畠山義綱特集

畠山義綱イメージ像
↑畠山義綱イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 義綱<はたけやま よしつな>(?〜1593) 義綱仮説 ・義綱(1535〜1593)
 幼名次郎。修理大夫を受領。能登守護・七尾城主。義胤。出家後は徳栄と名乗る。畠山義続の嫡男。妻は六角義賢の娘。1551(天文21)年、父義続に家督を譲られ継承。義続の後見を受けて傀儡化した大名権力の復興を目指す。内乱を経て専制支配を確立するが、家臣の反発を招き1566年、永禄九年の政変にて重臣に追放される。その後、復権を試みるが叶わず、1593年12月21日、近江国伊香郡の余吾浦で波乱の生涯に幕を降ろす。法名は興禅院華岳徳栄大居士。

はじめに
 畠山義綱は、前当主義続の下で混沌とした状態となった能登の秩序を取り戻す為に奔走した。家中で専横を誇った温井紹春(総貞)を粛清し、大名権力を傀儡化させた七人衆体制を解体し、大名による専制支配を義綱政権にて確立させた。この動きは、畠山義総政権の「守護−守護代」政策から1歩進んだ、「戦国大名化」への動きと言える。それでは、前半でまず義綱がどうして専制支配を確立させ得たのか、その実情はどうだったのかを考察したい。後半では、義綱が重臣に追放された(永禄九年の政変)後の動きを追い、義綱の行動(義綱能登奪回戦)の思惑を考察して、義綱のその人物像を明かにしていきたい。

(1)義綱の当主時代

義綱支配体制ちぇっく!
義綱政権は3期に分類できる。


第1期(第1次七人衆期)<1552-1553>

第1次七人衆期の政治体制
七人衆絶頂期の時代。中でも温井総貞遊佐続光が実力を持っていた。外様であった長続連能登天文の内乱を機に影響力を高めて、義綱政権期に及んで政治の中枢に位置するに及んだ。当主義綱は幼年・病弱のため父義続に補佐されていたので、ほとんど表舞台にでることはなかった。


第2期(第2次七人衆期) <1553-1555>

第2次七人衆期の政治体制
大槻・一宮の合戦遊佐続光が敗退し越後に逃亡したので、それを含めて七人衆が再編された。温井紹春七人衆を引退し、息子の続宗に譲ったが、その後も七人衆に大きな影響力を持ち、依然として実権を握っている。しかし、七人衆の中に唯一の守護(義綱)派である飯川光誠が加入したことも見逃せない。


第3期(義綱専制期)<1555-1566>

義綱専制期の政治体制
温井紹春粛清し、さらに弘治の内乱において温井やそれに味方する反義綱勢力を駆逐し義綱の専制が確立した。義綱近臣を登用した奉行人中心体制で、光誠を年寄衆の監視役として権力を抑え、権力バランスを図った。年寄衆と奉行人にはそれぞれ中核に側近を据えてそれぞれ権力を掌握した。これが後に重臣たちの反発を招く事になる。しかし、この義綱専制時代になって初めて能登畠山氏は大名の直接支配体制を実現したのである(注1)。これは守護大名的組織を残してきた能登畠山氏の戦国大名化への胎動であった。


 1555(弘治元)年までの義綱の発給文書は見受けられない。これは、義綱が幼少で義続の後見を受けていた事にもよろうが、七人衆体制等による大名権力の動きで全く出る幕が無かったのであろう。そんな中で義綱が、第3期において、専制支配を確立できた要因は、重臣同士の対立を巧く利用した事による。紹春(総貞)の専横に家中で反発が強まる中で、家臣の義綱へ求心力が増したのである。また、温井紹春の死後、七人衆体制が復活しなかった事から、義綱への求心力が一時的ではなかった事を示している。

義綱政治活動ちぇっく!
 家督を継いでから弘治の内乱まで重臣(七人衆)と義続(後見人)の影響が色濃いが、それ以後は自立し始めている。弘治の内乱開始以降、1560(永禄3)年までは七尾城籠城のため、義綱の発給文書は着到状(1556年笠松新介、1557年八代俊盛)や軍忠状・安堵状(1556年、笠松新介、1557年長又二郎、1558年桜井壱介など)が多くなっている。合わせて敵に対抗するため七尾城の改修・補強と戦乱を乗り切るための軍事力強化などを行っており危機管理に努める。
 この状況が変わるのが、1560(永禄3)年頃とみられる。この年に鳳至郡の鐡川寺の衆徒らが他の寺役の欠如を「登城、御奉行所江申入候」とあり、七尾城の奉行所へ決裁を求めた事例がある。七尾城へ衆徒が足を運んでいるのを見ると、すでに弘治の内乱は落ち着き、義綱が奉行人を整備し、奥能登の争乱の決裁を行う状況にまで支配体制は回復していることがわかる。そしてこの年以降の義綱発給文書で増えるのは、対外的な外交文書(1560年近江六角氏、1561年足利将軍家)に加え、領国再編と秩序回復のため竹林伐採や狼藉の禁止(1561年など)や、守護請や寺役などの決裁(1561年永光寺、1562年石動山妙日坊、1565年七尾湾鰤漁の規制など)の他、安堵状や寄進状のなどの文書発給が多い。これは、国内の土豪の再掌握などを通じた領国再編の動きと言える。また義綱は戦乱で荒廃したことに伴って義続時代には滞っていた寺社への保護を再開する。例えば、1561年能登国一円に一宮気多大社の造営を正親町天皇に勅許を得、臨時造営料などを徴収して造営をしたり、社寺に対して積極的に造営・修復・社寺領の寄進などをしたりしている。これは、寺社勢力の再掌握を通じた領国再編の動きである。弘治の内乱では奥能登の社寺勢力が義綱に味方したためなんとか初戦を耐え切ったのであり、社寺を自勢力に留めておく事は必要絶対条件であったのである。さらに能登の庶民への秩序回復アピールの意味もあったのであろう。
 また義綱専制期(1555年〜1566年)になると、前述したように自分の意思を強く反映させる為の奉行人政治を行っている。これを在地掌握化への努力と東四柳氏はみている。この支配体制により能登畠山氏は守護代や年寄衆(七人衆)を通じてでなく、大名が直接政治を行う制度となったのである。これにより従来の畠山家に無い強い支配体制を展開することとなり、戦国大名化の道へと進んでいった。しかし抜本的領国支配再編改革は実行せず(注2)、旧体制復帰に拠った。これは義綱政権の消極性というより義綱政権の構造的矛盾にゆえがあった。というのは「軍事体制ちぇっく!」で後述するが、大名直轄軍の不在により義綱には強力な軍事的背景がなかった。つまり重臣の軍事力に依存する一方で重臣の権力を削るという矛盾を抱えていたため、強力且つ大胆な改革をすることをおのずと制限されていたからである。それゆえに制限された中で徐々に政策を進めるしか義綱はできなかったのである。
 ちなみに、義綱側近の政僧として孝恩寺存貞がいた。永光寺416世で、永光寺の寺領の管理責任者の立場にあった。

