温井景隆特集

温井景隆イメージ像
↑温井景隆イメージ像(畠山義綱画)

☆温井 景隆<ぬくい かげたか>(?〜1582)
 兵庫助・備中守。温井続宗の子ヵ。天堂城主。1555年、義綱が温井紹春を暗殺すると、一族ともに出奔。 反乱軍に加わった。その後、義綱が追放されると義慶政権で能登に復帰し、年寄衆にもなって遊佐氏、長氏に並んで実力を奮った。上杉侵攻の際は遊佐続光に同調し開城。その後、織田に寝返ったが長連竜に追われ前田家に反抗したが殺された。

景隆政治活動ちぇっく!
 1555年(弘治元)に景隆の祖父温井総貞が粛清されると、温井続宗等が加賀の一向一揆を頼りに弘治の内乱と呼ばれる反乱をが起こした。まず最初に景隆がどのようにしてこの弘治の内乱に関わったのかを見ていきたい。
 1568(永禄11)年に「坪坂伯耆入道」(金沢御堂衆ヵ)へ長尾輝虎の越中の動きを報告する古文書が最近まで景隆の初見の古文書とされてきた。活躍年代としては結構遅めである。それが、『増山城跡総合調査報告書』(砺波市教育委員会編、2008年)によると下の(文書A)が示された。

(文書A)「温井景隆書状」
今度萩野罷下刻、御書(本願寺顕如)忝致頂戴候、
(中略)
一、越中神保(長職)為御加勢、両寺(勝興寺・瑞泉寺)人数被出、
去五日於神通河合戦。則神保得大利、同名民部大輔・神前五郎、
其外数多討捕、東金山近所迄追入、堀江・新庄所々相踏候、
本意之儀候、自越後重而可合力風聞候、甲斐信州(武田信玄)
後候間、不可有指事候歟、
七尾失手仕立候、旁可然時分相延、口惜存候、
(中略)
(永禄五年)九月廿八日 (温井)景隆(花押)
隠岐糺介様

 これは、神保長職が越中一向一揆の2大勢力である勝興寺・瑞泉寺の支援を得て神通川で合戦を行い大勝利した。長尾輝虎(上杉謙信)の勢力が椎名の支援で越中に進行するとの風聞もあるが、武田信玄が信濃に控えているので無理であろう。なお自分達(温井景隆)は七尾攻略計画を仕立てるのに失敗し、口惜しい限りである、というものである。
 この(文書A)が1562(永禄5)年とすると、景隆の文書上の初見はいっきに6年も早まることになる。さらに、反乱軍が1562(永禄5)年に至っても七尾城攻略を諦めていない状況がわかる。反乱軍は中心人物が1555(弘治元)年当初は温井続宗だったが、同氏の戦死によって1558(永禄元)年に温井綱貞へ、さらに同氏の戦死によって1559(永禄2)年に温井孝景(注1)へと変わる。その中で、景隆も1562(永禄5)年には中心メンバーとして参加していることになる。
 景隆は1566(永禄9)年、義綱が永禄九年の政変で追放されると能登畠山家に復帰したが、反乱軍の中心人物であった事由を考えると、反乱軍が丸ごと能登畠山家に吸収合併されたのではなかろうか。反乱軍にとって畠山義綱が家中にいなければ反目する理由はない。また、七尾城方(義慶方)にとっても義綱方が復帰戦を仕掛けてくることを考えると、反乱軍の丸ごと吸収合併が戦力増強のために(注2)必要だったのではなかろうか、ということが想像される。このような事情であれば、七尾城方(義慶方)は反乱軍の中心メンバーたる温井景隆をある程度優遇させざるを得ず、温井氏の旧領を与えることも仕方ない。とすれば、弘治の内乱で闕所地となった温井氏の領地を得ていた八代俊盛の反発は必至で、鶏塚の合戦(1569年)は不可避の状況だったと言える。
 景隆の復帰後すぐにはすべての旧領を回復できなかったようではあるが、復帰直後でもそれなりの地位にいた事が窺われる。それは、温井・三宅一族が1567(永禄10)年に畠山義綱の能登進行を予測して、押水の坪山に砦を築いた事からわかる。砦を築くということは、地位も財力も少なくともある程度は必要である。
 時代が下るとさらに温井氏の実力は増し、1570(元亀元)年の人事刷新では年寄衆となり、景隆は長・遊佐に並ぶ大派閥を構築した。派閥を形成できた理由は、温井家の家柄だけにあったのではない。1568(永禄11)年に畠山義綱が権力奪回を目指して入国作戦を展開した能登御入国の乱において、義綱方は執拗に本願寺に合力を求めたが、本願寺はその合力をことごとく断っている。これは、温井景隆等と本願寺が懇意にしていることによるもので、このことによって、当初能登御入国の乱で劣勢であった義慶軍において、景隆の地位が高まったのである(詳しくは畠山晩年における政治体制の一考察参照)。温井派は温井総貞時代より本願寺と懇意な状態にあったので、遊佐派−親上杉・長派−親織田に対抗し、親一向一揆となった。その三派で能登畠山氏晩年の政治を事実上動かした。そして、温井派は遊佐派の遊佐続光と提携することによって、家中最大派閥の長派と対等の実力を有したのである。

