畠山春王丸特集

畠山春王丸イメージ像
↑畠山春王丸イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 春王丸<はたけやま はるおうまる>(1575?〜1577?)
 10代当主畠山義慶の嫡男。1576年、父義慶の急死を受けて、若年ではあったが家督を継承した。『長家家譜』に拠ると1576年から始まる謙信の能登侵攻において七尾城篭城を展開する最中、1577(天正5)年7月23日に城中で流行した疫病によって病死した(一説には七尾城落城後上杉謙信の養子となったという説もある)。実権はないとはいえ総大将が死したことは指揮の低下を招き、その2ヶ月後には七尾城が開城。170年間続いた能登畠山家が滅亡した。

春王丸代替わりちぇっく!
 春王丸への代替わり時期は従来は1574(天正2)年説と1576(天正4)年説と二説あった。しかし、畠山義慶の死去時期が『興臨院月中須知簿』による1576(天正4)年4月4日の条に「能登国七尾城主畠山義慶、没する」と確定したことから、その代替わり時期は1576(天正4)年だと確定している。
 すると、家督継承の時期に伴なって春王丸の年齢も検討の余地が残る。『長家家譜』によれば、家督継承時2歳、死去時5歳とするが、それは1574(天正2)年に家督継承説が前提である年齢である。1576(天正4)年家督継承説を採ると、春王丸の年齢を家督継承時の年齢から採るか、没年の年齢から採るかで変わってくる。つまり前者の生年は1575(天正3)年となり後者は1573(天正元)年となる。
 さらに問題なのは、なぜこんな若年の春王丸が能登畠山家を継いだかである。当時畠山一族と言えば、畠山義綱の三男と言われる松波義親がいるし、1573(天正元)年の「気多社大宮司旦那衆交名」において「二本松・将監・治部大夫・弥太郎・刑部少輔の五家の存在が見える」(東四柳史明『戦国大名系譜人名事典西国編』)とあるなかでどうしてそれら「成年」の者が家督を継承しなかったのであろうか。その理由は、当時の畠山家の支配体制にあった。永禄九年の政変で9代当主畠山義綱が追放されてから、能登の治世は重臣達主導で行われた(詳しくは、畠山家晩年における政治体制の一考察)。その為、自らの意志を主張できる成年当主は重臣達にとってやっかいな人物であり、できれば意見をまだ言えない若年当主が望ましかった。それゆえ、永禄九年の政変では、畠山義慶が元服前にも関わらず当主として擁立された。それは、春王丸の時も同じであった。春王丸も重臣達に意見できないような年齢だったからこそ、当主として担ぎ出されたのだ。

春王丸政治活動ちぇっく!
 11代当主となった春王丸はまだ幼いので、直接政治を行ったことはなかったであろう。『長家家譜』によれば御守役は「叔父である二本松伊賀守」としているが、二本松伊賀守義有畠山義隆)は畠山義綱の次男と言われ、能登畠山氏の一族である「二本松伊賀」の御守役は事実かもしない。しかし『七尾城の歴史』(32頁)によると春王丸は「長九郎左衛門尉綱連之を保育後見す。」とあり、巨大な軍事力を背景に当時能登畠山家中で大きな影響力をもっていた長氏であり、その当主長綱連が後見するのはもっともな話である。

文書(A)上杉謙信古文書 『歴史古案』
以別紙申候。如此之事迄、沙門之進退ニ而不似合候得共、丹後守(景広)三十二成迄足弱無之候。是者定謙信不合気ニ者好思慮故、干今縁辺無之与校慮申候間、様々雖◆(◆は足へんに為の字)娘候。結局愚気遣など候者、父子共ニ可為迷惑候間、此度七尾納手裏候時、畠山義隆御台、息子一人有之候ツル、是者在之三条殿之息女ニ候間、年頃も可然候歟与思、息をバ身之養子ニ置、老母をバ丹後守ニ可為申合、爰元江召連、則丹後守預置候。少茂不足之分ニ者無之候。以衣鉢可申候。偽ニ無之候条、彼息謙信養育申上者、身之かたへの好ニも成候事候間、其方異見、春中早々被迎取候様ニ頼入候。目出弥可申候。 謹言。
(天正五年)極月十八日
 
謙信 在判
 北条安芸守(高広)殿
謙信が北条高広にあたて文書。高広息子景広に義高室を与えて、義高息子は謙信が養育するというもの。

『長家家譜』に拠ると春王丸は上杉謙信の能登侵攻において七尾城に篭城している最中、1577年7月23日に城中で流行した疫病によって病死したと言う。確かに謙信侵攻によって国中の男女が城へ退避すれば七尾城内は人で溢れ、その糞尿で悪い疫病が流行した為春王丸が死去したというのは納得できる。ただ、上記文書(A)によると、畠山義隆畠山義慶の誤り)の室・京都の公家三条家の娘は上杉謙信の臣・北条景広に与え、その息子は謙信自身が養子にして養育すると述べている。この息子は「春王丸」とも言われる。春王丸とすれば1577(天正5)年の病死は誤りであり、春王丸はその後も生存していたことになる。しかし、謙信文書も「春王丸」と明確に述べていないのでひょっとすると畠山義慶の別の子の可能性もある。1577年病死説、謙信養子説のどちらも現時点での判断は難しい。後考を待ちたい。

ちぇっくぽいんと!
 様々な書籍では最後の能登畠山家当主を「畠山義春」としている。これは『長家家譜 第三巻』に、「無異儀七尾へ御帰陣、綱連公と御一緒に御籠城、于時畠山義春卒去に付、城内之将卒勢失ひしかば」(赤字筆者書く『新修七尾市史』七尾城編P.308より)とあるので、これを誤伝し、春王丸=義春としたのであろう。しかし、かなり幼い時期に元服して実名「義春」を名乗るのは有り得ないことである。とすれば、「義春」の名は畠山義綱の弟・畠山義春(上条政繁)のことで越後に養子にいったことを上記文書(A)と混同した為に間違えたのであろう。

義綱公式見解「春王丸は戦時に当主にされた悲運な子供である。」

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