方史研究』402号、2019年)において、この内乱を「七頭の乱」と呼称し、従来からの畠山義続温井総貞遊佐続光という構図から、畠山義続対七党(遊佐続光温井総貞長続連・三宅総広・平総知・伊丹続堅・遊佐宗円ヵ)という対立構図で起こった乱としている。その根拠はおそらく「本成寺文書」にある。「能登國二破候て、屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐(続光)・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱候、彼少納ハ何手へ被成候も未相聞候、陸地ハ寺嶋と倉(鞍)河を取合にて」(古文書Aより)、と言うところより、越中より来た鞍川氏をもってこれを1550(天文19)年に起きた「七頭の乱」とし、その原因を「屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐(続光)・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱」としている。つまり、遊佐と温井を中心とする七頭が当主を本城(七尾城)から子城へ追放し、七頭がそのまま「畠山七人衆」となったということだろう。

まとめに代えて
 確かに、「石塚の合戦」が記載通り1543(天文12)年に起こったとするにはいくつもの疑問がある。7代当主義総が健在でありその地位が揺るいでいないこの年に謀反が起こるのは考えにくい。また、義総存命中にも関わらず義総の話が出てこないというのも少しおかしい気がする。従ってこの「石塚の合戦」は1543(天文12)年には無かったと断定できる。一方で、今まで1550(天文19)年の内乱は、七尾城まで及んだかなりの規模の軍事抗争にまで発展したにも関わらず、史料があまり見られなかった。しかし、この「本成寺文書」 (古文書A)や『天文日記』などの当時の史料とこの「石塚の合戦」を比べていくといかに共通点が多いかわかる。よって長家関連の資料である「石塚の合戦」は、誤記などを含めてその引用を慎重にしなければならないが、「石塚の合戦」を1550(天文19)年の内乱に比定したい。そこで私は畠山家当主義続が篭城する程の事態となったこの内乱を、従来の「石塚の合戦」と区別するため「能登天文の内乱」と呼称していたが、川名氏が(6)の前掲論文において(古文書A)より「七頭の乱」2019年にと呼称していたことに合わせていくこととした。また、以前遊佐きむち氏がホームページ上(現在遊佐きむち氏のホームページ「能登のぉと」は閉鎖中)で「石塚の合戦」は長続連が家中での台頭を始めたきっかけといわれたが、時代がずれたことで長続連の台頭も遅れたことになり、長氏の畠山家中で頭角をあらわす時期はかなり後になってからだということもわかる。

参考文献
川名俊「戦国期能登畠山氏と本願寺・一向一揆」『地方史研究』402号.2019年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会,1968年
久保尚文『越中中世史』桂書房.1983年
橋本芳雄「室町中期氷見の豪族鞍川氏」『富山史壇』78号
東四柳史明「弘治の内乱基礎的考察」『国史学』122号.1984年
ETC・・・。

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