↑遊佐続光イメージ像(畠山義綱画)
美作守。総光の子ヵ(注1)。義続。義綱・義慶・義隆・春王丸に仕える。離反帰参を繰り返すが、常に政権の中枢にあった。謙信の能登侵攻では、内応し七尾城開城して上杉の臣となる。その後、さらに織田方に寝返り上杉家武将を七尾城から追放して同城を占拠する。しかし、信長に先の謙信への内応の罪を問われ斬首される。 |
続光政治活動ちぇっく!
続光は、その「光」の継字と「美作守」の官途から遊佐祐心−忠光−統秀から続く守護代嫡家の人物である。しかし、父(と思われる)・美作守総光の代になると、畠山義総の守護権力の強化のために総光は疎んじられ、続光にとっても不遇の子ども時代を過ごしたものと思われる。その間能登畠山第一の勢力となったのは義総に寵愛された温井総貞である。1545年の義総死去以後に続光は遊佐嫡家の勢いを盛り返そうと努力するが、その為にはまず温井一族が邪魔になったのである。
続光の所見資料は1550(天文19)年の七頭の乱(注2)においてである。1547(天文16)年には畠山駿河の能登乱入で押水の合戦が展開されているが、そこに続光の名は見えない(注3)。七頭の乱では遊佐信濃家の遊佐宗円と温井総貞が両大将となって乱を主導し守護家に大きなダメージを与えた。しかし、室町的秩序の混乱を招いたとして守護である畠山義続と温井総貞は入道した。遊佐宗円は元々入道している。この3人の影響力が下がって成立したのが重臣達で連名して領国運営を主導する畠山七人衆である。その連署の一番最後に名前を連ねたのが続光である。連署においては最後が一番実力者である。続光の名が畠山七人衆の中で最高位にあるのは家柄が多分に影響したものと考えられる。続光は遊佐嫡家の家柄で本来なら能登畠山家臣の第一の家柄である。その為、続光は畠山義総に寵愛され実力を得てきた温井総貞とその協力者である遊佐信濃守家の影響力低下と共に家中の復権を果たした。従来この七頭の乱は、かつて『長家家譜』などの史料により「石塚の合戦」と誤伝され「続光の主家に対する謀反」と解されてきたが、むしろこの乱を通じて家中への第一人者と復活したと言えよう。
しかし、影響力が低下としたとはいえ温井紹春(総貞)や遊佐宗円も畠山七人衆に列しおり、復権を目論んでいたと思われる。こうして七頭の乱から4年後、温井紹春と続光は1553(天文22)年の大槻・一宮の合戦で戦火を交える事になる。これは、畠山七人衆内での権力抗争と考えられる。この大槻・一宮の合戦では続光軍の陣容が主な者だけでも伊丹総堅、伊丹続堅、加治中務丞、後藤備前、丸山出雲守、河野続秀など数々の有力重臣が味方している。また、兵力も温井軍6千に対し遊佐軍5千と、人材の面でも兵力規模の面でも続光は格段に勢力を増しているのである。これは、単純に温井に不満を持つ物が多くなってきたとも言えるが、畠山七人衆が成立してから続光が着実に権力を築きつつあったと見える。この合戦に敗れて続光は越後に逃亡するが、温井紹春が畠山義綱に粛清され弘治の内乱が勃発すると、義綱は兵力増強の為続光の帰参を許可した。従来は続光評は「何度も主家を裏切って乱を起こした」とされるが、上記のような行動を考えると、主家に反したのは1550(天文19)年の七頭の乱だけであり、しかも主導していたは言えない。畠山義綱が温井紹春亡き後の領国運営の補う存在として続光の帰参を許した行動はなんら不自然さを感じない。
畠山家に復帰した続光は、今度こそ自分の権力を安定化させようと権力闘争に力を注いだ。義綱専制政権(1555-1566)において、続光は年寄衆に任じられたが、その義綱を永禄九年の政変にて長続連・八代俊盛と共謀して追放している。これは、義綱が年寄衆を重視せず奉行人中心の政治を行ったので、その反発として親義綱派と反義綱派が形成された結果で起きた政変である。続光は反義綱派の中心として続連・俊盛を自派に引き入れ、政変を断行した(詳細は永禄九年の基礎的考察を参照)。義慶政権では、次第に勢力を拡大してきた長氏一派に対抗するため、温井景隆らに接近(詳細は畠山家晩年における政治体制の一考察参照)するなど、常に自派の権力拡大のために奔走した。一説には義慶を暗殺したとも言われ、謙信の能登侵攻(1577年)ではあっさり畠山氏(長氏)を裏切り上杉謙信と内通、徹底抗戦派の長氏を殺害して七尾城を開城し、上杉の臣となる。謙信が能登に派遣した鯵坂長実と並んで謙信支配下の能登で中枢となる。しかし、上杉謙信が死去し信長の北陸進攻が強まると、続光・盛光父子、温井景隆、三宅長盛らは上杉氏に反旗を翻し七尾城を占拠し、織田信長に降る。しかし、その信長に1577(天正5)年の謙信の能登侵攻での謙信への内応の罪を問われて織田軍捕まり斬首された。
結果的に続光の行動は能登畠山家を早期に滅亡させる原因を作ったと言える。そして次々と主君を変える大胆な行動は、一見すると逆臣のようにも思える。しかし、主君への忠義が説かれたのは江戸時代以降。このような主君替えは戦国期では割りと普通に行われた。客観的に続光の行動を考えると、常に自派を有利にするには誰と結べばよいかと考えており、全ては権力闘争の一出来事に過ぎない。これは全くの推測に過ぎないが、守護代嫡家なのに権力を削がれた父・総光時代の苦い経験から、権力安定を願うために自らの地盤を安定化させるための積極的な行動と言えるのではないか。
続光出陣履歴ちぇっく!
