畠山義続特集

畠山義続
↑畠山義続イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 義続<はたけやま よしつぐ>(?〜1590) 義綱仮説 ・義続(1517〜1590)
 左衛門佐。能登守護・七尾城主。畠山義総の次男。仮名次郎。入道して徳祐。妻は蓮如の孫蓮慶の末娘(通称向殿)。1536(天文5)年、元服し将軍の一字を拝領した。1545(天文14)年祖父の死去に伴い家督を継いで8代当主となる。しかし、義続が当主の頃に重臣たちの内乱が頻発し、ついには重臣たちは自分たちで重臣間の利害調整を行おうと有力年寄衆7人による、七人衆体制を発足させて大名権力を傀儡化する。義続は1552(天文21)年に家督を義綱に譲り、大名権力回復に奔走するが、1566(永禄9)年には永禄九年の政変で義綱とともに家臣から能登を追放され、失意のうちに1590(天正18)年3月12日死去。 法名、興源院殿霊岩徳祐大居士。

義続支配体制ちぇっく!
 義続の支配体制は2期に分別できる。


第1期(重臣争乱期)<1545-1551>

有力重臣:遊佐続光温井総貞

安定した祖父の政権運営の後だけに家督継承直後の2年はそれほど問題も起こっていない。むしろ、1546(天文15)年には「国主となったことを高らかに掲げるため」(注1)か徳政令を発している。しかしその後、押水の合戦(1547年)や七頭の乱(1550年)などの内乱が頻発しする。特に後者の乱のきっかけとなった有力重臣の遊佐続光温井総貞の権力闘争が深刻化し、それを調整できない大名権力の低下が顕著に見られてくるのである。


第1期(七人衆体制)<1551-1552?>

能登の国政の実権を握る畠山七人衆温井紹春長続連、三宅総広、平総知、伊丹総堅、遊佐宗円、遊佐続光

室町期の守護大名・戦国大名は重臣・国人の連合体の盟主のような存在とよく称される。それほど実は強い権力を持ってなく、重臣たちと合議の上政権運営をするのが常であった。しかし、その重臣たちとの関係構築に失敗すると、大名権力は傀儡化されたり下剋上されたりしてしまう。能登でも遊佐続光温井総貞の権力闘争を調整できずに国政を混乱させてしまった結果、重臣たちは自分たちの合議制で政権運営を行うことにした。それが七人衆体制である。これによって大名権力は傀儡化された。それゆえ、義続は早期に家督を嫡子・義綱に譲り大名権力復権を目指すことにするのである。