ちぇっくぽいんと!
〜義綱専制期の大名権力はどの程度だったのか〜

 義綱専制期の大名権力をさぐる史料として以下の資料がある。

古文書A 畠山義綱奉行人奉書(「諸橋家文書」)
(前欠)
一、うへさ[  ]
一、ねんぐ等之事、
一、よろづやくの事、
一、あミ(網)の事、
一、申つくる事をじょさい(如在)なく、ひくわん(被官)等までいたすべき事、
右此むねをそむくともがらにおいてハ、かたくざいく(罪科)己に志よすべ
き者也。仍執達如件。
 (永禄八年ヵ)
   三月十一日   (佐脇)綱盛 在判
「 [  ] 」は読解不能を表す

 特に注目すべきは「あミの事」である。前述「義綱政治活動ちぇっく!」で義綱が七尾湾の鰤漁を規制したとあるが、佐脇綱盛は義綱の奉行人であるので、この文書を元に東四柳氏が指摘したものである。七尾湾の鰤漁を規制できる立場にあると言う事は、七尾湾の制海権を握っていた事、七尾湾の調停権を持つ事、鰤漁からの税金徴収などが考えられ、義綱の権力が広範囲に及んでおり、且つかなり大きかった事を示す微証である。
 その一方、東四柳氏の『社寺造営の政治史』において東四柳氏は一宮気多大社の造営に際し造営奉行を設けてなく、大名権力で造営を行っており、「一国平均役の賦課や国中造営勧進をともなう、広汎に展開された事業ではなかったから」として義綱政権の限界を指摘している。さらに気多社が「義綱政権が再出発した永禄4年(1561)以降の衆徒・神官の譲状・売券では、違背文言から従来の「公方御沙汰」が消え、代って「気多大神宮」の「御罰」が登場するようになる」(東四柳氏前掲書)としている。つまり、それまでは気多社が「公方=守護」の権力を利用して秩序を図っていたものが、義綱政権になって、守護権力に頼らなくなったと解す。これは、義綱政権の求心力低下を如実に示すものと東四柳氏は指摘している。

義綱外交政策ちぇっく!
 本願寺の援助を受けた温井・三宅ら反義綱軍が1555(弘治元)年能登に侵攻(弘治の内乱)すると、当初から七尾城籠城を余儀なくされ軍事的不利に立たされていた。義綱は1557(弘治3)年には、妻の出自である近江六角義賢に「ここ数年乱後不如意(ここ数年の乱で思うままにならず苦しい)」(遊佐文書)と報じている。そして翌年の1558(永禄元)年、弟の義春を人質として長尾家に送る条件で軍事同盟を結び長尾景虎(上杉謙信)の後援を得て危機を乗り越えた。国内情勢が安定した能登畠山家は対外外交を本格的にスタートさせる。
 1560(永禄3)年には再び近江六角義賢へ使者を送り、本願寺との和睦のために使者の派遣を懇願している。翌1561(永禄4)年、義綱は奉行人に命じて珠洲三崎の寺家に銭の進納を命令している。その理由として義綱は「大阪・越後御計策に就いて」とされている。大阪は本願寺のこと。越後は関東管領を譲り受けた上杉政虎(輝虎・謙信)のことである。義綱はどんな計策を考えたのであろうかわからないが、義綱が積極的に北陸全体を視野に外交を展開していた事が伺える。また、義綱は1562(永禄5)年、神保(越中)と長尾(越後)の争いの仲介役となって和睦させ、神保長職に対し増山城を安堵し北陸情勢の安定を図った。以後神保氏は能登畠山氏に属することになった。これらの政策は畠山氏の存在を脅かす一向一揆勢力(本願寺)と反乱を起こした温井の動きを抑えるための外交戦略である。この外交戦略は能登での内乱や神保家の内紛という契機があるにせよ、結果的には義綱が主体となって北陸守護勢力の政治的安定状況を構築したと言える。この義綱の外交戦略は、基本的に父義続時代から続く越中の勢力を統制・管理するシステム「畠山体制」(詳しくは拙稿北陸の政治秩序「畠山体制」参照)を継承することによって実現した。「畠山体制」は河内畠山氏を頂点として越中守護代行者=能登畠山氏(越中から遠く離れた河内にいる河内畠山氏に代わって越中の近くにいる能登畠山氏が越中勢力の統制・管理を執行した)、その下に越中守護(神保氏・椎名氏・遊佐氏、後に長尾氏が加わる)がいるという形態であったが、義続時代には形式的だが頂点を担っていた河内畠山氏が永録年間に至っては激しい内乱でおよそ関与できる状態ではなくなってしまった。そこで、義綱は実質的にも形式的にも「畠山体制」の頂点を担うことになり、義綱の権威(=強制力を伴なう権力とは違う)は越中・越後まで及び、北陸勢力の求心力を集めたのである。ゆえに、1562(永禄5)年-1566(永禄9)年の北陸随一の実力者は畠山義綱であると言える。

