↑温井総貞イメージ像(畠山義綱画)
1534(天文3)年に兵庫助、1545(天文14)年に備中守。1551(天文20)年に七頭の乱の責任を取って入道して紹春。法名紹春禅定門。温井孝宗の子。天堂城主。義総・義続・義綱に仕えた。家中の筆頭重臣 で義総時代文芸に深く義総に取り入れられて筆頭となった。しかし、義続時代に七頭の乱・大槻一宮の合戦と合戦を得て家中の中で実権を有した。そのため、権力回復を図る義綱に1555(弘治元年)年暗殺された。 |
総貞政治活動ちぇっく!
総貞の古文書上ので初見は1534(天文3)年。鳳珠郡能登町にある鵜川菅原神社を造営した領主として「温井兵庫助 総貞代官 丸山源左衛門尉・同福田藤左衛門尉」とある。まだ一族の中で首領の地位を示す「備中守」ではなかった。その後、総貞は文芸に精通していて家臣の中でもかなり熱心に文芸を学んでいた。そのためか、総貞は義総に寵愛され重臣としての地位を固めていった。そして義総が死去すると、畠山家中の実権を握るべく行動を開始する。まず、「内輪之不慮」(証如上人書札案)に端を発し、守護方に対する不満において「七頭」として重臣間でまとまり争乱となった七頭の乱で遊佐宗円と並んで大将として、本拠である七尾城を陥落させ守護方と対立し勝利した。当主である畠山義続は入道して徳祐となったが、同時に身分の上の者に反旗を翻した責任を負い総貞も、遊佐四右(後の続光ヵ)、遊佐信州(後の宗円)、遊佐左馬(秀倫ヵ)、長九郎右(左)衛門(続光)、平殿(総知)、三宅次郎右衛門、伊丹某(続堅)らと共に落髪し入道し「紹春」と名乗った。
しかし、畠山徳祐(義続)と紹春(総貞)以外はこの後も実名で文書に見え、その落髪が「形式的」であったことが窺える。つまり七頭の乱で紹春(総貞)は影響力が低下したのである。一方で、重臣間の争いを調停できなかった大名権力も家中を掌握するには事足りない。そこで「七頭」を根拠に重臣たちの合議体制で政局を運営する畠山七人衆体制を1551(天文20)年スタートさせる。この畠山七人衆体制は温井紹春と遊佐宗円の影響力が小さくなったため、結果的に遊佐嫡家である遊佐続光が台頭することになった。再び家中の実力を取り戻したい紹春は1553(天文22)年 大槻一宮の合戦において対立していた遊佐続光を蹴落とし、再び家中で権力を手中にした。畠山七人衆を自分の味方で補充し、自身は七人衆を引退するがその後も実権は維持して大名権力(畠山義綱)を傀儡化した。一説には1555(弘治元)年、義綱に七尾城から水利のきく城に移転を提案したとも言う。その真意は義綱を七尾城から追い出して、自らが七尾城を占拠するとも、大名権力回復を狙う義綱を幽閉する画策とも言われる。
それが真実かは不明だが、大名権力復権を目論む畠山義綱にとっては紹春は邪魔でしかない。折しも紹春の味方である遊佐宗円の名前も病死したのか古文書に見えなくなっており、紹春を追い落とすためには絶好の機会でもあった。そこで1555(弘治元)年飯川邸で連歌の会を開くと偽って呼び出し、義綱は紹春を暗殺とされる。しかし、東四柳氏はこの従来通説化された暗殺事件は、資料的に確認できず紹春の暗殺は病死ではないかと推測している(「弘治の内乱の基礎的考察」『国史学』122号)。その際の、弘治の内乱の要因については畠山合戦記録の弘治の内乱をご覧頂きたい。
ちなみに、栗棘庵に発給した総貞の文書のうち、1545(天文14)年6月8日付けの文書は「兵庫助総貞」と署名しているのに対し、同年12月13日付けの文書では「備中守総貞」となっている。この間に官途を変更したのであろう。1545(天文14)年7月12日に畠山義総が死去しているので、その後「備中守」を名乗ったのではなかろうか。
総貞出陣履歴ちぇっく!
総貞が経験した合戦としては押水合戦・七頭の乱・大槻・一宮の合戦がある。総貞が台頭する初めてのきっかけとなったのは押水合戦である。畠山駿河等反乱軍を温井一族が主 軸となって押水で撃退している。その後、七頭の乱・大槻・一宮の合戦ではやはり温井が主軸となったが、温井の守勢が影響して、序盤は劣勢となってしまっ
た。その後、長続連の軍勢などで盛り返し、勢いで温井勢も戦功をあげ、総貞の地位をより高めた。このこ
とから察して総貞本人が戦闘力に長けていたとは思いにくい。
総貞対外活動ちぇっく!
総貞は、義総政権持代から対一向一揆の交渉役として外交にあたっていたと言われる。さらに、1550(天文19)年からは総貞本人が本願寺証如と積極的に接触を図り親睦を深めている様子が窺える。また、証如に年始の贈り物(太刀や絵や輪島素麺など)能登国に坊舎を建設する旨を伝えるなど、本願寺へのご機嫌取りに熱心であった。これは、能登の政権に抵抗する勢力が本願寺の援助を得て侵攻してくる(畠山九郎の侵攻、押水合戦など)ので、これを防ぐには本願寺と懇意でなければならないと考えた義続の外交政策と一致する。そして、総貞は畠山家とは別に個人的に懇意にすることで、家中での実力を高めようと考えたのであろう。そして実際に総貞は、内外ともに認める実力者になっていったのである。事実、畠山七人衆引退後も実力を維持し、本願寺からの文書では、総貞が七人衆より上位に扱われていた。総貞の権力の大きさが分かる徴証である。そう考えると総貞の死後、弘治の内乱で温井続宗らが、本願寺勢力と結びついて義綱政権に対抗できたのも、総貞の頃の縁と言えよう。
総貞文芸活動ちぇっく!
7代当主義総の近臣で、義総とともに熱心に和歌や漢詩分などの文芸を学び義総の寵愛を受けた。それが
後の総貞の政治的台頭に繋がった。「独楽亭記」の作者で知られる彭叔守仙とも関係は親密であった。題になっている独楽亭とは総貞が建てた風流な小屋の事である。さらに彭叔との親密であったことを語るものとして、総貞の室(桃渓宗仙禅定尼・吉良氏の出自)が1546(天文15)年夏頃に病に臥し、翌年閏7月5日に38才で死去すると、総貞は三尺の卒塔婆を造り、彭叔に文を依頼し、霊を慰めた(鉄酸餡 餡叙和尚語録)というエピソードがある。これらの事実からも総貞の文芸の深さの一端が伺える。
『義綱奮戦記』の舞台裏・小説での総貞!
義総政権時代の義総の寵臣総貞であるが、義続政権下での七人衆結成・義綱に対する幽閉疑惑、義綱の総
貞暗殺説から、また、東四柳氏の総貞の行動は続光と違って下克上の想を呈しているとの指摘から、小説での総貞を悪役とした。感じとしては、『剣豪将軍足利義輝』の細川晴元に近い。
義綱公式見解「総貞は政治力・文芸に長けていたが野望が高く下剋上を企んでいた。」 |
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