↑長綱連イメージ像(畠山義綱画)
九郎左衛門尉。長家20代目当主。穴水城城主。長続連の嫡子。綱連の「綱」は、畠山義綱の偏諱だと思われる。義慶・義隆・春王丸に仕える。上杉謙信が侵攻した七尾城攻防戦では主軸となり、1577年に畠山春王丸が疫病により病死すると、七尾城代として活躍するも、遊佐続光等が上杉軍に内応し、殺された。 |
綱連政治活動ちぇっく!
綱連の活躍は、父続連の活躍に隠れてなかなか見出す事ができない。そこでまず、綱連の家督継承の時期をまず追ってみたい。
当知行ニヶ所並被官人屋敷等之事、如ニ前々一不レ可レ有ニ相違一候。然者早々御下専一候。尚高田方可レ有ニ演説一候。恐々謹言。
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就福光名之事、田坪河端以洪水押流候、依之被名之貢用一円難調由ニ候、然者光福庵寺領、幸自福光名寄進候間、彼庵領令改易諸役皆免ニ永代時国仁遺候、令支配即以此田地福光名之年貢如帳面可相調者也仍如件
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如レ被ニ申越一、神保色々被レ歎候間、不レ図出馬、十七日神通越レ河、十九三日之内敵地悉落居、内々守山・湯山可レ擬レ落処六同(道)寺断而水増故、于レ今不レ被レ
越レ河レ候。於ニ時宣一者可ニ心安一候。被レ入心飛脚早々喜悦候。可レ加ニ懇意一心中ニ候間、同意肝心候。恐々謹言。 三月二十日(元亀二年) 謙信 温井兵庫助(景隆)殿 長九郎左衛門(綱連)殿 平新左衛門(尭知)殿 遊佐孫太郎(盛光)殿 |
まず(A)の文書から、1567(永禄10)年の能登畠山家の人事権は長続連らにあった。すなわち、長家の棟梁は続連であったことが伺える。『長家家譜』では綱連が1565(永禄8)年に家督を譲られたとするが(一説には義綱追放後の1566年)、これをもって否定できよう。次に(C)の文書を見てもらいたい。能登畠山家の外交の基本である上杉家との外交文書である。ここにも能登の有力者が連署している。畠山家の外交権を掌握している人物は、当然その家の棟梁であるといえる。また、ここに見える長氏は「長九郎左衛門綱連」という名で出てくる。長氏が代々受け継ぐ「対馬守」を冠していないが、「長九郎左衛門」は代々長家の当主が冠たるもので、まさに綱連が長家の棟梁であるという確証である。最後に(B)の文書を見て頂きたい。これは、洪水により福光寺の年貢納付が厳しくなったので、諸税を免除した上、その領地を時国家に与えたと言うものである。時国家というのは、奥能登にある有力農民(海民)である。当然、これは長家の勢力範囲の土地で事であると思う。つまり、長氏領国内の人事権を行使していたと言うことは、この時期にはすでに綱連が家督を継承していたと言えるのである。つまり、綱連は1567(永禄10)年から1571(元亀2)年の間に家督を継承した事になる。家督を継承した後の綱連は、能登畠山氏の主力となって活躍する。
綱連出陣履歴ちぇっく!
1576(天正4)年11月から始まる上杉謙信の能登侵攻に際しては、主力として活躍した。守備位置が「大手赤坂口綱連公」(注1)なのに対して、「続連公並伊州は屋形を被守護」(注2)という記録から鑑みると、綱連は総合的総括的な指揮より、前線での指揮を担当していたのであろう。また、綱連は、好を通じていた土民たちを6000人を蜂起させ、上杉陣営を攻撃させるという手も講じている。この作戦は失敗に終わったが、織田の援軍を求める事といい、『長家家譜』の記述通りとすれば、かなりの軍略家であるといえる。
1577(天正5)年3月、北条氏が越後に侵入。その報を受けて謙信が、能登より本隊を引き上げ越後に向かう。すると、畠山軍は七尾城以外で陥落した諸城の奪還に取りかかる。綱連もその軍に加わり主力を為したが、同年7月の謙信再侵攻に伴ない、綱連以下畠山軍は七尾城へ撤退した。その際、甲山城の上杉軍守備兵が七尾城に撤退する畠山軍を追撃したが、綱連の活躍によって撃退した。同月、七尾城内で疫病が流行し、城主春王丸が死去すると、綱連は七尾城代として、畠山軍を指揮した。謙信は、遊佐続光を通じて降伏を勧めたが、綱連はこれを拒否して抗戦を継続する。そして、ついに同年9月15日の続光による長氏一族斬殺に至るのである。しかし、続光が斬殺しようとして遊佐屋敷へ呼び出したのは続連であり、綱連ではなかった。このことは、続光が、畠山軍が七尾城を開城するにはまず続連を始末しなければならないと思っていたと推察でき、結局綱連の権力は父のそれを超えることがなかったと結論できよう。
綱連対外活動ちぇっく!
綱連は、長家の棟梁となると上杉家との外交も進めた。(C)の文書に見られるように上杉謙信の北陸進行を歓迎する態度を示していた。しかし、内実、長家は織田家を結び、上杉家と対立する姿勢を築きつつあった。1576(天正4)年から始める上杉謙信の能登侵攻に関しては、綱連が先頭に立ち畠山家を指揮したと『長家家譜』は記しているが、長家の棟梁であれば当然の行動であろう。なお、防御体制を維持しつつ、弟の連龍を使者に織田信長に援軍を請い、実際に援軍を派遣されるに至っている。織田信長は、畠山家を利用して北陸への基盤を築こうとするのであるが、それを知っていて綱連が織田家に援軍を請うたのであれば、かなりの先見の銘を有していた思われる。
しかし、肝心なことは、どうやって長家と織田家が接点をもったかということになるが、その点に関しては史料的制約もあって全くわからない。今後の史料発見とともに後考を待ちたい。
(注釈)
(注1)『長家家譜(抄録)』より抜粋
(注2)『長家家譜(抄録)』より抜粋。「伊州」とは、二本松伊賀守義有のことであるが、彼が畠山義隆と同一人物であるならばすでに1576(天正4)年に死去しているはずである。二本松伊賀守義有の実在性と、畠山義隆との同一人物説は今一度検証される必要があろう。
義綱公式見解「父続連の権力を超えることはできなかった。」 |
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