畠山義綱が追放された後の能登畠山氏の晩年における当主の動向についてはなかなか発給文書の制約もあって考察仕切れない状況が多い。そこで畠山義綱の子どもである畠山義慶と畠山義隆没年の検証することで、晩年の畠山一門の動向を少しでも明らかにしたいと思う。の事績は畠山家の混乱期にあたり、よくわかっていない。また、義慶・義隆の最期については、1574(天正2)年に義慶が、1576年に義隆が暗殺されたといわれているが、果たして本当なのであろうか。資料によって書かれ方がまちまちなので、ここではそれを総合して多少なりの考察を加えていきたいと思う。 |
(1)義慶・義隆についての暗殺事件を知らせる史料から
暗殺事件を扱った史料としては3つある。江戸時代に成立した『長家家譜』などの軍記物史料は、そもそも「畠山義慶」という人物が存在しない。二次資料についての人物と従来からの説を比較すると次の(図1)のようになる。
二次資料人物 | 二次資料内容 | 史実比定される人物 | |
畠山義則 | 能登の国主で追放された | → | 畠山義綱 |
畠山義隆 | 畠山義則の嫡男で家督を継ぐ | → | 畠山義慶 |
二本松伊賀守義有 | 畠山義則の庶子 | → | 畠山義隆 |
畠山義慶と畠山義隆の死去に関する資料や史料をまとめると(図2)のようになる。それを元に歴史研究家の考察結果が(図3)の通りである。
出典 | 『長家家譜』長氏等関連 『越能賀三州志』 |
「上杉輝虎公記」 | 「興臨院月中須知簿」 |
起こった年 | 1574(天正2)年 | 1576(天正4年) | 没年→1576(天正4) |
暗殺対象 | 畠山義隆(19才) | 畠山義隆 | 畠山義慶 |
実行犯 | 遊佐続光、温井景隆ら | 長続連 | − |
布施秀治氏 | 下出氏 | 井上氏 | 東四柳史明氏 | 遊佐きむち氏 | 畠山義綱(筆者) 2019年まで |
畠山義綱(筆者) 2020年から |
|
起こった年 | 1576(天正4) | 1574(天正2) | 1574(天正2) | 1574(天正2) | − | 1574(天正2) 1576(天正4) |
1576(天正4) |
暗殺対象 | 畠山義隆 | 畠山義隆 | 畠山義隆 | 畠山義慶 | − | 畠山義慶(1574) 畠山義隆(1576) |
畠山義慶 |
実行犯 | 長続連、三宅長盛 | 「利害を共通にする重臣の共同謀議」 | 長続連 | 調査中 | 自然死が暗殺のように見えただけでは | 長続連(1574) 遊佐続光(1576) |
長続連? |
主な著書 | 『上杉謙信伝』 | 調査中 | 『上杉謙信』 | 『七尾市史』 | − | − | − |
従来は、二次資料を中心とし、暗殺されたのは畠山義慶なのか畠山義隆ということが論点の中心となっていた。しかし、2018(平成30)年刊行された『加能登史料 戦国16』の「興臨院月中須知簿」1576(天正4)年4月4日の条において「能登刻七尾城主畠山義慶、没する」という記載が公開され、それまで少しずつ指摘されていた「興臨院過去帳」の「能州太守、義慶」の没年が確認された。この一次史料を持ってほぼ畠山義慶か畠山義隆の死去の時期が「1576(天正4)年4月4日、畠山義慶死去」という事実がハッキリと確定した。さらに畠山義隆は暗殺されていないことがわかり、現時点で「生没年不詳」となった。
しかし、残る死因の問題については何も解決に至っていない。「興臨院月中須知簿」には畠山義慶の死因が書かれていないからである。つまり(図3)で各研究者が考察した死因については、先行研究を参考に考えていけば良いのである。
もし、畠山義慶が暗殺されたとするならば、誰が犯人であると先行研究では考えられているか。二次資料においての「実行犯の特定」について、長家の立場、上杉家の立場からそれぞれ違った人物を真犯人に挙げている。長家関係の資料では1577(天正5)年の謙信侵攻七尾城の合戦の際に長続連が遊佐続光に謀殺された事から犯人を敵対関係にあった遊佐続光を犯人としている。一方の上杉関係の史料では1577(天正5)年の謙信侵攻七尾城の合戦の際で遊佐続光が七尾城開城を手助けしている事から遊佐氏と敵対関係にあった長続連を犯人としている。
近年の研究の成果において歴史研究家たちは(図3)のように考えているが、その犯人は長続連を挙げている方が多い。一方で、遊佐きむち氏(旧「能登のぉと」ホームページ管理人)は自然死とみている。二次資料においては「二本松伊賀守義有」が1576(天正4)年に謙信が能登に侵攻した七尾城の合戦において疫病で没したとも言われているので、年代が同じ故に畠山義慶に当てはめれば「自然死」と考えることもできる。ただし、畠山義慶が死去した1576(天正4)年4月4日には七尾城の合戦が開始されておらず、出来事も人物名もあっていない状況でその二次資料の事実を当てはめるには慎重を期しないといけないと思われる。
(2)仮に「義慶の暗殺説」の理由の考察
仮に畠山義慶が1576(天正4)年に暗殺されたとなると、どのような原因が考えられるのか。当時の政治的状況を見ることで、その一端が浮かび上がってくる。
