↑長続連イメージ像(畠山義綱画)
九郎左衛門尉。対馬守。長家19代目当主。穴水城城主。長英連の弟の信光の子。続連の「続」は、畠山義続の偏諱だと思われる。義続・義綱・義慶・義隆・春王丸に仕える。畠山晩年期に家中で実力を得て国政を指導した。しかし、上杉謙信が侵攻した七尾城攻防戦では、遊佐続光等が上杉軍に内応して裏切り殺された。 |
続連政治活動ちぇっく!
長家はもともと将軍直属の奉公衆の家柄で、能登に在住するも能登畠山家には服していなかった。しかし、16世紀半ばになり、将軍家の勢力が小さくなったこと、さらには畠山家が当主義総を中心として領国支配が浸透していった結果、長家は畠山に属する国人となったのである。1408年の能登畠山家創設以来、能登のほとんどの独立国人が畠山家に従属するか畠山家に敵対して没落するなかで、長家が16世紀半ばまで大名権力に服さないほどの勢力を有していたという事実は、畠山家中では外様であるがかなりの軍事力を保有していたと想像できる。その証拠に、内乱が続く晩年の畠山家中で、長家はかなり重きをなしているのである。
明確に長家が能登畠山家の実力者として現れたのは、長続連が当主の頃、1550(天文19)年七頭の乱の時期からである。同合戦は「石塚の合戦」と言う名称で従来誤伝されてきたが、長家が畠山家中で初代満慶の頃から仕えていた遊佐氏の勢力と互角に張り合い勝利したのである。この時、飯川義宗(注1)という人物が義続に対して「長対馬守続連は智謀兼備の勇将であり、当家第一の将である」(片岡樹裏人『七尾城の歴史』102頁)と評したと言われているが、これは江戸期まで子孫を残した長氏の資料であり誇張表現であると思われる。しかし、この乱で畠山家中に長家の実力が示されたことは事実であり、内乱が続く能登で長家が重きをなしていったきっかけになったと言える。その為、外様であったにも関わらず1551年頃に成立した第一次七人衆に名を連ねたのであろう。
悳祐(花押) 能登国鳳至郡諸岳村之事、為ニ悳胤(義総)搭頭領一所レ被ニ寄進一也永可レ被ニ全知行一候、仍執達如レ件 天文廿年五月廿三日
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義続政権期の七人衆時代が終焉し、義綱による大名専制支配が行われるようになると、続連すなわち長家は義綱に接近した。それは、弘治の内乱で義綱方の主力として活躍していたこと、義綱専制期に至っても続連が年寄衆としてみえること、さらに1561(永録4)年に義綱を自邸に招いて歓待(詳しくは長続連の義綱歓待からみるもの参照)していること等からも伺える。しかし、それが転換するのが1566(永録9)年のことであった(続連がなぜ親義綱派から反義綱派はへ転身したかは、永禄九年の政変にて詳述している)。義綱専制に反対する重臣達が起こした永禄九年の政変である。長続連・遊佐続光・八代俊盛らは当主義綱を追放して義綱の嫡子義慶を擁立した。すなわち続連は親義綱派からこの時点で反義綱派に寝返っているのである。このことは何を意味するであろうか。長続連が義綱専制に反発を持っていたことは確かであろうが、反面、続連=長家の力無くして義綱を追放することはできなかったということを意味しているのではないだろうか。義綱は弘治の内乱で当時畠山家中最大勢力であった温井氏を敵に回したが、家中で第2の実力を持つ長続連・遊佐続光らの支援を得て義綱は温井氏を打倒した。同じことはこの政変でも言え、もし反義綱派が遊佐続光だけであったら、この政変が実行できたかどうかは怪しい。それゆえ、続光は畠山一の軍事力を誇る長家をなんとしても味方に引き込みたかったのであろう。この事から、長家はその軍事力ゆえ畠山家の実権を握ったと言えるが、それも続連の優れた先見力があって常に多数派維持し政権の中枢にいたと言うことができる。すなわち、弘治の内乱では義綱に接近し、その後の義綱専制期でも実力を有し、永禄九年の政変では、一転して反義綱派となり、遊佐続光、八代俊盛らとともに引き続き政権を担当するのである(下の文書Bを参照)。続連の政治力が伺われる。こうして、晩年の能登畠山家で実権を握るに至り、長を支持する家中のグループ(すなわち長派)は遊佐は、温井・三宅派を凌ぐ家中最大勢力となっていったのである(詳しくは畠山家晩年における政治体制の一考察参照)。
そして長家の勢いが頂点に達した頃の1567(永禄10)年から1571(元亀2)年の間、続連は嫡子・長綱連に家督を譲った。しかし、その後も続連は影響力を保った。それは、1576-1577年の上杉謙信の能登侵攻の際からも伺える。長一族の守備位置が「大手赤坂口綱連公」(注2)なのに対して、「続連公並伊州は屋形を被守護」(注2)という記録と、遊佐続光が謙信方への内応に際して殺した長一族が続連であったという事実である。前者は総合的な指揮が続連にあったこと、後者は長家を仕切っていたのが対外的にも続連だと映っていたことがわかる。すなわち続連の影響力は引退後もかなりあったと言える。
当知行二ヶ所並被官人屋敷等之事、如ニ前々一不レ可レ有ニ相違一候。然者早々御下専一候。尚高田方可レ有ニ演説一候。恐々謹言
進之 |
続連出陣履歴ちぇっく!
