畠山家人物年齢考

義続・義綱・義慶・義隆・春王丸の年齢考察

能登畠山家の歴代当主はそのほとんどの生年が明かにされておらず、その年齢を推定するのは難しい。
しかし、僅かな資料から、筆者が能登畠山家の晩年の当主の年齢をさぐってみた。

はじめに
 この年齢考今までの資料から畠山家の人物の年齢を推定しようというものである。作者独自の判断で推定したものであるから、これが結論ではなく、あくまで私個人の推定であることをまずご了承いただきたい。

(1)推定の材料。義綱の年齢考
 能登畠山の史料には直接年齢を示したものはない。ここで参考にしたいのが、弟・義春(上条政繁)の生年(1545年)である。つまり弟・義春が生まれた1545(天文14)年以前ということはありえないし、両者とも義続の嫡子とすると、普通に考えれば義綱の生年は1544年以前となる。もうひとつ年齢を判断する材料となるのが、義綱のもうひとりの弟である閑嘯軒の存在である。彼と義春との兄弟の順序はわかっていないから、義綱の義春の間は多めにとって仮に10年と考えるとする。すると、義綱の生年は1535(天文4)年ということになる。
 仮の生年で計算すると、1552(天文21)年家督を継承した年が17歳となる。1555(弘治元)年に専制支配を確立するのが20歳。永禄九年の政変で追放される1566(永禄9)年に31歳。1593(文禄2)年に死去した年齢が58歳となる。死亡時の年齢58歳という歳も当時「人間五十年」という寿命を考えると、仮説に説得力がでる。また、家督相続から3年後の1555(弘治元)年頃から弘治の内乱の戦功にたいする感謝状など義綱が直接発行している事から、この当時ある程度の少年あるいは青年になっていたと考えられ、当時20歳という仮説のさらなる補強ともなる。
 また、義綱は1552(天文21)年に家督相続した時に「幼少ゆえ義続が後見人となった」とも言われている。この後見人義続がついた理由が何を根拠にしたものかわからないので、簡単に信を置くわけにはいかないが、幼少といえば、6歳くらいから元服するまでと考えると14歳くらいまでであろうか。17歳で家督を継いだとすれば若干幼少の定義から外れる。しかし、後述もするが、義綱の嫡子・義慶の存在を考えると義綱の生年の範囲の上限は1535(天文4)年くらいであろうか。また弟・義春の生年が1545(天文14)年なので、義綱の生年が少なくともその一年前となると、義綱の生年の下限は1544(天文13)年となる。つまり義綱の生年の範囲は1535(天文4)年〜1544(天文13)年頃と推定できようか。
 このような仮説が成り立つ場合、片岡樹裏人氏が『七尾城の歴史』において推測した1552(天文21)年、義綱家督相続した時に31歳説は否定されるものとなる(注1)。さらに、加藤秀幸氏が「武家肖像画の真の像主確定への諸問題(上)」(『美術研究』345号、1989年)において推測する1555(弘治元)年に義綱10歳との見方もを否定されるものとなる。

仮説<義綱(1535〜1593)享年58歳>

次ぎに義綱のこの仮説を補強する為、子ども達の年齢を推考する。

(2)義慶の年齢考
 まず、義綱の結婚から考える、近江六角氏の史料『江源武鑑』に拠ると、六角義賢の娘が義綱へ輿入れするのは、1555(弘治元)という。温井紹春(総貞)を粛清し弘治の内乱が起きた年に輿入れができるだろうか。輿入れも先延ばしになりそうなものだと思う。とすると実際の輿入れを2年前の1553(天文22)年としてみる。義綱18歳での結婚となる。片岡樹裏人氏の『七尾城の歴史』によると「この頃の城主、武将等の結婚は早く、したがって、子の出生も早い。義続、義綱父子の年齢差を19才位と仮定すれば」とある。義綱は義続の嫡男であるから、この考え方を義綱の嫡男義慶に当てはめ、義綱の仮説年齢から父子の年齢差を19歳と仮定すると、義慶の誕生年は1554(天文23)年となる。つまり輿入れ想定の1年後となり年齢的にも合致する。祖父(義続)・父(義綱)が追放されて家督を継承する1566(永禄9)年に義慶12才となる(注2)
 様々な資料で義慶は幼少にして家督を継いだという記述がみられる。前述のように幼少の定義を仮定すると、12歳という年齢は当てはまる。また、『加能史料 戦国15』によると、義慶の元服が1572(元亀3)年とすると、義慶の年齢は18歳となる。元服する年齢としてはちょっと遅いであろうか。この仮定では義慶が暗殺される1576(天正4)年には22歳となる。
 傀儡当主として祭り上げられたとすると、当主が元服しないほうが操りやすいので、遅めの元服はありえる。さらに、1576(天正4)年、義慶の自我が発達し傀儡化にそぐわなくなった22歳の義慶を、重臣達が暗殺したと考えれば仮説の年齢の妥当性もあろう。