義続政治活動ちぇっく!
 義続は次男であるのに早くから家督継承対象者と見られていた。それは兄の畠山義繁が1533(天文2)年に早世していたためである。義続の文書初見は、1536(天文5)年に、将軍家に後継者として年始の礼物を献上し、同年、将軍義晴から一字を拝領し、義続。続いて官途を拝領し左衛門佐(修理太大夫入道=義総、次郎・左衛門佐=義続)となったことが知られる。自身の活動は1541(天文10)年から知られ、8月には父義総に代わって本願寺の使者と対面しており(「天文日記」)、家督継承に向けて着々と準備が進められていたようだ。
 ただ、家督継承にあたって問題がなかったわけではない。というのも、畠山尾州家(河内畠山家・政長流)の畠山稙長が義続を家督継承者に指名していたからである(詳しくは畠山稙長遺言、畠山義続の河内畠山家相続!?参照)。しかし、父・義総が死去した同じ年に稙長がも死去したので、この河内畠山家の家督相続は実現しなかった。このように義続は能登でも河内でも家督継承者とみられるほど、頼りにされていたといえよう。義続がこれほどの信頼を周りから得ていたのは、1544(天文13)年に越中で起こった神保長職に関する争乱の調停を病気の義総に替わって義続が行ったこと(詳しくは後述する)がなど、義総の代行として活躍して事が評価されていたからであろう。さらに、義続の妹が室町幕府で発言力のある六角定頼に嫁いでいたことで定頼の支援を得ていたことに加え、義続の正室が蓮如の孫蓮慶の末娘(通称向殿)であり義続を認めていたということもある。幕府に影響力のある六角氏・本願寺勢力と懇意であるという事実は義続の権威形成に大きい影響を与えたと思われる。
 義続は家督相続の一年後の1546(天文15)年11月に、能登一国に徳政令を出している(古文書A)。これはどのような事情からであろうか。中世に詳しい「六郎光明の屋形」の林光明氏のご教授によると、徳政令とは権利関係などの時間を戻すものであり、すなわち借金を帳消しにするものである。ということは、財産関係や流通にかなりの打撃を与える。それゆえ、強大な権力を持ち得ないと徳政令は発することができないとのご指摘を頂いた。また、阿部浩一氏(『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館.2000年)によると、戦国大名の徳政は主に次の3つのどれかの役割を果たしていると言う。1、旧勢力駆逐の手段。2、飢饉や兵乱で窮乏する農民の救済・農村の維持。3、領内統治の組織的強化。の3つである。1546(天文13)年の能登の状況は、旧勢力を駆逐するような要因や、飢饉や兵乱ということも考えられないので、3の「領内統治の組織的強化」に当たるであろうか。さらに、徳政令には「代替り徳政」という側面もある。戦国大名の「代替り徳政」としては、1560(永禄3)年の北条氏康−氏政の家督交替時、1575(天正3)年の北畠具教−信意(信雄)の家督交替時など例もたくさんある。また上杉景勝が「代替りの徳政」を行った時は、「国主となったことを高らかに掲げるため」(注1)におこなったとされている。義続の徳政令も、1546(天文15)年という義総死去の1年後の時期を考えると、能登でも意図的な「代替り徳政」を発令したのか、「代替りの一揆」(注2)が起こったのかもしれない。以上の徳政令の特性を考えると、義続が発した徳政令は家督継承一年後として「代替り徳政」としての位置づけが高いと思われる。そしてそれを発した理由として、義総の死で動揺する領国を義続が「国主となったことを高らかに掲げるため」そして、義続体制という領内統治の組織的強化を狙ったものではないかと推測できる。すなわち、この徳政令は義続の主体的意思によって出されたものではなかろうか。
