畠山家晩年における政治体制の一考察

 永禄9(1566)年9月、永禄九年の政変によって守護畠山義綱等が追放され、義綱の嫡男義慶が遊佐続光等によって擁立される。この事件によって畠山家の大名専制支配は崩れ、重臣寡占政治に戻った。ここでは、複雑化する畠山晩年における政治体制を考察し、多少なりともその構造を明かにしたい。

はじめに 
 永禄九年の政変の政変以前、能登畠山家では畠山義綱による専制政治が行われ、義綱の側近家臣が重用され領国再編が進められていた。しかし、義綱は直轄軍を持たないため、権力基盤が弱く、重臣に歯向かわれるとたちどころに再編がストップするので、重臣に配慮をしなければならないという矛盾を抱えていた。しかし、それでも領国再編を推し進めた為、義綱は遊佐続光長続連八代俊盛等重臣に追放されたのである(詳しくは永禄九年の政変参照)。義綱政権時代は大名の意向が政治に強く反映された為、政変後には反動で重臣の寡占政治が行われるようになった。その中で、1568(永禄11)年以降に義慶政権は上杉謙信と同盟関係を回復するが、表向きの連携とは裏腹に畠山家の内情は複雑化して、織田や一向一揆との提携関係を重臣ぞれぞれが模索した。それゆえ、謙信は家臣山吉豊守に「能登からいろいろなことをいってくるが、どうもその実態は不審である」(注1)と能登畠山家を評している。
 晩年の能登畠山家の外交関係は、重臣達がそれぞれ、長派=親織田家、遊佐派=親上杉家、温井派=親一向一揆と提携関係にあり能登畠山家は一枚岩とならなかったと考えられる。だが今までの文献や論考では、なぜそのような状況になったのか必ずしも明確にされていない。これは史料が僅少と言う理由もあるにせよ、考察無しに無批判にその説を受け入れるのは看過し難い。そこで本稿では三大派閥の形成過程と、各派閥毎の政治状況・後ろ盾を得た背景等を考察していくこととする。

(1)1566年〜1571年までの畠山家の政治状況 
 長派、遊佐派、温井派の三派対立状況が成立したのは、永禄九年の政変(1566年)直後の事では無い。永禄九年の政変後もしばらくは、温井景隆等の帰参は許されておらず、家中の実力者は同政変の実行者である長続連遊佐続光八代俊盛であった。それは次の古文書(A)からもわかる。

(A)「笠松文書」
当知行二ヶ所並被官人屋敷等之事、如前々相違候。然者早々御下専一候。尚高田方可演説候。恐々謹言
九月十一日(永禄十年ヵ) (八代安芸守) 八安 俊盛 在判
(長対馬守)) 長対 続連 在判
(遊佐美作守) 遊美 続光 在判
笠松但馬守殿
  進之
義慶方重臣が、笠松但馬守の知行安堵により、その来任を求めたもの。

(B)「歴史古案」
申越、神保色々被歎候間、不図出馬、十七日神通越河、十九三日之内敵地悉落居、内々守山・湯山可落処六同(道)寺断而水増故、于今不候。於時宣者可心安候。被入心飛脚早々喜悦候。可懇意心中ニ候間、同意肝心候。恐々謹言。
  三月二十日(元亀二年)   謙信
  温井兵庫助(景隆)殿
  長九郎左衛門(綱連)殿
  平新左衛門(尭知)殿
  遊佐孫太郎(盛光)殿
謙信が越中に進出した事を畠山重臣に知らせた文書。

(C)「歴代古案」
態令啓入候、先以于今御在陣之由、御太儀令存候、
將複越府より御出馬之儀如何、未相知候哉、
今程御馬被出候者、御本意眼前之、ニ候、拙者式別而御先手仕、
御馳走可申上候、此旨越江(上杉謙信)可被仰上候、恐々謹言、)
  
