↑遊佐総光イメージ像(畠山義綱画)
美作守。「総」は畠山義総の偏諱であろう。遊佐嫡家の人物であるがおそらく遊佐統秀の子にして遊佐続光の父ヵ。亨禄年間の古文書に名前が見えるが、その発給文書は遊佐氏の自領の珠洲郡の若山荘の掌握に関するものがほとんどである。畠山義総が遊佐嫡家の権力拡大を防ぐため、政権中枢に置かなかったと推察できる。 |
総光政治活動ちぇっく!
総光は「美作守」の官途と遊佐嫡家の通字である「光」の字から亨禄年間に生きた能登遊佐嫡家の人物と考えられる。嫡家は遊佐祐信を初めとし初代・畠山満慶政権以来ずっと守護代の職にあったが、総光の時代はそのおもたる活動がほとんど知られていない。これは、畠山義総が守護権力の強化のために能登遊佐嫡家の守護代就任を妨げ、その職を能登遊佐庶流の「遊佐秀盛」「遊佐秀頼」に任じたからである。つまり、嫡家である総光は当主・義総に疎まれ政権の中枢に位置する事ができなかったと言える。その為、遊佐嫡家では遊佐祐信、遊佐忠光、遊佐統秀、遊佐続光とその名がよく知られているのに、統秀と続光の間にる総光の存在がほとんど知られていない。この事実は、義総に疎んじられ、その行動があまり知られていないからであろうか。
まず、(史料A)をみていただきたい。大舘氏というのは幕府の近臣であり、一族には申次や内談衆となったものもいる。つまり幕府外交を担っている人物とも言える。その人物に義総が早馬を進納しようとしており、詳細を「遊佐美作守」が申すとしている。(史料A)は年次未詳であるが、発給した「義総」の名前から畠山義総が家督を相続した1515(永正12)年以降のものだと考えられる。また、義総は1536(天文5)年に入道して徳胤と発給文書にも名乗っていることから、これ以前の文書だと考えられる。すると(史料A)の発給された1515(永正12)年〜1536(天文5)年で「遊佐美作守」と言えば誰を比定できるだろうか。「遊佐美作守」と言えば遊佐統秀がいるが、統秀は畠山義統・義元・慶致の時代に活躍した人物であり、年代的に不可能ではないがかなりの壮年に達していると言える。それよりも1531(享禄4)年などに文書が知られる「遊佐美作守総光」ではないかと考える方が妥当ではないかと思う。義総は申次衆である大館尚氏と懇意にしているが、その中で義総の使者として何度も活躍するのは「遊佐豊後守秀頼」である。「豊後守秀頼」の名前が何度も対幕府交渉で散見されるのに対して、「美作守総光」が年次不詳とはいえ、一通しかないことを考えると、当初こそ義総政権の中でそこそこ地位のあった総光も、徐々にその地位を追われたと見ることができないだろうか。一方で、総光は政権の中枢に入れないせいなのか、遊佐氏の領国である珠洲郡若山荘の掌握に力を入れていたらしい(史料B)。遊佐氏は珠洲地方の領主的支配を行うため、荘園領主・日野氏の祈願寺であった法住寺を外護して上記のように田地を寄進したり、永光寺の有力檀越となって永光寺門末である領内の金峰寺を菩提寺として所領を安堵したりして、領主的基盤を築いていった。総光の署名入り文書としては「法住寺文書」に2通、「金峰寺文書」に2通で4通存在する。
温井氏は輪島に領地を所有し天堂城を築き、長氏は穴水に領地を所有し穴水城を築ていた。遊佐氏には珠洲には自領があるが、温井や長に比べられるような大きな所領は知られてない。これは、遊佐嫡家が守護代職にあって能登全体を統括してきたので特定の大きな所領を持たなかったためであろうか。
総光の後に出てくる遊佐続光の代になると、遊佐嫡家も再び畠山家中で頭角を現した。義総の後を継いだ畠山義続に対し遊佐続光と温井総貞が中心となって起こした七頭の乱で守護方の権力を削ぐことに成功した重臣達にあってを遊佐氏は温井氏と実力を二分するようになる。つまり、続光の代にはそこそこの軍事的・経済的基盤があったものと考えられる。遊佐氏自体に温井氏と対抗力がなくても協賛者がいれば対抗できることになるが、それでも全く経済力のない人物に味方することはあまりあり得ないので、続光の頃、遊佐嫡家にはある程度の経済的基盤があったと見るほうが妥当であろう。とすれば総光は義総に疎まれていたので、珠洲の領国で領主的基盤を築き、遊佐嫡家の経済的基盤を整備し、復興の足掛かりを築いた人物といえる。こうして、義総が死去し義続が当主を継いだ続光の頃、遊佐嫡家は復興し、家中で再び重きをなしていくのである。そう考えると、総光の政治力はある程度評価できるのではないか。
以ニ毛付一申登候馬之儀、余仁無ニ見立一候間、馬一疋 鹿毛無紋進候。従ニ越後一率上候早馬候条、進レ之候。御立置候者可レ為ニ祝着一候。猶遊佐美作守可レ申候。恐々謹言。
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法住寺寄進之事 合百苅者 在所高井作人小田兵衛三郎 右為食堂修理・興隆仏法・現当二世、永代令寄附処也、仍状如件 亨禄×(四)年辛卯閏五月十九日 (遊佐)総光(花押) 衆徒御中 |