続光の合戦参加は、七頭の乱(1550年)、大槻・一宮の合戦(1553年)、弘治の内乱(1555〜60年)、謙信の能登侵攻(1576〜77年)である。自分が主体となった合戦である大槻・一宮の合戦では相手と互角の戦力を擁しながら自軍を勝利に導く事はできなかった。しかし、畠山家の一重臣として参加した弘治の内乱・謙信の能登侵攻では積極的に動き、勝利を導いた(注4)。この事から察するに、続光はトップに立つと器ではなかったが、参謀としては抜群の能力を発揮したと言えるのではなかろうか。
続光外交政策ちぇっく!
続光の参謀としての能力や外交能力はかなり秀でたものであると考えられる。七頭の乱では足りない戦力を越中豪族・鞍川氏を味方につけることで補っている。大槻・一宮の合戦では、能登の重臣ばかりでなく、河内遊佐氏や加賀一向一揆を味方につけている(文書A参照)。弘治の内乱では義綱方の不利を続光が長尾景虎と交渉して援軍を得ることによって挽回させるなど、かなり重要な役割を担っている(文書B参照)。また、旧敵である温井景隆(以前温井総貞と対立)や織田信長(謙信の能登侵攻の時織田と敵対する長尾の支配下に入った)に対しても屈託なく交渉をするなど、自己の権力拡大の為の冷静なまでもの外交姿勢には驚くべきものがある。これだけをとっても続光の外交能力は高く評価されてよいだろう。
其国ニ属静謐一候儀珍重候。仍太刀一腰・馬(鹿気無紋)一疋給レ之候。懇意喜悦之至候。隋而太刀一振・緞子廿端進レ之候。猶下間上野介可レ申候。恐々謹言。 (天文二十年) 十二月十七日 遊佐美作殿 |
猶々金台寺ニ委細被ニ申越一キ。被ニ示合一帰国奉レ侍候。去此御反答、御入魂之至不レ知レ所レ謝候。当陣于レ今相替義無レ之候。仍粮物御請之段、先以喜悦之事候。隋而御加勢之一儀、其国信州へ御行仁府無ニ御同意一之段、無ニ余儀一次第候。雖然以ニ亀鏡計一不レ依ニ多少一
一勢可レ得ニ加助一之旨、直書並以ニ一書一被ニ申入一候儀、早速於レ有御同心一者、誠当家可レ為ニ再興之専一一之由、猶相意得可ニ申展一旨候。 恐々謹言。
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(注釈)
(注1)遊佐続光の系譜関係の考察は拙稿「遊佐総光」のコンテンツ「ちぇっくぽいんと!」にあるので、詳しくはそちらを参照頂きたい。
(注2)従来は「石塚の合戦」として1543年と誤伝されてきた。
(注3)もっとも、押水の合戦は史料がかなり限られているので、続光に関する古文書が残っていないだけのことかもしれない。
(注4)特に交渉面では活躍している。弘治の内乱では長尾景虎(上杉謙信)との交渉役を務め、上杉家から援軍を得た。謙信の能登侵攻では、上杉謙信と内通し、結局長続連と続光の争いでは続光の勝利である。ちなみに長家関連の史料によると、同合戦で続光は七尾城の木落口付近を守備したと言う。
義綱公式見解「得意の外交を武器に権力闘争に明け暮れる人物。」 |
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