二月廿日(天正四年) 温井備中守 景隆
平(加)賀賀守 高知 (堯知ヵ)
  遊佐四郎左衛門 盛光 (尉脱
長九郎左衛門 綱連 (尉脱

 色部惣四郎殿
 齋藤下野守(朝信)殿
 岩井民部少(信能)殿(輔脱ヵ)
 小倉伊勢守殿
 五十公野右衛門(重家)殿
年寄衆が上杉謙信に出馬を求めているもの

 古文書(A)から知行の安堵を伝える立場であるこの三人が領国の主導権を握っていたと言って良いであろう。しかし、義慶政権下で古文書(B)が発給された1571(元亀2)年の頃になると、謙信が送った宛名は温井・長・平・遊佐となっていて、1567(永禄10)年の連署状に比すると「八安」(八代安芸守俊盛)の名前が消えている。古文書(B)では各家の有力者が若返って(続連→綱連、続光→盛光)おり、それなら八代外記(俊盛嫡子)がここに署名してもおかしくない。
 しかし、その名が全く見えないのは、1569(永禄12)年鶏塚の合戦八代俊盛・外記父子が義慶政権に対して挙兵して死去した事が影響し、八代家が領国経営の中枢メンバーから外されたのだと思われる(詳しくは鶏塚の合戦参照)。八代俊盛の挙兵は温井景隆の家中での台頭が原因だと思われる。すなわち1568(永禄11)年に畠山義綱が権力奪回を目指して入国作戦を展開した能登御入国の乱において、義綱方は執拗に本願寺に合力を求めたが、本願寺はその合力をことごとく断っている。これは、温井景隆等と本願寺が懇意な所以によるもので、このことによって、当初能登御入国の乱で劣勢であった義慶軍において、景隆の地位が高まったことは言うまでもなかろう。すなわち温井景隆の帰参は、少なくても義綱の能登御入国の乱の前までには求められよう。この合戦での影響のため畠山家中で温井氏の影響力が飛躍的に増し、その結果として温井氏の旧領を所有する八代氏が本領回復を狙う景隆に窮地に立たされ、挙兵行動に及んだのであろう。
 こうして、畠山家中は永禄九年の政変直後の「長−遊佐−八代体制」から、1569年の八代俊盛の挙兵を通じて「長−遊佐−温井体制」(注2)へと変容していったのである。この大きな変化が、古文書(B)に見える1570(元亀元)年頃の若返り人事に繋がったのではなかろうか。すなわち長家、遊佐家はそれぞれ当主が綱連、盛光と代替わりしているが、依然実権は続連、続光が握っていることから、若返り人事は前年の鶏塚の合戦戦後処理のパフォーマンスに過ぎず、その真意は復権した温井氏(温井景隆)の年寄衆への環任にあったのではなかろうか。このようにして三大派閥均衡の土壌は出来たのである。
 また、古文書(B)は上杉謙信が守山城と湯山城を攻め落とすことを能登畠山氏の家臣に伝えている。湯山城は富山の氷見にあり八代氏の所領であった所と考えられる、それが1572(元亀2)年の時点では反七尾城方(反畠山義慶)の拠点であると認められているということは、単に八代氏の反抗か、畠山義綱勢力への加入ということも考えられる。

 次に1576(天正4)年のものであると比定されている古文書(C)を見てみる。この(C)が(B)より後の時代であるのは、「温井兵庫助(景隆)殿」が「温井備中守景隆」となり、「平新左衛門(尭知)殿」が「平(加)賀賀守高知」と官途が重くなっていることからもわかる。さらにこの文書は能登畠山家の外交を司るものであるから、能登畠山家の中枢たる人物が発給したものであると思われる。となると、1571(元亀2)年から1576(天正4)年に至るまで能登畠山家の政治中枢を担う人物は変わっていないということがわかる。

(2)三大派閥対立時代とその後ろ盾
1、長派が親織田家である理由
 能登長家が織田家と結びついた理由はなんであろうか。私は永禄九年の政変の影響であると考える。長続連は元々義綱に近い存在であったと思われる。それは、1561(永禄4)年に続連が義綱を自邸にて歓待したことからもわかる(詳しくは長続連の義綱歓待からみるもの参照)。上の者を歓待すると言うことは、傀儡君主を招いて自分の力を誇示する為と、力ある君主を懐柔、または恭順の意志を示す為に行われると言ってよいだろう。長続連の歓待の目的は、義綱が大名専制政治を確立した1561(永禄4)年の政治状況を考えると後者に当たると考えられ、続連が義綱の力を頼っていた姿勢の一端が伺われる。長家は16世紀半ばまで将軍直属の奉公衆として能登畠山家より半独立を保っていた。そのため、家中に強力な地盤がなく、むしろ長年、畠山家中で実力者であった温井家と対立していた。そのため、畠山義綱温井総貞と対立し、粛清したことをきかっけに、政敵の消滅と大名権力への接近という家中の実力者に躍り出ることができた。しかし、義綱専制体制が重臣、つまり自分達の権力削減を目指した事を快く思わないため、自分の後ろ盾であるにも関わらず遊佐続光八代俊盛等と共謀して永禄九年の政変を起こした。
 長続連は、義綱を追放した事によって遊佐派に対抗できる後ろ盾を無くした事になる。そこで頼ったのが、台頭著しい織田信長であったのではないかというのが私の推測である。長派が親織田家になったのはもっと後の謙信の七尾城侵攻直前かも知れない。しかし、謙信の七尾城侵攻の際、使者として長連龍を安土まで派遣しているところ考えると、もっとそれ以前からの繋がりがあったとしても不思議ではない。また、後述するが、遊佐続光が上杉謙信の後ろ盾を得たのが1568年以後と思われ、その場合、織田信長が稲葉山を陥落させた年代と一致し、続連が後ろ盾を欲していて信長に接近したと解する事は十分あり得る事である。
 では、なぜ長家は織田家に接近したのだろうか。長続連と織田信長を結びつけるキーワードとなる人物がいる。それは「足利義昭」である。1565(永禄8)年に室町幕府第13代将軍足利義輝が三好三人衆と松永久秀らによって暗殺され、足利義秋(後の義昭)が次期将軍候補に擁立されると、各大名らに将軍就任への支援要請を行った。能登畠山氏も畠山悳祐(畠山義続)が支援表明をする文書を送った。さらに畠山氏の家臣である能登の長家でも長続連が畠山家とは別個に支援表明の文書を送っている(詳しくは永禄九年の政変参照)。これは前述のように長家将軍直属の奉公衆だった所以である。そして、この「足利義昭」の最大支援者が「織田信長」であった。義昭も当初は越前朝倉家を頼っていたが、なかなか上洛しないのに業を煮やし、1568(永禄11)9月に織田家の支援を得て上洛し、第15代将軍に就任することになる。織田家が台頭したのは1567(永禄10)年の稲葉山城陥落の頃からである。それ以前に長続連一派が織田家に接近したとは、能登と尾張の距離からあまり積極的には考えられない。織田信長との接近が1567年以降とすると、やはりその要因は、対足利義昭外交交渉がきっかけであると思う。