 次に幕府・朝廷など中央との関係を考えてみる。畠山義綱政権の初期には、幕府との交渉があまりみられない。それは、大槻・一宮の合戦弘治の内乱といった内乱要素があって政情が落ち着かなかったという事もあるが、幕府の方も1553(天文22)年に反幕府方・三好長慶が上洛したため、将軍・足利義輝に近江に逃れるという、幕府側の政情不安定という要素も重なっていた。その幕府が近江に動座している最中である1554(天文23)年に、河内守護代である安見宗房が能登国に使者を送る際、本願寺に路地の安全に関して謝していたことが、「天文日記」の天文23年6月9日の条に記されている。畠山尾州家の当主である畠山高政はこの頃、足利義輝と行動を共にしている。将軍家と行動を共にする河内畠山家との交渉は、能登畠山家を間接的につなげる使者であったと思われ、弘治の内乱が始まる前の大名権力の回復に動く父・徳佑(義続)と温井紹春を中心とする重臣たちの七人衆体制のにらみ合いが続く冷戦期の頃であるが、対幕府の交渉をしていたのかもしれない。しかし、その使者の相手が徳佑側か七人衆がは確認でいない。
 そして、1558(永禄元)年、足利義輝と三好長慶との和議が成立し将軍が京都に戻り、1560(永禄3)年頃には弘治の内乱で敵対していた温井三宅連合軍を能登より退けると、幕府との活発な外交が見られるようになる。まず1560(永禄3)年に義綱は将軍足利義輝に伊勢皇太神宮に神役等の納付を命じられている。この事は、能登畠山家が将軍家にとって近い存在であり幕府を支える大名として将軍に注目されていたことを物語る。また、年次不詳だが、この頃と思われる義綱発給文書に「足利義晴仏事料調達」を命じる文書もある。翌1561(永禄4)年6月には、義輝から年始の貢物の謝礼状が送られるなど、能登国内の内乱が沈静化してから義綱は積極的に幕府に関与していった。年始の貢物関係の書状は1561年のものしか見えないが、義綱の幕府・朝廷への接し方を考えると戦乱(弘治の内乱)が落ち着いたこの年から将軍・足利義輝が暗殺される1565(永禄8)年まで続いたのではないかと想像される。一説には義綱が幕府の「他国衆」(注3) に列していたとされるなど、義綱が幕府に忠誠を尽くした姿勢がよく見える。将軍義輝が松永久秀に暗殺された後は、亡命中の足利義秋に対して1565(永禄8)年書状で交渉するなど、将軍家へのさらなる積極的外交政策を展開している。これは、将軍権威を利用した守護大名的手法で大名基盤を強化し、大名専制支配を強化しようとした試みであろう。
 さらに、義綱は京都大徳寺塔頭である興臨院への積極的な援助も行っている。興臨院は祖父畠山義総が1533(天文2)年頃創建し菩提寺としたものである。しかし、1545(天文14)年に義総が死去すると、その跡を受けた義続政権が1547(天文16)年の押水の合戦などもあり政情不安定だったため援助も細くなり次第に衰微していった。義続政権末期で能登天文の内乱で一段落した1551(天文20)年に、なんとか「為院領能州諸岳村百貫地寄附」(田中政行氏「畠山義続に関する二・三の問題(下)其の一」14頁より)を寄進したが、同年に天啓和尚が示寂(僧の死)すると、入寺する和尚もいないほど衰微した。しかし、義綱政権になり弘治の内乱を経て、義綱専制支配が確立すると、積極的な援助を再開する。1563(永禄6)年には「雲叙和尚開堂」と、1551(天文20)年以来いなかった同院の専従住職の入寺を実現させたり、翌1564(永禄7)年には義綱の母の入牌の為田地「一段半」を、1565(永禄8)年には義綱の妻の入牌の為「参拾貫」を供養料として寄進した。この動きを田中政行氏は「義綱の興臨院中興」と評した。これら行動は、義綱が憧れる祖父・義総の政策を継承(義総が興臨院を創建したので)した為とも言えるが、一方で京都における能登畠山氏復権の強烈なアピールとして実現させたのではなかろうか。
 さらに1562(永禄5)年以降は朝廷との交渉も見て取れる。特に義綱弟・閑嘯軒が山科言継を訪ねている翌年、前権大納言高倉永家が義綱宛ての返状を送る用意をしているのを見ると、京都の公家勢力とのつながりも復活してきたことが見て取れる。幕府の軍医である曲直瀬道三との義綱の交流などが見えるが、これもひょっとしたら公家勢力の執り成しもあるのではないかと推測する。