 以上のことからすると、義続政権のスタートは非常に順調だったのではないかと言える。よって、『長家家譜』などにおける義続の低い評価は不当評価とも言える。ではなぜその後、義続政権は内乱の頻発や権力闘争の果てに畠山七人衆の台頭を許してしまったのであろうか。そのカギを解くのに温井総貞遊佐続光の2人の義続政権における両雄が挙げられる。まず、総貞(紹春)は義総の寵愛によって引き立てられた人物である。義続政権の前段階からかなりの権力を有していたと言える。一方の続光は1550(天文19)年に起こる七頭の乱までは名前が見えない。続光は遊佐嫡家の人物で、守護代の家柄である。しかし義総政権時代に守護代権力削減を狙った義総に疎まれ、遊佐嫡家の人物である遊佐総光は家中の中枢から遠ざけられいたのである。義続政権になって続光の名がでてくることから、遊佐嫡家も徐々に復権してきたと見える。しかし、そこで家中随一の座を手に入れた総貞と守護代家の家柄を持つ続光が対立するに至ったのである。これは義続の失政というより、義総政権時の負の遺産と言えよう。この事態で強力な大名権力・権威があれば両雄を抑えることもできたろうが、1547(天文16)年には叔父の畠山駿河が加州の本願寺の合力を得て能登に乱入し内乱状態(押水の合戦)になるなど、義続政権は徐々に力を落としていった時期なのである。それゆえついに1550(天文19)年に守護方への家臣の不満が暴発し、温井総貞遊佐続光を中心として大規模な合戦へと発展したのである(七頭の乱)。この合戦で義続は七尾城に籠城をせざるを得なくなるなど、その被害は甚大であった。この合戦は温井・遊佐らの「七頭」の勝利であったが主君を籠城まで追いやった責任として温井総貞、遊佐四右、遊佐信州(後の宗円)、伊丹某は同年3月7日に落髪して入道する事態となり、さらに、義続自身も同月28日に落髪して入道し徳祐とすることとなった。
 もともと大名権力とは重臣間の争いを調停するために存在する盟主のようなもので、争いを調停できない場合は家臣への影響力が極端に低下する場合が多い。義続の場合も同様で、七頭の乱で重臣たちは大名権力に拠らない形で、新たな重臣間争いを調停する機構を組織しなければならない事態となった。そうして作られたのが畠山七人衆であった。重臣たちが合議で政治を運営すれば重臣間の政争は避けられるこれが重臣たちの答えだった。この畠山七人衆体制が出来たことにより、義続の大名権力は著しく低下し、大名としては傀儡化されたと言える。こうして、一見重臣間の争いは回避さえたかに見えたが、そうはならなかった。能登の国政が実質的に七人衆主導で進められるという事は、それだけ重臣の意見に国政が左右されることになり、派閥争いを生む結果となった。その結果、重臣たちが各自加州の本願寺と交渉をもつようになるなど、重臣の力が大きくなり始めた頃であった(七人衆について詳しくは「七人衆と権力闘争」をご覧頂きたい)。
 入道した徳祐(義続)は、その年の暮れに嫡子・義綱は家督を早くも譲った。義綱の後見人となった徳祐(義続)は、当初大名権力を握りその政務を行っていたと考えられる。その徴証に、当主である義綱発給文書は1555(弘治元)年にならないと見られないことが挙げられる。それまで全面的に徳祐が政務を見ていたのであろう。また、東四柳氏は義綱の病弱性から徳祐の後見があったのではないかとも指摘している(「畠山義綱考」より)。その後義綱と徳祐は大名権力を回復するために、七人衆の分裂を図り、第二次七人衆に守護派の飯川光誠を起用するなどし、さらに温井総貞を暗殺し弘治の内乱を鎮圧することによって大名権力の回復に成功したのである。
 ちなみに、義続側近の政僧として安国寺留雲斎がいた。管領細川高国の子で畠山七人衆の使僧として本願寺と交渉した。