2、遊佐派が親上杉家である理由
 一説に遊佐続光が、上杉謙信と接近したのは能登天文の乱(1550年)か大槻・一宮の合戦(1553年)の後、敗れて越後に逃れ(注3)、その際に謙信と懇意になったと言う。ただ、それは狭い範囲での考え方である。元々日本海海上交通において、能登と越後は経済的な強い繋がりがあり、そのため政治的にも強い信頼関係を築き、同盟関係にあった(詳しくは能登の国力参照)。それゆえ、当然能登守護代の家柄である遊佐嫡家が越後上杉(長尾)家と深い関係を築いていた事も容易に想像される。それゆえ、遊佐家と越後上杉(長尾)家が元々関係の良かった事が、続光の行動のベースとなり1554(天文23)年に越後に亡命したと言える。また弘治の内乱では、上杉謙信に援軍を要請する際に、義綱が交渉役として選んだのが続光である。これによりさらに長尾と懇意になったと考える方が道理が通る。
 それでは、遊佐派が上杉家を後ろ盾とするようになったのはいつ頃であろうか。上記の事を考え合わせれば、能登天文の乱大槻・一宮の合戦の後の亡命した時であろうが、続光と長尾(謙信)が懇意であったからすぐに続光が長尾を後ろ盾に家中で台頭したと考えるのは妥当ではない。というのは、謙信が続光に接近するメリットがそれほどないのである。1555(弘治元)年〜1566(永禄9)年の能登は義綱が強力な権力を握っており、能登との連携を考える上で真っ先に交渉するのはやはり義綱である。それゆえ、続光が謙信と接近できたのは義綱の家臣という身分があったからに過ぎないのである。謙信が続光を重く見ていない証拠に永禄九年の政変で義綱が追放されると、謙信は続光のいる義慶方ではなく、近江へ亡命した義綱方の味方についたのである。しかし、義綱方が1568(永禄11)年能登御入国の乱に敗れ義慶方が有利な状況となると、上杉謙信は義綱方を見限り義慶方と交渉を持つようになる(詳しくは「義綱亡命政府」の基礎的考察参照)。そうなると、謙信と続光が再び交渉を持つようになり、再接近した。この頃の畠山家は当主義慶が幼く、実質的には重臣が政治を担っていたので、謙信は重臣である続光との連携の必要性を感じ接近し、続光にとっては謙信を後ろ盾として家中で台頭したのである。となると、遊佐派の後ろ盾に謙信がついたのは1568(永禄11)年以後となる。

3、温井派が親一向一揆である理由
 温井派が親一向一揆になったのは弘治の内乱において、加賀一向一揆と提携して義綱と戦った為と言われている。しかし、温井家は義続政権の時代から、(温井総貞が)本願寺等の一向一揆と交渉を持っており、多少なりとも懇意であったと思われる。その縁を利用し、弘治の内乱において協力関係が成り立ったのであって、決してその逆ではないと思われる。
 永禄九年の政変で義綱が追放されると、温井景隆等の温井の一派が義慶政権において許され帰参した。前述したように旧領は八代俊盛が領していたが能登御入国の乱での景隆での活躍と翌年の俊盛の死去をきっかけに温井家は徐々に勢力を回復し、1570(元亀元)年頃には年寄衆となった。景隆は家柄だけでなく本願寺(一向一揆)との提携関係を利用するという実力をもって権力を拡大したのある。一向一揆との提携関係は、その後も続き、1573(天正元)年頃にも提携が知られ、その景隆の発言権は大きくなる一方であった。その後、上杉謙信と一向一揆が和睦すると、遊佐派との路線対立がなくなり、畠山家中でも続光と景隆が接近したと思われる。七尾城落城後、続光と景隆が行動を共にしたのは、その証拠となるだろう。