(図1)義綱の朝廷幕府との外交一覧
年代 宛先 内容
1554(天文23) 幕府? 河内守護代である安見宗房が能登国に使者を送る際、本願寺に路地の安全に関して謝した。
1560(永禄3) 幕府 3月7日。足利義晴仏事料調達のため、奥能登の興臨院領に諸役の免除をする。
幕府 3月22日。将軍義輝が伊勢皇大神宮領である櫛比庄の神役を旧知のように納付するよう命ずる
1561(永禄4) 朝廷 3月。中居鋳物大工が正親町天皇御即位祝儀のため300疋送る。
幕府 6月。義綱は年始の礼物として太刀一腰・白鳥一・背腸五桶を送る。
1562(永禄5)  幕府 4月将軍義輝が、元守護畠山慶致の次男・東岳受旭を山城国景徳寺住持に補任する。
幕府 7月幕府が義綱に近江国日吉社礼拝講の国役を賦課する。
朝廷 8月義綱は能登一宮である気多大社造営のため禁裏に3000疋進納する。
幕府 8月義綱は能登一宮である気多大社造営のため幕府の大館弥三郎へ4000疋寄付する。
朝廷 11月関白近衛前久が禁裏に能登国輪島索麺を進上する。
1563(永禄6) 朝廷 2月義綱弟・閑嘯軒が細川氏綱が千句興行中の山科言継を訪ねる。
1564(永禄7) 朝廷 3月山科言継が前権大納言高倉永家の依頼で義綱宛ての返状を調える。
1565(永禄8) 幕府 10月。亡命中の覚慶(足利義秋)の将軍擁立に対する支援表明書を徳祐(畠山義続)が送る。
1566(永禄9) 幕府 7月。足利義秋の上洛に関する出兵催促を義綱は国内状況により不可能と返信する。

義綱政権軍事組織ちぇっく!
 1553(天文22)年に起こった大槻・一宮の合戦では、後見人である父・徳祐が義綱の代わりに総大将になっていたとされ(『長家家譜』などより)、義綱の具体的行動は知られない。義綱の軍事行動が具体的に知られるのは1555(弘治元)年に勃発した弘治の内乱からである。奥能登の土豪を味方につける為の働きかけや七尾城改修などを指示して、奉行人を通じて積極的に義綱の意思を具体化させている。しかし、肝心の能登畠山氏の軍事組織は、一般の守護大名体制となんら変わらず間接支配であった。
 この頃の畠山家の軍事組織はどうであったのか。東四柳氏の見解を同氏の論文「畠山義綱考」(『国史学』88号.1972年)を中心にまとめる。弘治の内乱時、在地社寺勢力が積極的に義綱軍の支援をしていたが、これは義綱が内乱終結後の積極的保護を約束して味方にした結果である。事実、義綱専制が確立すると義綱は積極的に社寺に寄進を行った。一方、畠山家の正規軍の軍事力・軍事組織は脆弱であったようである。畠山家の軍事組織形態には大きく分けて二つのタイプがあった。ひとつは、家臣が合戦毎に同心主を中心に同陣同心方式で部隊を組織化し、それを大名権力が臨時に支配下に置くという間接統制システムに要因があった。これでは、大名と部隊との間に同心主が仲介役となるので大名の命令が末端まで徹底できないという不便さがあった。そしてもうひとつ組織形態として、有力国人の独立した軍事組織を臨時に大名の権力下に置くというものがあった。これも、本来の主君が大名ではないので、やはり大名の命令が徹底できないという問題を抱えていた。特に能登畠山家の軍事組織形態としては、後者の比重が大きかった。また大名直轄軍もほとんど無かった(あったとしても小規模)ので、軍事面では「大名専制」には程遠い状態であった。
 この軍事組織形態が、義綱が目指した「戦国大名化」政策を大きく阻む事となる。というのも、強力な支配を築く為には、当然大名が強制力をもって家臣統制すること(=家臣の権力削減)が必要となる。しかし、それを実行する為の背景となる大名の軍事力が強固で無ければ、家臣の軍事力によって大名の立場が脅かされ、大胆な家臣権力削減ができないのである。義綱もその矛盾を解消しようとした事が、弘治の内乱での感状において垣間見える。即ち、飯川光誠という同心主を通して掌握していた笠松但馬守(注4)に対して、義綱が直接感状を与えていた事実である。これは、義綱が手始めに自分の側近である光誠の下の臣を直接自分に取り組もうと試みたのであろう。弘治の内乱以降、義綱が徐々に軍事面でも直接支配を行おうとしたことは、義綱の領国支配再編への成果が上がっていると見られる。さらに義綱は1563(永禄6)年に出羽より軍馬を購入した(三宅隆太郎氏所蔵文書)。その為、義綱の奉行人は三宅小三郎に命じて舟子24人と1人前80文の金納を命じている。義綱はこの軍馬で騎馬隊を創設するつもりだったのか、或いは坂下喜久次氏は「守護の手で産馬の改良を進められていたものである」(『七尾城と小丸山城』P.465より)と評している。
(図1)参考資料
能登畠山家の軍事組織形態

義綱政権経済構造ちぇっく!
 義綱専制期に入り、戦乱が落ち着き領国再編が可能になると義綱は経済構造改革にも着手した。しかし、それは旧体制に戻すことが主の目的であり(注2参照)戦国大名一般に見られるような強固な税制改革は実行されなかった。商業税制では、この頃一般的になっていた商業流通賦課税が能登にはみられない。また、農業税制では寄進状に苅高表示が見られ、古代の遺制が続き能登では貫高制が未確立であったことを示している。このように統一的な税制を見出せない弱みが能登畠山氏が守護大名から脱皮しきれなかった理由であると東四柳氏は指摘している。
  しかし、本当に畠山家は旧来の制度のままで守護大名から脱皮できなかったのであろうか。私は違うと考える。能登という地はその半島いう地理的条件の下、日本海海上交通で必ず能登国に寄港するという交通の要所にあった。珠洲焼きが蝦夷など広範囲で発掘されている事実や、出羽からの軍馬の購入。京都への貢物の搬送などを考えると、かなり海上交通は発達していたと考えられる。そのことから能登の船の往来も頻繁であったと考えられ、関銭や船改銭(通行税)を領収してかなりの利益を挙げたのではなかろうかと考えられる(注5)(詳しくは拙稿能登島と海と畠山氏参照)。また、義綱は前述のように七尾湾の鰤漁への規制を行い税金徴収したとみられる。つまり、義綱は七尾湾の制海権を握っており漁業税を領収していたと考えられる。また、それに伴ない義綱は上位権力者として漁民による漁業争議の調停者としても活動したのではなかろうか。それが古文書Aの網の規制に繋がったのではなかろうか。そういえば、瀬戸内海と違って能登では海賊行為というのがあまりみられない(注6)。これは関銭・船改銭や漁業税の重要性を意識した畠山氏が海の秩序を重要視していたためではなかろうか。そう考えると、それほど商業税や農業税改革にこだわらなくとも、経済基盤は安定したと推測できないか。つまり、畠山氏が貫高制や商業流通賦課税を課しなかったのは、それ以外の税で収入が足りていたからで、それを実施しなかったからといって畠山氏が守護大名を脱皮し切れなかったと判断するのは早計だと考えるのである。