(古文書A)不動寺山王宮棟札銘(不動寺所蔵)
<『珠洲市史』資料編.139頁>
(表)山王奉上蓑 願主不動寺敬白
(裏)百文弥直(革力)院 五十文松之坊 五十文和かさ 五十文常
   定坊 千人講成就院
于時天文十五天十二午丙十二日治師順智
 百文親成尊五十文仁位公此年一国徳済(政)霜月十九日七時行候 
(表)は、札の表に記載されているものを示す
(裏)は、札の裏に記載されているものを示す
(革刀)はPCにて漢字が表記できなかったため、本来は一字

義続外交政策ちぇっく!
 義続の外交政策は見るべきものがかなり多い。まずは、越中・越後との外交関係である。長尾為景が没した1543(天文12)年、神保長職が神保家再興をかけて富山城を築城し、越中東の実力者椎名長常と抗争を開始した。混乱を恐れた河内畠山家の稙長は能登畠山家に両者の調停を依頼した。1544(天文13)年この調停は病気の義総に替わって嫡子・義続が行い、その結果長職の富山在城を認め抗争は終結した(注3)。ここに神保氏は能登畠山家の庇護を受けることになり、以後神保氏は能登畠山家の力を背景として実力を伸張・護持していくのである(注4)。能登畠山氏は越中に実力を行使できない河内畠山氏に代わって、守護代行としての立場にあった。この功績によって河内畠山家当主の稙長より河内畠山氏の家督相続の話が持ちあがる程、信頼を得たようだ(詳しくは北国の政治秩序「畠山体制」参照)。
 次に幕府・朝廷との外交について見ていこう。1546(天文15)年に将軍義晴が細川晴元の排斥を図るが、翌1547(天文16)年に六角定頼が将軍義藤(後の義輝)と父・義晴を裏切り細川氏側に付くと、摂津芥川城を攻め落とされた。危機を感じた将軍義晴は、同年7月に能登畠山氏、大友氏、大内氏、若狭武田氏に対して京都に参陣しての支援を求めた。結果的に翌月閏7月に細川と和睦をして帰洛したが、将軍家が能登畠山家を大内家などと並んで頼りにしていたことがうかがえる。一方の能登畠山家は将軍家からの御内書を受けて将軍・義輝に対し、無事近江に逃れたことを祝している(古文書B)。義続も従来からの幕府との良好な関係を築こうとした一端だと思われるが、京都へ動こうとした形跡はない。それは、同年翌月の閏7月に発生した押水の合戦によって、これ以降能登畠山家は内乱に見舞われたからである。その直後である同年8月。(古文書C)により足利義晴が押水の合戦の鎮圧を祝う御内書を発給している。幕府が細川氏と協調する六角氏との関係に悩んでいたので、六角氏と関係の深い能登畠山氏を頼りにしている事が推察される。
 最後に隣国加賀の本願寺との外交関係を見ていこう。意外かも知れないが、本願寺と畠山義続との関係はほとんどの時期で良好な関係にあった。というのも、前当主・畠山義総の時、加賀津幡の合戦でその後の本願寺主流派となった大一揆派に敵対した加州牢人となった小一揆派の人物達を能登に匿ったためである。そのためか、畠山義総に対抗していた畠山九郎を本願寺が支援するなど、能登畠山家と加賀本願寺との関係は最悪になっていた。一応1539(天文8)年に幕府を介して和睦するも、その後も本願寺は義総を能登国主と認めていなかったと言われる。しかし、松岡寺の娘「西向殿」を妻にもつ義続に対して、一向一揆勢力は丁重に取り扱った。義続も1546(天文15)年から本願寺に度々贈り物をしており、『天文日記』にはそれこそ義続の贈答品が枚挙にいとまがないほど記録されている。こういった本願寺・一向一揆に対する懐柔政策が押水の合戦の鎮圧に一役買っていたと思われる。すなわち、畠山九郎の乱の時とは違い、畠山駿河への合力は比較的限定されており、また畠山義続や六角氏などによる合力停止にも比較的素直に応じていることが挙げられる。こういった一向一揆への懐柔政策は越前・朝倉氏の一向一揆対策と正反対の政治外交方針であった(朝倉氏は一向一揆を敵視する政策であった)。ただ、この関係も天文20年代に崩れてくる。すなわち、畠山七人衆の台頭で家臣勢力が強まると、家臣が独自に一向一揆との接触を図るようになり、特に家臣の筆頭であった温井・三宅と一向一揆との関係が深まり、温井・三宅が弘治の内乱で畠山家に反乱を起こす時には、強力な支援者となってしまうのである。すなわち、義綱政権期には再び関係が悪化してしまうのであった。

 こうして義続の外交を見ていくと、幕府との関係でも本願寺との関係でも義続政権の安定していた初期(或いは義総政権の晩年)には積極的に外交政策を展開おり、それが実際うまく機能している。政権の後半の外交は下火になってしまうが、前半を見ていると、義続は外交よりも国内統制に失敗し、家中不慮(内乱)をまねていたといえる。

文書B・畠山義続書状(栗棘庵文書)
<『新修七尾市史』七尾城編P.174>
「(封書フワ書)栗棘庵 義続」
就公方様(足利義輝)被移御座候、急度注進祝着此事候、
相替儀候者、重而示給候、猶温井備中守(総貞)可申候、恐々謹言、
(天文十六年ヵ)七月廿八日 (畠山)義続(花押)
(東福寺) 栗棘庵
 
文書C・足利義晴御内書(写)
<2020年7月26日掲載北國新聞より>
当國及物◇之旨、其聞候條、無心許覚候
■、悉以□本意候由候、尤可然候、
猶晴光(大館晴光)可申候也、
 八月六日 義晴(足利義晴)
  畠山左衛門佐(畠山義続)とのへ
◇=総の字の糸編の無い字
■=PCで表記できない字(とらがしらの部首に、七と必という字)
□=私が新聞記事の漢字を判別出来なかった文字

義続出陣履歴ちぇっく!
 彼は七頭の乱時の当主として、大槻・一宮の合戦においては当主義綱に代わって総大将として出陣している。七頭の乱においては「七尾城落城」という大失態を犯してしまうが、もとより守護方には直轄軍が存在しないので(能登畠山氏の軍事組織にいける考察参照)その敗戦も仕方ないとも言える。その敗戦を契機にその後継者となる畠山義綱七尾城をさらに巨大化させていったとも言えるのではないか。 大槻・一宮の合戦においては、大槻(末広野)の決戦時に全面に出たが陣形に失敗して遊佐勢に大敗を喫し、民家の椿の茂みに隠れて危機を回避したとされている。しかし、本当にそのような失態はあったのであろうか。ともすれば、長家などの記録で永禄九年の政変における追放した理由作りの為の創作かもしれない。しかし、義続(徳祐)が当主の時期には重臣などの抗争によって内乱が頻発したことは確かである。