続連が、能登畠山に属して戦った合戦は、七頭の乱(1550年)、大槻・一宮の合戦(1553年)、弘治の内乱(1555年〜1560年)、能登御入国の乱(1568年)、鶏塚の合戦(1569年)、上杉謙信の能登侵攻(1576年〜1577年)がある。つまり、晩年の畠山家の合戦から滅亡に至るまで、すべての合戦に続連は出陣しているのである。まさに、晩年の能登畠山政権のキーマンが長続連である証拠と言える。特にこの中の合戦で注目されるのは、七頭の乱と弘治の内乱であろう。七頭の乱では、守護方に対して不満を抱いて反乱を起こした重臣達に協力し、「七頭」となって畠山家中に実力を示した。この事は、長続連の畠山政権の中枢に参画するきっかけとなった。また、弘治の内乱では、遊佐続光と協力して、義綱軍の奥能登維持に腐心し、また続連自らの部下である山田左近助や小林彦右衛門尉などを参陣させたりしている。続光とともに、義綱軍の中枢として活動しているのである。この後、続連は義綱の年寄衆として政権の中枢にいることを考えると、長家はまさにその強大な軍事力をもって畠山家に貢献し、その中枢たる地位を手に入れたと言える。さらに、合戦を契機に政権の中枢入りした続連の軍事的センスも高く評価されよう。
続連対外活動ちぇっく!
時期はわからないが、続連は織田家との関係強化を進めていった。畠山家は能登の地理的な位置からから、越後の上杉家とは有効関係を保っていた(注3)が、畠山家の第一の勢力である長家が上杉家ではなく、織田家と連携していたのである。これは、なぜだろうか。おそらくは、長家と対立関係にある遊佐派への牽制と考えられる。1566(永禄9)年までは、義綱と連携することによって家中の主導的な地位を維持してきた続連であったが、その義綱を続連自身が永禄九年の政変で義綱の追放したのである。であるから、続連は新たな後ろ盾を探す必要に迫られていたのである。そうでなければ、従来から守護代として越後上杉氏(及び長尾氏)と懇意にしていた遊佐派に家中の主導権を握られると思ったのであろう。(注4)。
こうして、続連は上杉に反して織田家を結ぶわけであるが、それが結果として1576(天正4)年からの上杉謙信の能登侵攻を招いたと言える。上杉謙信は、日本海海上交通の物流の観点から、能登の勢力を敵に回す事はなんとしても避けたく、そのため長続連ら重臣勢力の排除を求めて行くが、それが叶わぬと見るや、武力侵攻を開始したのである。謙信の侵攻に対して長家は、堅固な七尾城に戦力を集中し、持久戦に持ち込みつつ、長家の連携相手である織田信長に弟の連龍を使者を立てて援軍を請うたのである。援軍を派遣されたのだが、結局間に合わず七尾城は開城し、能登畠山家は滅亡した。織田信長は畠山家を利用して北陸への基盤を築こうとするのであるが、それを知っていてそれを逆に利用しようと織田家と連携したとするなら、続連はかなりの先見の銘を有していた思われる。
(注釈)
(注1)一説には畠山義続の従弟であるといわれるが、この人物実在は疑わしい。仮に従弟だとしても、飯川家に養子に行ったのに能登畠山家の通字、ひいては将軍家の通字である「義」を名乗っていることからも実在に疑問符がつく。
(注2)『長家家譜(抄録)』より抜粋
(注3)発達した日本海海上交通の要所として能登は位置し、そのため日本海の諸勢力とは友好的であった。日本海の諸勢力は、能登の勢力(ここでは能登畠山氏)と敵対すると、物流の断絶を意味し、どうしても能登畠山氏と友好的な関係(ないし敵対しない)ということが求められていた。
(注4)遊佐派の牽制に、なぜ織田家を後ろ盾としたかは、畠山家晩年における政治体制の一考察を参照願いたい。
義綱公式見解「軍事的センスに長け、政権を手中にした切れ者。」 |
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