義綱健康ちぇっく!
 義綱は生来の病弱体質であったようである。1565(永禄8)年の冬より長期にわたって病気を煩っていた。この「御屋形」(義綱)の「御煩」(病気)に対し、1566(永禄9)年に山城祇園社宝寿院から祈祷御守・牛玉と御壇供を送られた礼状を家臣の隠岐賢広が返している(古文書B)。その病名について宮下義己氏は「『将亦、近日中気相煩候』とあるのと関連づけられ、中風を煩っていたのではなかろうか」(注7)と指摘している。中風とは小児のかかる病名で当時義綱は20代後半(詳しくは拙稿年齢の義綱仮説参照)であったが、長期煩いを踏まえて判断したと述べている。その後、義綱の亡命中も「瘧病相煩」とあり病気が1日おきに発作を起こしたいへん苦しんでいる様子の資料も残っている。 それゆえ東四柳氏は、義綱政権初期に徳祐が後見人となった理由として、義綱の健康上の理由があったのではないかと指摘している。


古文書B 隠岐賢広礼状(「京都八坂神社文書」)
御屋形様に御祈祷御守・牛玉并御壇供致披露候。以御書
仰出、自舊冬御煩付而、何も無其儀候。従
私相意得可申入由候。拙者も相煩候間、不判形候。更
非二自由一候。恐惶謹言。
 正月十一日  (隠岐右近大夫)賢広 奉
 

義綱文芸活動ちぇっく!
 当主時代の文芸活動はあまり知られないが、1561(永禄4)年に長続連が主君である義綱を自邸に呼んで歓待し、能などが催されたこと(詳しくは長続連の義綱歓待からみるもの参照)がある。これは間接的な義綱の文化水準を示す資料である。歓待は義綱を喜ばす為に行われたものであり、義綱に能の趣味があったことが伺われる。さらに、能の演目を見るとかなり大規模なものであり、且つ演能の順番などからして、長続連の文化水準と財力の高さが知られると言われる。この事から林六郎光明氏(六郎光明の屋形@管理人)は「文化水準の高い殿様を歓待しようと思ったら、下手な宴会では逆に怒られてしまいますからね。ですから、殿様の水準が高いということは、周囲も必然的に水準を高くせざるを得ないのですよ。畠山氏だけが突出して高いということはありえないですね。」と述べている。つまり、長続連の文化水準が高いと言うことは、それに比例して義綱の文化水準もかなり高かったと想像できると言えるのである。また、1562(永禄5)年の能登一宮気多大社が義綱によって造営され遷宮祭が執り行われた時、猿楽が行われている。願主が義綱だけに義綱にも猿楽の趣味があったのであろうことが推測される。
 また前項のように義綱は病弱であったことに加え、畠山家が代々文芸に深く関心をもつことから、義綱は熱心に医道を学んだ。医道を学びだしたのは永禄九年の政変後の記録が多いことから、坂本での知識習得と思われているが、将軍の軍医で政治道義でも第一級の人物であった曲直瀬道三に義綱が宛てた(古文書C)の書簡をみると、「家中不慮之儀」で坂本に退いた同文書の前から「連々申候医道之儀」と「かねてから申している医道の(相伝に関する)件」と書いている。このことから、義綱が能登在国中から曲直瀬道三との関係が知られる。医道の相伝を頼むという事は、それ以前から義綱が相当医道に詳しくなっており、且つ道三との仲もかなり懇意であると見える。実際、この後義綱は道三より、医道奥義相伝書(免許皆伝の証書のようなもの)を得た(宮下義己氏前掲論文)ほど、医道の知識レベルが高かったようだ。さらに、その後も義綱は、薬方の処方だけでなく、当時の最先端医療である灸により治療も行うなど実践的な医術の修練を重ね、「義綱の処方註釈に関わる質問は、小児病理の核心をついている」(注8)とあるように知識だけにとどまらず、武将の健康管理という実践でも役立っていた。中風から医道に関心を持った為、特に小児医術を学んだというが、まさに義綱の文芸水準、恐るべしである。


古文書C 義綱文書(『小乗覚自養録紙背文書)
就家中不慮之儀、至坂本上津候。仍、連々申談候医道之儀、
此度於相伝者、入魂之筋目、可為祝着候。将亦、近日中気相煩候。
猶富来小次郎可申候。恐々謹言。
(永禄十年)卯月廿二日
義綱(花押)
道参入道殿

むすびに
 以上見てきたように、義綱は1555年頃から次第に実力を発揮し始め、総貞体制・七人衆体制の解体や、経済基盤・人事制度の改編を図って積極的に領国の秩序を回復・再編しようと試みたのである。実際、1560年〜1566年までの能登畠山家は、戦国期にしては最も安定した6年間であったといえる。また、能登畠山家史上初めて強力な大名専制支配体制を確立したもの、義綱政権であった。この辺りの諸政策は『長家家譜』等が語る暗君とは全く違う義綱の人物像をイメージさせるのである。


