七尾城の合戦
[1576年〜1577年]

畠山春王丸軍VS上杉謙信軍

●原因
 上杉謙信は、1566年に永禄九年の政変で義綱が追放されて以来、義綱方を支援していた。それゆえ、新たに誕生した重臣が担いだ畠山義慶政権と対立する事になった。日本海海上交通の要所を抱える能登の政権と対立すると、物流の面で不利に立たされ、経済的な利益が揺らぐ事からなんとか義慶政権との和解を果たした。しかし、能登の政権の実権は重臣達が握り、謙信と敵対している織田信長と懇意にする長続連の勢力が能登で主流となると、再び謙信は苦境に立たされた。そこで、謙信は上条政繁(義綱の弟義春)を畠山家の新城主として送り込むことで、平和的解決を図ろうとするが長続連らの反発で失敗する。そして、謙信は七尾城を武力制圧することで、物流の流れを確保することを決意する。
 畠山春王丸軍    上杉謙信軍  
勝敗 LOSE WIN
兵力 約二千人 一万人以上
本拠地 七尾城 石動山城
総大将 畠山春王丸 上杉謙信
主力 長続連→戦死
長綱連→戦死
長連竜
遊佐続光
遊佐盛光
温井景隆
三宅長盛
平喬知
椎名肥前守
平泰胤
長沢光国
七尾城決戦侵攻図

●経過

☆畠山側配置(長綱連主導)
大手赤坂口:長綱連
古府谷:温井景隆・三宅長盛
蹴落口:遊佐続光
☆謙信帰国にともなう上杉方守備隊配置
熊木城:三宝寺平四郎・斎藤帯刀
穴水城:長沢筑前
甲山城:轡田肥後・平子和泉・唐人式部
正院城:長与一景連
石動山城:上条織部・畠山将監

●敗因
(1)畠山家の統率力の弱体化(2歳の春王丸は家中をまとめることができない)。
(2)重臣達の対立(長氏=織田派、遊佐氏=上杉派、温井氏=一向一揆派)
(3)遊佐続光の内応。

ちぇっくぽいんと!
「七尾城の堅固さは当時一級!」

 合戦上手で知られる上杉謙信であっても攻略するのに約1年以上もかかった七尾城。しかも、落城したと言っても、武力で七尾城を攻撃しても、上杉軍は次々と撃退され、結局内通して開城させたのである。この合戦から七尾城が五大山城と呼ぶにふさわしく、相当に堅固な城であったかを容易に想像させる。
 七尾城は城山全体が城域となっている複合城である。さらに、後方に海が控えているので、四方を敵に囲まれる心配もない。また、山城の特徴として篭城時絶対必要となる水が豊富にあった。その他にも高石垣技術が未成熟の時代に、5層の石垣を組むなど、技術的にも大変優れた城が形成されていたのである。それゆえ、築城学からも、規模の大きさからしても我が国の大変貴重な歴史遺産であること疑いない。七尾城跡は早くも昭和9年に国定史跡に認定され、良好な遺構を現在でも保っている。
☆参考コンテンツ
七尾城跡能登の城コンテンツ)
バーチャル登城体験−七尾城−

※1、織田信長援軍の陣容

第一陣 1577年9月に安土城出発
総大将 柴田勝家
主力 滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、羽柴秀吉、前田利家
兵力 約30000人

第2陣 出発予定
総大将 織田信長
兵力 約18000人
すごい陣容ではあるが、どうして七尾城への援軍派遣が遅れたのであろうか?堅固な七尾城なら当分持ちこたえると考えていたのか。それとも織田家において何か派遣を遅らせるような事件が起こっていたのであろうか。

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