永禄九年の政変で大名専制政治を行った畠山義綱が長続連・遊佐続光・八代俊盛らの重臣達に追放された。その後、義綱の跡を継いだのは若年でまだ元服もしていなかった義綱の嫡子・次郎(後の畠山義慶)が重臣達に擁立された。1576(天正4)年に畠山義慶が死去すると、さらに幼年だった畠山春王丸が跡を継いだという。当主の跡継ぎとしては能登畠山氏の血筋の松波畠山氏には壮年の人物がおり、その者が能登畠山家を継いでもおかしくはない。ではなぜ、重臣達は若年の当主を擁立したのであろうか。これは重臣達が、若年の当主を必要としており、成年の当主を望まなかったことが理由としてあると思われる。
その理由の典型的な例のひとつが鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍の存在である。鎌倉幕府将軍は3代将軍源実朝が1219年に暗殺されると、将軍の座はわずか2歳であった藤原頼経が継ぐこととなった。頼経の擁立は幕府のナンバー2である執権・北条義時が仕組んだことであった。義時が2歳将軍を擁立した理由は、ナンバー1である将軍の発言権を無くしナンバー2の自らが権力を握る為である。その為には、当主が幼年・若年であり自ら発言できない年齢だと有利である。一方当主が成年になってしまうと、自ら発言できるてナンバー2にとって邪魔になるばかりか、ナンバー2に対抗する勢力が当主と結びついて大きな勢力となってしまう場合も有りうる。実際、鎌倉幕府でも執権・北条氏の対抗勢力が将軍・藤原頼経と結びつき、北条氏を倒そうと画策していたこともある。このように、ナンバー2が権力を握る為には当主が幼年・若年であり続けなければならず、その為には成年になったら当主を挿げ替えなければならないのである。
これを能登畠山氏に当てはめてみる。若年当主は畠山義慶であり、権力を握るナンバー2は長・遊佐・八代ら重臣達である。義慶政権以降の畠山家中は長派と遊佐派と温井・三宅派の三派に分裂しナンバー2の覇権争いをしていた(詳しくは畠山家晩年における政治体制の一考察参照)。この覇権争いでは鎌倉幕府の摂家将軍の状況と同じく、当主が若年のうちはナンバー2が権力を握って安定していたが、成年になって発言権を得ればどの派に義慶が味方するかで大きく勢力図は変るので、当主が重臣間の覇権争いに巻き込まれることが不可避の状況を生んだ。そして、義慶が成年に達し政治的な発言権を得たことによって重臣達に弊害があったのではないか。そのために1576(天正4)年に暗殺されたと考察することもできる。と言うより、状況的に言えば、二次資料が書き記すよう重臣達に暗殺された可能性も十分あると思われる。
(3)「暗殺説」における実行犯の検討
若年当主を擁立する理由と排除する理由をナンバー2の立場から述べてきた。畠山義慶政権は1566年〜1576年という能登畠山末期としては10年間の比較的長期の政権であった。そこから考えて、重臣間の覇権争いに巻き込まれ長派、遊佐派、温井・三宅派のいずれか一派が暗殺したするのは状況的に納得もできる。ではなぜ実行犯が一般に知られないのであろうか。「事件が組織の根幹を揺るがしかねないほど拡大する兆候をみせたとき、真相を追及することなく「うやむや」のまま闇に葬ってゆくのが中世の政治学である。それは権力を維持してゆくための安全装置であり、権力を構成する人びとの暗黙の了解事項であった。だから、それをなお穿鑿しようとする者があらわれれば、組織によって抹殺されるのである。」(桜井英治『日本の歴史12室町人の精神』講談社,2001年P.82)と指摘している。おそらく、義慶を暗殺したのは長派、遊佐派、温井派のいずれかの一派であるとしても、それを追及することによって、さらなる権力闘争が起きる。それを防ぐには事件をうやむやにして現状を受け入れることである。そうして事件の真相から遠のいた結果、この暗殺事件そのものも謎が多いものになったのかもしれない。
実行犯を確定することは資料的制約で容易ではないが、あえて検討するのであれば、1576(天正4)年4月という時期がヒントになり得る。同年の10月に1回目となる上杉謙信の能登侵攻である七尾城の合戦が開始される。その前に二次資料によると「上杉家から畠山氏に対して降伏勧告が行われ、長氏がこれを拒否した」と言われている。つまり、畠山義慶亡き後は長続連が家中の統制権を握っていた。とすれば、畠山義慶暗殺におけるメリットは長続連にあったのではないのか。それに長氏支配に対抗するため遊佐続光や温井景隆が上杉謙信に能登侵攻を頼み、10月から合戦になったとも考えられる。さらに言えば翌1577(天正5)年の第2回の七尾城の合戦で七尾城が開城するに及び、長続連の一族が遊佐続光や温井景隆に殺害される理由も、家中の権力闘争ゆえのものではないかとも考えられる。
一方で、畠山義慶が自然死したため、強力な軍事力を持っていた長続連の家中での発言力が増し、その後家中の権力闘争に発展したことも考えられる。やはり史料的制約が多く、畠山義慶の死真相は新史料発見などによる後考を待ちたい。
★参考資料
遊佐きむち氏と畠山義綱の対談「畠山義慶・義隆は暗殺されたのか?」へ行く。
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