(2)義綱の亡命時代

はじめに
 次に、義綱が永禄九年の政変で追放されてからの行動を追ってみたい。永禄九年の政変の内容とその意義の詳細は拙稿永禄九年の政変を参考頂きたい。概説をすると、直轄軍を持たない大名権力では、常に大名の政治的地位は不安定であり、義綱はその制限されたなかで領国再編・専制支配強化を進めていった。その政策を進める中でさらなる権力削減を恐れた遊佐続光長続連八代俊盛等の重臣に追放されたというものである。ここでは義綱の亡命後の動きと人物についてを中心に述べることとし、個別の事件などの論点について永禄九年の政変義綱能登奪回戦「義綱亡命政府」の基礎的考察を参照してご覧頂きたい。

1.永禄九年の政変における 『長家家譜』等長家文献の捏造
 義綱が家臣に追放された事実から単純に無能と判断できるのであろうか。例えば剣豪将軍足利義輝は松永久秀に暗殺されたが歴史的評価は高い。歴史というものは自ら窺い知ることができず、史料に頼らざるを得ない。その核となる史料は、その歴史上の人物に先入観を与えその人物の人物像を勝手に作り出す事もある。例えばその史料が公正な事実を表してないとすれば、その人物の本来とは違った人物像ができてしまうのである。であるから、史料から窺い知る場合は、その史料の成立背景を考慮して引用しなければならない。
 義綱無能論は長氏文献によるところが多い。それによると「義則(義綱)壇行日々熾んにして農・商の娘或いは女の嫁せんとする乗物を奪ひ、城中へ引入、又新参武士の八代安芸寵を過し・・ ・(後略)」つまり、義綱はとんでもない暴君であったと記している。「これだけ酷い当主であるから追放した人達は悪くありませんよ。」と主張しているのである。しかし、長続連は「永禄九年の政変」において主君義綱を追放した主軸であるわけであるから、義綱と敵対してる事になる。とすれば、当然その書物が義綱の素行を悪く書き長家に都合の良い部分を捏造している可能性を考慮しなければならないのである。つまり長氏文献集だけを読んで義綱は凡愚な当主であったとするのは事実を誤認させるのである。義綱の本当の姿を知るには、発給文書からの行動・政策の検討、又は家臣の行動、長家贔屓をしていると理解しながら長家関連の文献を読み込むことが必要になるのである。

2.追放後義綱の人望ちぇっく!
 1566(永録9)年に追放された時、家臣の中でも義綱に付き従う者が多くおり、さらには能登に残った家臣の中でも潜在的義綱派が多くいた。また、京都栗棘庵も密かに「義綱亡命政府」を支援していたし、さらに越中神保長職、越後上杉輝虎(謙信)は義綱の味方であり、義綱の能登復帰の為に尽力するのである。つまり、こうなると、対外的には義綱が能登の守護であり、重臣に擁立された義慶政権(注9)は正当な政権とみなされていなかった。北陸の政治秩序「畠山体制」永禄九年の政変後も義綱を中心に動いてたのである。
 これはまず1つに義綱の中央へのパイプ(足利義昭との交渉等)や、当主時代の外交戦略が成功を収めていたという事が言える。つまり輝虎・長職は北陸秩序の安定を求めて義綱を支援したのであろう。ただし義綱は加賀一向一揆にも支援を要請したが支援を得られなかった。支援者の1人である上杉輝虎が反一向一揆派であったことが理由である。2つ目理由として当主時代の領国改革の成果がある。義綱に付き従ってきた者の多くは義綱の意向を反映して政治を行う奉行人や、年寄衆の飯川光誠など積極的に義綱専制期に義綱改革を推し進めた近臣層である。それゆえ、反義綱派は権力削減された年寄衆=重臣層で形成された。この改革推進派と守旧派(=重臣層)の対立が永禄九年の政変であり、家中を二分する勢力となり、追放後の義綱にも付き従う者が多かったし、国内にも潜在的義綱派が多くいたのである。これらの状況から、政変後すぐでは、義綱と重臣達とでは義綱の方に明かに分があったのである。(詳しくは拙稿永禄九年の政変「義綱亡命政府」の基礎的考察参照)。

