温井孝宗特集

温井孝宗
↑温井孝宗イメージ像(畠山義綱画)

☆温井 孝宗<ぬくい たかむね>(?〜1531)
 藤五郎。兵庫助、備中守。法名は大演性芸居士。温井俊宗の子。天堂城主。義統・義元・慶致・義総に仕える。和歌に精通し風流の士であり、孝宗が温井氏当主になった頃には温井氏もかなりの勢力を擁していた。しかし、そんな孝宗も加賀津幡の合戦(1531年)に従軍し、加賀国河北郡大田で11月2日に討ち死にした。

孝宗政治活動ちぇっく!
 1479(文明11)年に京都清水寺再興の為の募縁があったとき、能登では畠山義統が30貫と太刀などを送り、これと同時に義統の臣・孝宗と三宅忠俊が柱1本20貫を奉賀している(「成就院文書」所収「清水寺再興奉賀帳」より)。また、1510(永正7)年に、「温井兵庫助藤原孝宗」の名で、自領の田を岩蔵寺(鳳至郡)に寄進している。さらに1524(大永4)年には、重蔵神社(鳳至郡)の拝殿の建立も行っている。これらの事象から孝宗が当主の時代に温井氏はかなりの経済力を持っていたということが窺い知れる。
 下記文書Aによると、「文武両道に秀で、実隆から親しく和歌に判詞を書いて貰い、賞賛されたことが知られる。」(米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社,1976年,178頁)という人物だったらしい。確かに温井氏で唯一肖像画が残っていたり(下記参照)、1547(天文16)年に盛大に孝宗の17回忌が温井氏一族で営まれているのを考えると、かなりの実力者だったことが伺える。

(文書A)「故備中前司大演性雲居士肖像賛」
矧夫文武道彰、三条内府逍遙元老、親判和歌著述作

孝宗出陣履歴ちぇっく!
 孝宗は、加賀の小一揆と大一揆の争いに端を発した亨禄の錯乱に巻き込まれることになる。すなわち、能登畠山家が小一揆の支援の為加賀津幡に派遣した軍団の中に孝宗がいたのである。1531(亨禄4)年、畠山軍と大一揆軍は加賀津幡で合戦となった(加賀津幡の合戦)ここで畠山軍は大敗を喫し、総大将の畠山家俊、温井孝宗父子3人、飯川若狭守、ほか遊佐、神保、三宅の一族も戦死者が出たと言う。
 1547(天文16)年の孝宗の17回忌に於いて、能州に下向中であった彭叙が孝宗の器量を称えているので、戦死したとは言え、やはり相応の器の武将であったと推測できる。

孝宗文芸活動ちぇっく!
 孝宗の詳しい文芸活動は知られていない。前述のように「故備中前司大演性雲居士肖像賛」に於いて“実隆から親しく和歌に判詞を書いて貰い、賞賛されたこと”と、1517(永正14)年に能登に下向していた冷泉為広の門人となっていることが挙げられる。具体的な文芸活動はそれほどしられていないが、孝宗の父・俊宗(備中守入道)が実隆に書状と絹一疋を送り源氏物語の歌を所望したり、三百疋を送って掛字を送ってもらったり、孝宗の子・温井総貞の和歌や漢詩文を好むなど、孝宗の親・子が多彩な文芸活動を知らせることからすると、史料に残らなかったが孝宗の文化水準はかなり高かったのではなかろうかと推測ができる。俊宗・孝宗の文化水準が高かったゆえ、その子・総貞は文芸活動を通じて畠山義総に寵愛され家中で実力を伸張させていったと言う事ができるであろう。

☆参考資料

温井孝宗肖像画
「故備中前司大演性雲居士肖像賛」の温井孝宗肖像画

参考文献
東四柳史明『戦国大名家臣団事典』新人物往来社,1986年
米原正義「能登畠山氏の文芸(下)」『国学院雑誌』,1965年
米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社.1976年

義綱公式見解「武将としての器の大きい人物であった。」

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