押水の合戦
[1547年]

畠山義続軍VS畠山駿河守軍

●原因
 この合戦は、前当主義総に1538年以来一族の抗争に敗れて加賀に出奔していた一族の畠山駿河守が挙兵した内乱である。義総政権時代ではなく、この時期(1547年)に駿河が反乱を起こした要因を考えると、義続政権が不安定な時期であったのではないかと考えられる。合戦の前年(1546年)には義続が能登全域に徳政令を出している等国内は荒れていた。駿河が反乱を起こす一番よい時期であったのであろう。これは、義総死去・内政混乱による義続の大名権力低下が起こした合戦だと考えられる。
畠山義続軍 畠山駿河守軍
勝敗 WIN LOSE
兵力 詳細不明 詳細不明
支援者    加賀本願寺
総大将 畠山義続 畠山駿河守
主力 温井総貞
飯川光誠
笠松新介
畠山九郎
畠山勝禅寺
神保出雲守
押水の合戦

●経過    

●合戦の影響
 この合戦は、義総政権にて圧迫されていた九郎や駿河が、実権を取り戻そうと起こした反乱である。義続政権発足からまだ日が浅く、この合戦は義続の力量を試すものとなった。しかし、重臣の温井総貞の活躍がかなり目立っているのをみると、義続が上手く乗り切ったと言うよりは総貞の力で鎮圧した感が強い。なんとか反乱を鎮圧したとはいえ、能登畠山家に与えた打撃は大きい。経済的、大名の権力に大きな打撃を与えたことは確かであろう。

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 押水合戦に関する文書はかなり少ない。残っているだけでも3つである。以下3つは『押水町史』より転載したもの。

(A)『天文日記』
(天文十六年)閏七月十六日、就能登国押野(水)へ畠山駿河入国
加州罷立輩有之間、差下使者堅可相止之由候。
又越中衆も在候。同可申付之由以禅林寺申来
本願寺証如が使者を遣わして駿河へ合力をしないよう命じている。

(B)『笠松文書』
干端郡押水駿河殿一戦之刻分射(ママ)、則駿河殿被相渡太刀討、
太刀疵被疵候。無比類御高名に候。
飯川光誠が笠松新介宛に出した感状

(C)『栗棘庵文書』
去七日於賀州堺一戦、駿河父子三人其外数百人討取落居候間、
御心安候。拙者は不慮之儀候に不出陣候。無念候。作去同
名者共致一番合戦、高名仕候間満足候・・・・
温井総貞が自軍が戦功を挙げたことを栗棘庵に報じている。

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参考文献
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号、1972年
『押水町史』押水町史編纂委員会、1974年
ETC・・・

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