4、長派VS遊佐派、温井派
 永禄九年の政変で実行犯となった遊佐続光長続連八代俊盛の中で、八代俊盛温井景隆の帰参によって没落していった。当主義慶は幼少ゆえ、独断で景隆を復帰させたとは考え難い。同政変の実行犯のうち、続連は奥能登の覇権を争った長年の宿敵である温井家の帰参を推奨する可能性は低い。まして八代俊盛は、温井氏の旧領を得ているのであるから帰参に積極的賛成をするはずが無い。とすれば、残るは続光が景隆を帰参させたと言う事になる。そう考えると、後の遊佐派と温井派提携の土壌は、温井景隆の帰参により出来ていたことになる。畠山義綱能登御入国の乱に対抗する為の緊急措置的帰参とは言え、続光の独断が通ったことは、遊佐派の実力が家中でかなりのものであったことを考えさせる。
 このように、遊佐派と温井派の提携関係を考えると、1577年七尾城決戦の落城時の遊佐続光の行動が理解できる。即ち、続光はその後ろ盾である上杉謙信と内応し、提携関係である温井派(特に温井景隆・三宅長盛中心)と協力した。そして、長派を排除する為、1577(天正5)年9月15日に長続連等の長氏一族を斬殺し七尾城を開城したのである。
 さらに全くの推測の域を出ないが、畠山義隆(あるいは畠山義慶ヵ)を遊佐続光が暗殺したとすれば、上杉謙信に「当主を蔑ろにする重臣達の糾弾」という建前の理由で、能登侵攻の口実を与え実際に侵攻してきた時に内応を図り、長一族を排して続光が能登での頂点に立つという段取りをセッティングしたとも考えられないことも無い。能登で最大の経済力・軍事力を誇る長派を排除するには、既存の体制を全部リセットする必要があったのであろう。

むすびに
 まずは三大派閥の成立過程を確認する。永禄九年の政変畠山義綱が追放されると、畠山大名権力は著しく低下し、弘治の内乱以前の重臣寡占政治に戻った。義慶政権当初は永禄九年の政変の実行犯である長続連遊佐続光八代俊盛が領国の主導権を握っていたが、1568年に畠山義綱が権力奪回を目指して起こした能登御入国の乱で、義慶政権は本願寺対策が必要になった。そこで本願寺と太いパイプを持つ温井景隆が活躍して家中の権力を急速に拡大していき、その反発から温井の旧領を得ていた八代俊盛が挙兵して没落すると、長派、遊佐派、温井派という畠山家中の三大派閥対立状況が誕生したのである。
 また、三大派閥はそれぞれ頼りとする外部勢力と手を結んで、領国内で実力を得ようと奔走した。その結果、長派は織田家に接近し、遊佐派は上杉家と関係を深め、温井派は一向一揆とさらなる関係を深めていくのである。その過程で、遊佐派と温井派の利害が一致し、上杉謙信を利用して長派を排除したのが、1577年の長一族斬殺・七尾城開城であったということを指摘することが出来た。
 この指摘は、畠山家晩年の政治状況におけるひとつの考察であって、これが結論ではない。新資料の発見や、解釈の違いによってまた新たな意見が出されることを願うばかりである。また、本稿では三大派閥の政治状況と傀儡君主であると言われる畠山義慶畠山義隆との関係を明かに出来なかった。これは今後の課題として取り組んでいきたい。

 

(注釈)
(注1)東四柳史明『羽咋市史中世・社寺編』羽咋市,1975年,147頁
(注2)「長−遊佐−温井体制」に古文書(B)に見える平氏を何故加えないかについて。従来温井は三宅氏と行動を共にすることが多く、その意味で弘治の内乱までは温井・三宅派と称することが多い。しかし、永禄九年の政変後は温井・平が多く文面に出てくる。また、能登畠山家滅亡後になると、いったん上杉に従った遊佐・温井・平・三宅であるが、その中で再び反上杉となっては温井・平・三宅は行動を共にすることが多かった。よって温井・平・三宅派とするのが正しいのかもしれないが、名前が長くなってしまうので、ここでは中心となる「温井派」と称することにする。
(注3)続光がいつ越後に亡命したか詳細は不明。一説には1553(天文22)年に温井総貞との戦に敗れ越後に退いたと言う。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会,1968年
東四柳史明『羽咋市史中世・社寺編』羽咋市,1975年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号,1972年
東四柳史明「能登弘治内乱の基礎的考察」『国史学』122号,1984年
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