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「遊佐総光・続光の系譜関係」
遊佐総光と遊佐続光は何か血縁があるのか。ここでは続光の父は誰かと言う事を、推測を交えて考えてみたいと思う。『クロニック戦国全史』(講談社)において、遊佐続光の父は遊佐慶親とされている。慶親とは、越中遊佐守護代家の人物であり蓮沼城に拠っていた。しかし、今のところ能登遊佐氏と越中遊佐氏を積極的に結びつける確証が無いのでにわかに信じがたい。また、亀田康範氏は続光の父が遊佐豊後入道(秀頼)であるとしている(注1)。秀頼は能登遊佐氏の庶流であが、続光については畠山家当主から偏諱を貰っている事、続光の官職が能登遊佐嫡家の代々の官職である美作守であること、続光の「光」の字は遊佐嫡家の通字である等から、続光は遊佐嫡流の子ではないかと思われる。それを裏付けるためには、続光の父が誰であるかということを明らかにすることは避けて通れない。それと同時に、なぜ続光の父親が上記のように交錯しているのかも明らかにする必要がある。そこで、ここでは能登遊佐嫡家である遊佐統秀と遊佐続光が登場する間の遊佐氏の人物を考察することを通して、続光の父を明らかにしていきたいと思う。
まず第一に、なぜこれまで遊佐総光のことがほとんど取り上げられなかったということを考える。ここでは仮に「美作守」を名乗り、当主から偏諱をもらい「光」の字を称する「総光」を統秀の長男とし、秀盛を統秀の次男(注2)ということを前提にする。畠山義総は守護権力強化のため、もとより守護代権力の削減を狙っていた。そのため遊佐氏の長男の総光より、次男の秀盛を重用して遊佐氏の分裂を誘った。こうして、総光は閑職に追いやられることになり、古文書の発給も遊佐氏の自領の珠洲地方に留まっていた。そのため、後世に残った古文書の量もかなり少なく、この「総光」という人物の存在が忘れられたということである。
では、第二にどうして守護代職を「総光」ではなく「秀盛」に渡すことができたのであろうか。これは、義総政権が安定していたとも考えられるが、それは推定の論としてはちょっと弱い。「権力を強化するために守護代職を秀盛にした」のなら、秀盛を守護代にする前の義総政権は「まだ権力が強化されていない」状況である。そんな中で守護代の後継者を長男の総光から次男の秀盛に義総の独断でできたのであろうか。遊佐氏の反発はなかっただろうか。これをとくカギは父の「統秀」にあるのではないか。能登の守護代家である遊佐は遊佐基光(祐信)−遊佐忠光と来て、突然遊佐統秀というそれまでの「光」の字から「秀」の字になっている。これをどう考えるべきか。@に、遊佐嫡家の人物の早世で統秀が養子に迎え入れられたという可能性である。それならば、「秀」の字も説明ができる。さらに、総光は早世した能登遊佐嫡家の子であり、統秀の実子は秀盛であったとする。そうであれば、義総は権力削減のため、統秀は自分の子どものために遊佐庶流家に守護代を渡すということが考えられる。しかし、これはあまりにも突飛な考え方で危うい理論である。Aに、統秀は長男の総光より次男の秀盛を寵愛していた可能性である。すると統秀は秀盛を守護代に据えたく義総に懇願するだろうし、義総は守護代権力削減のチャンスと思うだろう。この時新たにできた遊佐庶流家により嫡家を牽制することができる。他にも義総は、遊佐左馬頭家(遊佐氏庶流)の遊佐左馬允秀倫を側近とするなど、権力削減を遊佐氏同士の牽制によってしていると見ることもできないか。そうなると、などで、遊佐嫡家の遊佐続光と遊佐信濃守家(遊佐宗円)との対立などもスムーズに理解できる。
このようにして、遊佐氏の牽制があることを考えると、続光が幾度も政争を繰り返し権力を手にしようというのも理解できる。すなわち牽制に打ち勝って権力を手にしようと思うからである。さて、肝心の続光の父の問題であるが、このような遊佐氏の牽制を考えると、どの家の出自かということが重要になってくると思われる。そうなるとやはり、「美作守」と「光」という共通点から、また年代的な事情を考慮すると、美作守続光の父は美作守総光と考えるのが一番素直であろう。また、義総に疎まれていた総光(能登遊佐嫡家)だけに、続光の活動が、義総政権期には知られず、義続政権期になって見られるのもその徴証と言えるのではないか。それゆえ、ここでは続光は美作守総光の子と考えたい。
以上のような私見をまとめると、以下のような系図となる。
(注釈)
(注1)『珠洲市史』資料編中世・寺院・歴史考古.1978年
(注2)秀盛を統秀の子とみる歴史家は多い。すなわち、「秀」の共通の字と「右衛門尉」という統秀の父・忠光が称していた官途と同じだからである。
義綱公式見解「疎まれながらも実力を蓄える苦労人」 |
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