3.「義綱亡命政府」での義綱活動ちぇっく!
 義綱は本当は加賀一向一揆の支援を得て能登の近くで復帰を期したかったのであるが、一向一揆が拒絶したため近江六角氏の下にいったん身を寄せた。近江六角氏の下に身を寄せた理由は、妻の実家で支援が期待できたと言う理由の他に、物品の拠点である京都の近くにいて全国規模の豊富な情報をいち早く入手し、連携する大名をより多角的に探索するためであった。
 義綱は体制を立て直して能登に復帰戦を仕掛けるため、妻の実家追放されて直ぐ影響力あるうちに能登奪回戦展開しようと図った。義綱の能登奪回戦に神保長職も上杉輝虎も支援を表明し、能登の潜在的義綱派も心動かされた。そして、上杉軍は義綱入国を実現させるため1568(永禄11)年3月に能登に進軍する。しかし、義綱自らも出陣しようとした矢先に突如椎名氏が反義綱方を表明して対立すると上杉軍は撤退した。義綱は追放されてからすでに2年経っているので、これ以上挙兵を遅らせると能登での影響力低下は避けられないとの考えから、同年5月1日、外部の支援を得ずに兵を率いて能登に入国する。義綱軍は初戦には連勝に次ぐ連勝を重ね、3日には玉尾城を占拠するなど、能登の拠点の大半を抑えるに至った。この時に名医としても有名で、将軍の側近の名医で政治道義の第1級の人物・曲直瀬道三に戦況を報告している。これは、義綱が能登の軍事的制圧のみならず、大義名分を経て旧領回復を狙ったものである。まさに義綱の巧妙な作戦が垣間見える。その後、合戦が長期化すると物力のある義慶軍が反撃を開始し、次々と兵が離反していき義綱は敗れた(詳しくは拙稿義綱能登奪回戦参照)。
 敗れたその後も、義綱は積極的に足利義昭・織田信長に接近し、1567年の義昭入京に対して賞賛の書状を送っている。これは義綱が信長と接近して能登入国の支援を期待しての画策であった。 さらには、その後も義綱家臣・富来胤盛が信長と交渉したり、曲直瀬道三が義綱のために信長と提携できるよう奔走している。このように、亡命後も積極的に領国奪回へ向けた動きを起こしているのである。しかし、1度戦に敗れ勢力を減退させた。さらに、支援者である近江六角氏も勢力を減退させていた。こうして、義綱の勢力が減退を始め、能登復帰が現実味を帯びなくなると、次第に義綱の影響力も低下し、飯川光誠を中心に細々と活動を続けたが大勢に影響を与えることは難しくなっていった。義綱の消息が確実に知られる古文書は1574(天正4)年に能登国羽咋郡押水覚乗坊(光専寺)充が最後である。おそらく、「義綱亡命政府」が実質的に解体し、義綱の公式的な行動もほとんど無くなった為であろう。その3年後である1577(天正5)年の上杉謙信の能登侵攻を迎え能登畠山氏自体が滅亡し、義綱の能登復帰も露と消えたのである。
 能登復帰という目標が消えた後の義綱の行動は不明である。しかし、一説に1589年(天正17)年豊臣秀吉が切妻造りの四脚門で随所に趣向を凝らした桃山建築特徴をあらわす伏見城の門を義綱に与え、その門を義綱が大徳寺に寄付したとも言われている(注10)。豊臣秀吉と接点があるという事と、門を与えられたという記述から考えると、晩年の義綱は単なる一市民として過ごしたのではなく、ある程度の収入があり、それなりの生活基盤があったとも考えられる。これが単なる伝承で誤りとしても、晩年の義綱の様子を間接的に知らせる貴重な史料である。
 最後に義綱の没年についてである。下記の大徳寺塔頭興臨院所蔵の「興臨院月中須知簿」(過去帳)の文から名前に誤りがあるが1593年12月21日に没したことがわかっている。また、能登七尾の本光寺所蔵「法性院円岸文見山書伝之写」によると「義則〔綱〕公御帰国之御尽モ叶ヒカタク、舎吾ノ浦海津辺ニテ、御終リ之由候、」とあり、近江国伊香郡の余吾浦没したとわかる(注11)。古文書などで死去した年などの確実な裏付けではないが、余呉という地名が気にかかる。能登畠山家と余呉には深いつながりがあり、義綱の客死した地もそれを補強するものである(詳しくは能登畠山氏と余呉庄の関係参照)。

「興臨院月中須知簿」(大徳寺塔頭興臨院所蔵)
興臨院殿霊岩徳祐大居士 天正十八庚寅年三月(十二日)
畠山左衛門源義綱〔義続〕公
興善院殿華岳徳栄大居士 文禄二葵己年十二月(廿一日)
畠山修理大夫源義則〔義綱〕公

4.義綱追放の影響とまとめに
 義綱が追放されたことによりどのような影響があったのであろうか。東四柳氏によると「義綱の出奔後に見られる入国作戦の展開は、能登畠山氏領国制自壊作用の一因をなしていた」(注12)と評している。つまり、義綱の能登復帰という目標はあったにせよ義綱能登奪回戦という合戦は現政権である義慶政権に確実にダメージを与え、能登の経済を疲弊させた。さらに支配体制も家中が義綱派と反義綱派に二分されたことにより動揺し、権力闘争も多くなったと考えられる。その結果、能登畠山氏(義慶政権)の権威は低下しそれを狙った上杉謙信の1576年〜1577年の能登侵攻許してしまったとも言える。それを考えると、義綱の義慶政権への攻撃は「能登畠山氏領国制自壊作用」と言われても仕方ないものである。
 しかし義綱の能登奪回工作の本来の目的は、義綱専制期を取り戻すことであり、大名権力を取り戻すことであった。つまり、重臣達が再び権力を握った支配体制の排除にあったわけで、畠山義慶政権の排除することではなかった。それゆえ、状況次第では明応九年の政変のように妥協する余地があったのではなかろうか。


(3)全体のむすびに
 (1)(2)で見てきたように義綱には、当主時代の数々の領国政策の業績や、家臣の追従(亡命後)、対外勢力の支援という実績がある。それは、弘治の内乱を乗り切る軍事・外交政策や政策面での領国再編計画や、幕府との交渉、追放後の医道伝授、義綱能登奪回戦という形で実現している。このことからも、義綱の行動の積極さが認められ長家家譜や従来から見られる暗君とは違うイメージが見て取れる。
 そこで、3人の歴史家の評価を紹介しよう、まず郷土史家の片岡樹裏人氏はその著書『七尾城の歴史』(P.141)で「城主義綱と長氏との間は一時敵対関係にあったから、長家の記録を全面的に信用するわけにはいかない。したがって義綱は長家家譜にいうような無暴な城主ではなかったのかも知れない。後に義綱が越中越後亡命後能登入国をはかっているが、その戦況を曲直瀬道三に報告している事実から、むしろ、智謀あり、重臣勢力に利されない聡明な城主であったのかもしれない。」と評している。東四柳史明氏は「畠山義綱考」(『国史学』88号)のむすびにおいて畠山氏が戦国大名の基盤を確立していないのに1577年まで滅亡を逃れた理由として、外的要因もあるが、義綱の領国再編の努力が作用したことをあげている。そして、義綱の従来の暗君のイメージと異なって義綱の積極的性格を認めている。坂下喜久次氏はその著書『七尾城と小丸山城』(P.467)で「畠山義続・義綱は結局七尾城復帰のゆめを果たせないまゝ、上杉謙信、本願寺と一向一揆、織田信長と激動する流れに埋没してしまったが、義綱の能登への愛着と戦国大名への執念は、畠山氏歴代の誰よりも強く、非凡なる才能を持った人物であったと評するものである。」と評している。
 結果論として義綱の事績を見れば、専制支配に成功するものの領国改革・再編の諸政策は、永禄九年の政変という事件で頓挫してしまい、成功を見れなかったし、追放後の能登復帰工作も結局は成功しなかった。しかし、戦乱続き守護大名が次々と下剋上される激動の時代の中で、1560年〜1566年という一時的でももあれ専制支配(=戦国大名化)を確立し、平和を実現させたのは義綱の立派な功績であると言えよう。 歴史に“もしも”ということは有り得ないのであるが、“もしも”彼がいなかったら、能登畠山氏はもっと早く滅亡していたかもしれない。義綱のキラリと光った時期をもっとよく見て評価して欲しいと切に願ってこの項の筆を置く事とする。

