能登御入国の乱
(義綱の能登入国戦)
[1568年]

畠山義慶軍VS畠山義綱軍

●原因
 永禄九年の政変で失脚し能登から追放された義綱は、婚姻関係にある六角義賢・義治の下に逃れた。亡命先の近江には義綱政権近臣層を始め多くの家臣が付き従い、「義綱亡命政府」を組織し、能登の義慶政権と対立した(「義綱亡命政府」の基礎的考察参照)。しかし、「義綱亡命政府」にとっては「畠山義綱が能登守護に復する」目標の下結束しているので、早く能登奪回を実現しないと同政府内のモチベーションが低下すると言う問題を抱えていた。それゆえ、一刻も早くの義綱の帰国・守護環任が同政府内では求められていたのである。しかし、1567(永禄10)年に隣国加賀の支援を求めたが謝絶された(古文書B)うえ、義綱自信は亡命後に病気がちとなりとても出陣できる気配で無かった。病気がある程度良くなるまで2年ほどかかり、徐々に義綱の影響力は低下していた。1568(永禄11)年に準備が整いつつあり、有力な協力者である上杉謙信が越中に出陣を開始したが、越中又守護代である椎名康胤の反抗にあって兵を引くという不利な状況が続いた。同年3月に中風を煩い一日おきに発作がでると言う状況でも、準備をしていただけに能登に向けて出陣せざるを得なくなった。戦力に不安はあるものの義綱独自に整えた兵を用い、病気については医道の心得がある本人が処方した薬に加え、さらに医師である曲直瀬道三の指示を仰ぎながら、いわばこの時期の見切り発車的な「能登御入国の乱」(注1)という能登奪回戦に突入していったのである。
畠山義慶軍 畠山義綱軍
勝敗 WIN LOSE
兵力 詳細不明 詳細不明
本拠地 七尾城 玉尾城(注1)
支援者 加賀本願寺勢力
(武田信玄)
長尾輝虎(上杉謙信)
神保長職(注2)
主力 長続連
遊佐続光
温井景隆
八代俊盛
畠山義綱
飯川光誠
熊木続兼
富木綱盛
三宅総賢
神保周防守(馬廻衆)
遊佐孫右衛門尉(馬廻衆)
八代藤五郎
能登奪回計画進行図

●経過

(注釈)
(注1)玉尾城の場所はどこか?(畝源三郎殿の情報)
(注2)神保越中守長職殿(越中戦国誌@管理人)からの「神保列伝」を抜粋。<転載不可>
 「(1562年)長職は能登守護畠山義綱に服従し、謙信への降伏の仲介を頼んだのだった。有名無実化したとはいえ幕府への忠誠厚く、関東管領となった謙信は、室町幕府ゆかりの足利一門である畠山氏の要請は拒否できないと読んだのだ。(中略)義綱の専制に反発した重臣長続連らが幼子義慶をたてて義綱を追放したのである。謙信はもとより、長職は義綱復帰のため奔走した。長職にとっては義綱は恩人であり、自己の存立基盤である。義綱がいなくなれば謙信は神保家に対し義理立てをする必要はなくなる。」
 長職にとって義綱が能登の守護職でなくなることは自分の存亡をも意味するものだったので、義綱入国を支持したのですね。神保越中守長職殿、貴重な情報をありがとうございました。

(写真A)
七尾市・神明町
↑七尾市・神明町
神明町は現在の七尾駅近くである。

●合戦の影響
 義綱軍の敗因は、上杉軍の援助が椎名康胤の離反で受けられなかった事にある。しかし、これ以上、能登奪回計画を遅らせると、能登国内における義綱の影響力が低下するので、これ以上延ばせないと言う事情もあったのである。義慶方が篭もる七尾城は戦力差のあった弘治の内乱ですら陥落しなかった城である。それゆえ、上杉軍の援助を受けられず戦力的に不安を抱えながら出陣せざるを得なかったところに敗因があったのである。
 この後も、義綱の能登奪回計画は執拗に計画されたが、結局義綱が能登国内における義綱の影響力が弱まり味方する勢力が激減した。能登の諸将はもちろん「義綱亡命政府」内からも義慶方へ付くものが出ていった。上杉謙信も義綱の帰国をあきらめ、義慶政権と交渉をもつようになったのである。結局この合戦は、能登の勢力を二分する合戦へと発展したが、能登奪回戦を境に、時間が経つたび義綱政府は不利となり、義慶政権の絶対有利が確立したのである。
(古文書B)「顕如上人書札案」(『加戦15』P.93.94)
芳札遂披覧之候、仍就御入国之儀、加州輩馳走儀示給候、惣別他家助言之段、堅加斟酌候、不相限此儀上者、更以非疎意之通、御分別希候、就中太刀一腰・馬一疋給候、欣悦至候、随而従是一腰・一蹄推進之候、猶下間上野法橋可申候、穴賢々々
 (永禄十年)二月廿八日 光佐(本願寺顕如)
 畠山修理大夫(義綱)殿
能登入国戦において畠山義綱が本願寺に支援を依頼したが謝絶された。

(注釈)
(注1)「能登御入国の乱」という名前は、本サイトで2019(令和元)年まで「義綱の能登奪回計画」と名していたが、「計画」という名称だと実際の合戦が行われていないようなニュアンスになるために、(古文書B)の「御入国之儀」という言葉をとって「能登御入国の乱」と筆者が2020(令和2)年に命名した。

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