景隆出陣履歴ちぇっく!
 七尾城の開城の際、長一族を遊佐続光とともに殺害した恨みで、上杉方から織田方へ翻った時に織田の家臣となっていた長続連の3男・連竜に攻められ羽咋郡菱脇で戦ったが敗れた。それで越後に逃れたが本能寺の変のどさくさに紛れて能登を回復しようと企み、前田家と戦ったが金沢城の佐久間盛久に殺された。しかし、織田方につけば長連竜の行動が予測できそうなものだが上杉方を離反したのは失敗だったと思わざるを得ない。

景隆対外政策ちぇっく!
 温井家は彼の祖父・総貞が能登畠山家の対本願寺の交渉役であったことから、本願寺と温井家は特別懇意な間柄だった。だからこそ、弘治の内乱で温井家が反乱軍として能登畠山家から離れても本願寺の支援を受けることができた。景隆は祖父の遺産を生かして、七尾城方(義慶政権)に復帰することができ、その本願寺派とのパイプを見込まれて実力ゼロ状態から三大派閥の地位まで上り詰めたのである。景隆は政治的駆け引きに長けていたと言えよう。だからこそ、能登畠山家晩年の3大派閥の温井は筆頭となることができたのである。その後、上杉と本願寺勢力が和解すると遊佐派と温井派は同調し、事実上は遊佐派・温井派と長派との対立構造となり七尾城の開城に至ったのである。その後、上杉勢が不利とみるや織田に寝返る当たりの政治的駆け引きもまた優れていると言える。

ちぇっくぽいんと!
 景隆の「隆」の字は一説に能登畠山家11代当主・畠山義隆の偏諱だと言われる。だが、これは明かな間違いである。偏諱と言うのは一般に下図1のように、当主下字を家臣の上字に与えるのが普通である。しかし、景隆の「隆」の字が「義隆」の偏諱だとするとこの例が当てはまらないのである。本来ならば、景隆は「義隆」の「隆」の偏諱を受けて「隆景」とならなければおかしいのである。家臣が当主から貰った一字を名前の下につけるのは無礼であり、そのようなことはありえないはずである。また、一字拝領していないのに、当主の一字である「隆」を勝手に名乗るのも無礼である。ということは、義隆は本当は実在しない人物であるか、「義隆」の字があるいは、『長家家譜』などが伝える「義高」の字であったかも知れない。いずれにしろ、温井景隆の発給文書は確実に知られるので、名前に誤りがあるとすれば「畠山義隆」の方となろうか。

(図1)
当主「○×」→家臣「×△」
(「×」が偏諱となる。
 


 ここで、武将の名前について、「武将系譜辞典」管理人の川部様より貴重なご指摘をいただきました。許可をいただきまして転載させていただきました。

以下の文章は、川部様の著作のなので、転載は固く禁じます
一つ仮説を申し上げます。
温井景隆の「隆」の字が偏諱ではありえないとのことですが、
北条為昌と大道寺盛昌のように、「主筋の若君の元服に際し、烏帽子親となった家臣の諱を若君の下の諱とする」ということがあるので、温井景隆が偏諱を受けたのではなく、畠山義隆が偏諱を受けたのではないでしょうか?

 なるほど、元服の際に家臣から一字をもらうということもあるのですね。これなら「義隆」の「隆」の字もあり得ますね。これで一つの疑問が解けました。「義隆」と「景隆」は同時に存在しうるのですね。ネットで公開すると色々な視点からご教授いただけ、疑問が解決するというメリットがあります。川部様ありがとうございました。余談ですが、私にはまだ解決できない畠山家の謎があります。「伝武田信玄像」は現在では畠山義続であると言われますが、出家しているのに髻が存在するというものです。出家の例外として髻をつけている例がありましたらぜひご教授ください。ネットならではの幅広いご意見をお待ちしております。

(注釈)
(注1)「本誓寺文書」の1559(永禄2)年で反乱軍の連署状で、(温井)孝景・(三宅)綱久・(三宅)慶甫という署名がある。この温井孝景とはどのような系譜の人間であるか不明である。温井氏の系譜の直系を見ると「慶宗→俊宗→孝宗→総貞→続宗→景隆→景際」となっている。孝景という景が名前の後ろについている人物は温井家中でも珍しい。そう考えると、この孝景はむしろ読み方の「たかかげ」を考えれば「景隆(かげたか)」と同一人物と考えるのが正しいのであろうか。孝景のこれ以降の古文書がないので、単純に戦死したものかもしれない。
(注2)七尾城方(義慶方)は、戦力増強面だけでなく、さらに本願寺との連携面においても、義綱方に対抗するために反乱軍の吸収合併における取り込みのメリットと考えていたと思われる。

義綱公式見解「祖父の遺産で三大派閥の首領にのし上がる」

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