義続肖像画ちぇっく!
 近年、義続の肖像画かもしれない、と注目されている絵が2つある。
 1つは下の(絵A)で、長谷川信春作の「伝・武田信玄像」である。長年武田信玄と言えばこの像のイメージであったが、肖像画の人物が二引両の家紋の刀を差している。作者が能登出身である、という点で現在では肖像画の人物は「畠山義続説」が有力になっている(詳しくは「伝・武田信玄」の肖像画の真の像主を巡る動き参照)。
 2つ目は、長谷川信春が1568(永禄11)年に作った「法華経本尊曼荼羅図」(京都市・妙傅寺像)にある「悳祐・兆桂」という老齢の男女2人の信者の姿である。「悳祐」と言えば、義続の法名であり、近年これは義続夫妻ではないかと注目を浴びている(『新修七尾市史 通史編T(原始・古代・中世)』P.439より)。後考を待ちたい。

むすびに
 義総が死去し、義続が家督を継いで2年ほどは安定した政権運営であった。しかし、後半になると重臣の争乱・権力闘争で国内は甚だ混乱した。これは義総の実力に比して義続の実力が無かったというより、義総政権下で抑圧されたのが家督相続の折に反動として行動に現れたものであろう。畠山家は直轄軍を持たず大名権力基盤が弱かった為、家臣との関係をうまく調整する能力が大名にないと、下剋上の気運になりやすいとも言える。大名権力を強化しつつ重臣との密接な関係を保って戦国大名化を遂げる。この矛盾したテーマは義続・義綱父子の時代に顕著に現れた難題であった。

義綱公式見解「北陸の政情不安に飲み込まれた不運な大名。」

☆武将採点表(10段階評価、10がMAX)
畠山義続 点数 評価
先見力 外交政策はうまく機能していた。先を見る力はかなりのものであった。
情報力 総貞・続光の権力闘争にうまく対処できなかった。
人望 偉大な父の陰にかくれてなかなか評価されない悩みを抱えていた。
経済力 内乱が頻発し、国内も疲弊してしまった。
政治力 徳政の発令や外交政策の展開の成功の反面、重臣の統制に失敗した。
軍事力 重臣の権力闘争により、非常に不安定な立場に立たされた。

☆参考資料(義続花押)
畠山義続花押
↑義続花押

(絵A)長谷川信春作「伝・武田信玄図」(成慶院蔵)
伝・武田信玄像

(注釈)
(注1)阿部浩一『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館.2000年
(注2)当時は支配者の交代により、色々な社会関係が改められると信じられていた。「代替りの一揆」とは、その考えに拠って借金も支配者の交代により改められると起こした一揆である。
(注3)神保・椎名両氏は義続の調停によって和睦したものの、椎名から独立していった土肥氏、反神保を貫いた斎藤氏、神保氏に加担した鞍河氏らの越中国人による争いは続いた。
(注4)1562(永禄5)年神保長職が長尾景虎に攻められ窮地に立った時は、畠山義綱の調停を請うているし、永禄九年の政変で義綱が追放されると、長職は神保氏の政治的安定のため、積極的に能登御入国の乱に関与し、義綱の国政復帰に助力する。これらは、1544(天文13)年以降能登畠山家を神保氏が自らの後ろ盾として重要視した結果であろう。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会.1968年
坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年
(共著)『戦国大名系譜人名事典」新人物往来社.1986年
(共著)『北陸社会の歴史的展開』桂書房.1992年
田中政行「畠山義続に関するニ、三の問題(上)」『七尾の地方史』11号.1974年
田中政行「畠山義続に関するニ、三の問題(中編)」『七尾の地方史』12号.1975年
田中政行「畠山義続に関するニ、三の問題(下)其の一」『七尾の地方史』14号.1978年
田中政行「畠山義続に関するニ、三の問題(下)其のニ」『七尾の地方史』15号.1980年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
(共著)『新修七尾市史 通史編T(原始・古代・中世)』七尾市,2011年
etc・・・・

BACK

人物特集の目次へ戻る


Copyright:2020 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama