↑畠山義綱イメージ像(畠山義綱画)
幼名次郎。能登守護・七尾城主。1571年修理大夫を受領。畠山義綱の嫡男。永禄九年の政変において父義綱が長続連、遊佐続光らに追放されたことにより重臣に担ぎ上げられ幼少の身で能登畠山氏10代当主となる。その後傀儡化された挙げ句、1576(天正4)年4月4日、内紛と上杉家との関係悪化という非常事態の中で亡くなる。 法名は興性寺殿桂岳徳林大禅定門。 |
義慶支配体制ちぇっく!
義慶政権は2期に分類できる。
第1期(反義綱派体制)<1566-1570>
特徴:永禄九年の政変において義綱を追放した3人が年寄衆を形成し(古文書B)、組織的にも義慶を傀儡化した。一方温井景隆が加賀より帰参し(古文書A)、重臣の争いが絶えなくなっていった。
第2期(若返り人事期) <1570-1576>
≪年寄衆≫
温井景隆、長綱連、平堯知、遊佐盛光、三宅長盛、長光連
≪側近≫
大塚連家
特徴:青年になった義慶に対して、傀儡化への不満をそらす為か年寄衆全体が若返っている。しかし、実権は依然として遊佐続光、長続連が握っている。そこに温井景隆が加わり、三大派閥が形成された。義慶の側近に大塚連家がいた。連家は義慶発給文書にも名を連ねている。
☆義慶政権期は奉行人も佐脇綱盛らを中心として整備されたが、すべて重臣達の主導で決まり、能登畠山家は七人衆時代のように重臣寡占体制に復したと言える。
義慶政治活動ちぇっく!
義慶の仮名は、気多大社の神頭主が1685(貞享2)年に金沢藩の寺社奉行に提出した由緒書上に「相殿白山社・若宮者、元亀三年ニ畠山次郎源義慶公御建立」とある。次郎は能登畠山氏の嫡男の仮名であり、義綱の嫡男であることが知られ、義慶の発給文書も3通発見されている。(古文書C)と(古文書D)と(古文書E)で、さらに興臨院過去帳にも「能州太守 義慶公」の名がある(文書F)。一方で、長家関連の資料に見られるまったく古文書では確認できない「畠山義隆」が嫡男ではないことが最近の研究の成果で明らかとなった。つまり、義綱仮説によると1554(天文23)年に誕生してから、畠山義綱が追放される1566(永禄9)年まで、城主である畠山義綱はもちろんのこと畠山家中からも後継者として認知されていたと考えられる。
その状況が変わってしまうのが、1566(永禄9)年の永禄九年の政変であった。能登畠山の中心人物である畠山義綱とその父畠山義続が重臣達に追放された出来事である。(古文書A)によると。畠山義慶と推定される「御曹司」が能登畠山家の中心にいる一方、去年の中心を屋形と別の表現をしていることから、為政者が「當国(能登)之儀、不慮之次第」で交代したことを表している。すなわち畠山義綱が永禄九年の政変で追放されて、義慶が元服前ではあるが当主として擁立された事を示している。この事から(古文書A)は1566(永禄9)年のものと判断できる。また、畠山義綱が弘治の内乱で敵対した温井景隆が帰参した事が奉行人である井上英教から報告されているのを見ると、その政権の基盤が義綱・義続父子の追放主体である「反義綱派」で形成されていたことが強く想起される。実際に1567(永禄10)年のものとみられる笠松但馬守への文書を見ても、長続連、遊佐続光、八代俊盛が政権の中心になっていることがわかる。すなわち畠山義綱の大名専制に反発していた面々であることから、おそらく幼年の義慶は政治に口を出せる要素はなかったと思われる。これが、1566(永禄9)〜1574(天正4)年と8年間の七尾城主の地位に有りながら文書の発給が少ない理由とみられる。
前述したように、直接の発給文書は3通であり、1571(元亀2)年の修理大夫の官途受領と、1572(元亀3)年の元服(古文書D)、1573(天正元)年4月の一宮気多大社の摂社白山・若宮両社の造営である。これは元服の1年前の出来事であるから、青年に達した義慶自身の政策であるかもしれない。また、1573(天正元)年に造営した気多大社の摂社若宮神社(下に写真がある)は先代当主で義慶の父・義綱が1562(永禄5)年に気多大社の造営を行っているので、義慶のこの政策は義綱政権の継続(連続)とも言える。これは、永禄九年の政変で新旧政権(義綱政権と義慶政権)の断絶があったにも関わらず、義綱政権の政策の連続性が見られる注目すべき事象である。これが義慶の重臣達の傀儡化への反抗か、重臣達が政権の正当性を訴えるために前政権の行った事業の継承を行ったかは意見の分かれるところである。
古文書A「棘林志」
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古文書B「笠松文書」
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古文書C 畠山義慶礼状(「常福寺文書」)
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古文書D 畠山義慶礼状(「栗棘庵」)
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古文書E 畠山義慶書状の写し(「長家史料」)
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文書F 興臨院月中須知簿
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義慶外交政策ちぇっく!
表向き義慶政権は越後上杉と提携関係にあるが、内面はそうではなかった。三大派閥の巨大化(詳しくは畠山家晩年における政治体制の一考察参照)にともない、次第に能登畠山家は長派=親織田、遊佐派=親上杉、温井・三宅派=親一向一揆と複雑な様相をていし、当主義慶はその政争に利用される可能性もあって非常に不安定な立場であった。
しかし、表向きの上杉家との提携関係すら壊れてしまうのは、1568(永禄10)年の父・義綱の能登御入国の乱が実施されたことによる。この戦いにより義綱と謙信の仲が密接になり、謙信は以後も義綱の入国を支持した。これは同時に現義慶政権を認めていないということになり、いわば能登と越後は国交断絶状態となった。今まで強固な同盟関係にあった越後上杉家(長尾家)を能登畠山家は敵に回してしまったゆえ、家中の実力者である長続連はより強力な後ろ盾を求め一層織田信長との結びつきを強めた。こうして義綱時代から一転して、能登畠山家は四面楚歌に陥ったのである。だが、義綱と謙信の提携関係も能登御入国の乱で敗れ、義綱が信長に接近すると崩壊し、謙信は再び畠山家(義慶政権)に接近した。
このような複雑な国内状況にあったからこそ、越後上杉家から能登畠山氏は内情が複雑で信用できないと考えられ、結果として1576(天正4)年の謙信の能登侵攻に繋がってしまった。東四柳氏によると「義綱の出奔後に見られる入国作戦の展開は、能登畠山氏領国制自壊作用の一因をなしていた」(※1)と指摘され、能登畠山家を滅亡させる間接的な理由として求められよう。
義慶出陣履歴ちぇっく!
義慶政権時代の戦争といえば、1568(永禄11)年義綱の能登御入国の乱である。しかし、この戦いが起こった時義慶はまだ元服しておらず、幼名・次郎と呼ばれていた。それゆえ一時義慶軍は七尾城を包囲されるまでになったが、次郎(義慶)が出陣することはなかった。おおよそ七尾城中にいて重臣達に固く守られていたのであろう。無論指揮権は重臣達の合議の下であったろうが。
義慶武将器ちぇっく!
義慶とはどんな人物であったのであろうか。『戦国大名系譜人名辞典』に依ると「遺存する義慶の鋭い大ぶりな型の花押から、剛直な若武者のイメージがしのばれる。」とされている。また、『日本の城下町
E北陸』に依ると「義綱のあとの八代当主(10代当主の誤り 九代説と十二代説参照 )は、その嫡男の義隆(誤り・前掲と同じ
)である。(中略)資質英俊と伝えている 。一説によれば、戦国武将にふさわしい器で、将来は北陸の名将として名を残す人物とみられていた、ともいう。」情報ソースが書いていないので、信用するには慎重を期しなければならないが、
ともかくそんなに凡庸な武将ではないような気もする。
義慶が亡くなった時期は1574年か1576年か?
義慶の死去した年代は従来は1574(天正2)年7月とされてきた。その根拠となったは『長家家譜』『越能賀三州志』『棘林志』などにより遊佐続光が畠山義隆を暗殺したとしていたという記録がある。これらの資料に登場する家臣に追放された「畠山義則」を畠山義綱に、暗殺された「畠山義隆」を畠山義慶に、その後に家督を継いだと言われる「畠山春丸」を畠山春王丸に、その家督を補佐した「二本松伊賀守義有」を畠山義隆に比定してきた。しかし『興臨院月中須知簿』による1576(天正4)年4月4日の条に「能登国七尾城主畠山義慶、没する」(文書F)と書かれていたことが2018(平成29)年に刊行された『加能史料 戦国]Y』で初めて明らかになった。以前から『興臨院過去帳』により畠山義慶の死去年代を1576(天正4)年であるという指摘もあったが、公的な刊行物に示された事で、明確に「1574(天正2)年7月」に畠山義慶もしくは畠山義隆が暗殺された事が否定されたのである。
ただし気になる点もある。(文書F)で「能州太守 義慶公」とあるのに、法名が「大居士」でなく「禅定門」とあるのが少し不自然である。例えば、畠山義続の長男で早世した畠山義繁の興臨院の過去帳は法名大用寺殿心月徳安大禅定門となっている。法名は寺に対する寄付金の上下で変わっているので、「禅定門」となった義慶は払う金額が下げられたのであろう。1576(天正4)年という年が誤っていないのであれば、その時点で能登畠山家がそれほど金銭の用意ができないことも考えられる。さらに(文書F)が正しい死去年代を明らかにしているとはいえ、死因は書かれていない。その理由についての考察は、不定期特集のなぜ義慶、義隆は暗殺されたのか?を参照していただきたい。また、義慶亡き後、「能州太守 義慶公遺物」とされる「曲物」が2つと、「推朱盆」が興臨院に寄進されている。誰が寄進したかはわからないが、能登畠山家滅亡後に上杉謙信に庇護されたという義慶の妻だろうか(※2)。
義綱公式見解「義慶は父の政策を受け継いだ政治を行った。」 |
☆参考資料
←義慶花押
↑1573(天正元)年義慶が建立した若宮神社(気多大社内)が400年の時を越えて今でも現存する。貴重な残存室町建築である。
(注釈)
※1東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
※2従来、畠山春王丸は畠山義隆の子と解釈されてきたが恐らく、義慶の子である。(詳しくは「畠山義隆特集」参照)
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