義綱公式見解:畠山義綱は「領国改革を推進した聡明な人物である!」


☆武将採点表(10段階評価、10がMAX)
畠山義綱 点数 評価
先見力 周りが戦国大名化し強力な支配を築いているさなか、強力な支配力を確立できなかったことは失敗である。
情報力 側近(飯川や富来)を通じて情報収集には力を入れていた。謙信との同盟や、曲直瀬道三との接触は情報力の賜。
人望 能登を追放されてなおついてくる家臣がいたと言うことは人望があったことに他ならない。
経済力 専制期に入って七尾城下町も繁栄を取り戻しつつあっただろう。しかし、先の内戦で全盛期よりは落ちたこと疑いなし。
政治力 領国再編や、将軍への接近、謙信との同盟など混乱期の能登の領国経営を一時ながら安定化させた功績は大きい。
軍事力 大名直轄軍の存在は認められない。しかし、信頼できる側近の軍事力を含めればそこそこの軍事力はあると考えられる。

☆参考資料(義綱花押)
義綱花押

(注釈)
(注1)30年の安定した治世を築いた7代当主畠山義総でさえも、守護代を通じた間接支配体制であった。義綱専制時代は能登畠山氏の治世170年間の中で唯一強力な大名直接支配体制を実現した期間であった。その意味でも畠山義綱の行動と功績はもっと評価されていいだろう。
(注2)例えば、義綱は弘治の内乱で活躍した笠松新介(但馬守)に対し、知行に対し百人夫・棟銭を免除し、大石屋敷七箇所を与えた。これは旧権益をそのまま与えたに過ぎず、完全な領国把握が出来ていない徴証である。つまり義綱が旧体制を基本的に存続させたと言える。
(注3)「他国衆」との記述は『戦国史事典』(秋田書店.1980年)に依拠するがその出典が明らかでない。しかし、幕府の役職・組織として「他国衆」などというものがあったか。おそらく「外様衆」のことではなかろうか。この「他国衆」について、足利義輝様とふーむ様を交えて検討を行った詳しくは「畠山関連ネタの御投稿」の「畠山義綱が任命されたという『他国衆』という役職について」を参照。
(注4)弘治の内乱において笠松但馬守は同心主飯川光誠に従っていて、戦の感状も大名から直接ではなく光誠から与えられていた。
(注5)越中神保長職の家臣・寺嶋職定が船の荷札に証書を与えているが、これも関銭・船改銭を取っていたと考えられる。能登でも同様の税制が考えられる。
(注6)能登と同様に越中放生津中心に射水郡・婦負郡の守護として支配した神保領国でも海賊行為はあまりみられない。ただし、新川郡守護代椎名氏の領国内では海賊行為は結構あったと射水市新湊博物館学芸員松山氏は指摘する。
(注7)宮下義己「畠山義綱と医道伝授(2)」『日本医史学雑誌』19巻.1973年
(注8)宮本義己「畠山義綱の小児医術」(『歴史読本』331号、1981年)
(注9)永禄九年の政変後、重臣達に擁立されて家督を継いだ畠山義慶はまだこの頃元服していなかった。元服するのは1571(元亀2)年である。
(注10)現在国宝となっている大徳寺唐門の一般的な由来は、豊臣秀吉が1586(天正14)年に造営した聚楽弟の門を村上周防守に与え、それを周防守が大徳寺に寄付したとされている。しかし、この説も確実な史料になく疑問視されるものでもある。
(注11)両方の物とも名前に誤りがあるので、後世に書かれてものであろうか。そうなると、没年も改めて検討する余地があろう。
(注12)東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年

参考文献
宮下義己『戦国武将の養生法』新人物文庫,2010年
(共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年
(共著)『七尾市史 通史編』七尾市.1974年
(共著)『戦国史事典』秋田書店.1980年
(共著)『社寺造営の政治史』思文閣.2000年
(共著)『加能史料]W』石川史書刊行会、2016年
田中政行「畠山義続に関する二・三の問題(下)其の一」『七尾の地方史』14号,1978年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
東四柳史明「「能登畠山氏と一乗院覚慶-「畠山義綱考」補遺-」『書状研究』創刊号.1974年
東四柳史明「弘治の内乱基礎的考察」『国史学』122号.1984年
宮下義己「畠山義綱と医道伝授(一)」『日本医史学雑誌』18巻.1972年
宮下義己「畠山義綱と医道伝授(二)」『日本医史学雑誌』19巻.1973年
宮本義己「畠山義綱の小児医術」『歴史読本』331号、1981年
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