仮説<義慶(1554〜1576)享年22歳>

(3)義隆の年齢考
 義隆は義慶の弟で義綱の実子であるから、義慶との年齢差を約2歳と仮定する。そうなると義隆の誕生年は1556(弘治2)年となる。しかし、義慶政権時、義隆は補佐に就いていた事とも言われる。これについては、畠山義隆特集を参照してほしいが、義隆は「庶子」の可能性も考えられるので、生没年は簡単には割り出せそうにない。(ひょっとすると義慶の庶兄の可能性もあるので、生年が義慶を逆転することも考えられるからである。)

仮説<義隆(生没年不詳)>

(4)春王丸の年齢考
 春王丸は義隆の嫡男とされる。家督継承時の年齢について2歳説と5歳説が見受けられるが、現在では2歳説の方がより多くの書物で見受けられるように思える。そうすると誕生年は1575(天正3)年となる。その時、父義隆が19歳であるからやはり義隆の実子で2歳説が正しいように思われる。

仮説<春王丸(1575〜1577)享年3歳>

(5)義続の年齢考
 父子の年齢差を19歳と仮定した場合、義続の年齢は義綱の仮定年齢から誕生年が1517(永正14)年となる。この時、父義総は26歳である。義総の嫡男は義繁であり早死。側室などの関係も考えるとこの年齢は、ほぼ当たっていると考える。また、家督を相続した1545(天文14)年に28歳となり、若当主が家中をまとめられず押水の合戦七頭の乱等が起ったと考えると妙に納得がいく気がする。仮説では1552(天文21)年に35歳で隠居し入道する。1566(永禄9)年、49歳で能登を追放される。仮説通りで考えると、35歳というかなり若い年齢で入道した事となる(注4)
 この説を補強する事実がある。1526(大永6)年5月25日に、義総は冷泉為和を七尾城に招請し和歌会を催している。その時義総は、その発句を為和に対して義総の次男に代わって発句を読むよう命じている(米原正義「能登畠山氏の文芸(下)」『国学院雑誌』1965年2・3月号、75頁)。これは義総が幼い次男(=義続)を義総が義続を風流の士に育てようと考えての措置であろう。この時仮定年齢に従えば義続9歳。やはり発句を読むには無理があろう。これもこの仮説を補強する重要な事実である。発句も元服する年齢である14歳くらいであればできるであろうし、そのことから考えると、1526年−14歳=1512年以前の生年は不自然であるようにも思える。以上のことをまとめると、義続の生年は1512(永正9)年〜1517(永正14)年の範囲ではなかろうか。ここでは、兄弟の年齢も考えて生年の下限である1517(永正14)年と仮に設定しておく。

仮説<義続(1517〜1590)享年73歳>

むすびに
 以上、筆者なりに晩年の能登畠山家当主の年齢を推定してみたが、結局断定できるような結論には至らなかった。だが、畠山家晩年の人物たちの年齢をおおよその生年を推測し、「義綱仮説」ということで推定することができたことは、畠山人物年齢考における多少の前進であると思う。能登畠山家の当主年齢推定は、現在「伝・武田信玄」の肖像画が能登畠山氏の当主である可能性(詳しくは武田信玄の肖像画の真の像主を巡る動き参照)から、藤本正行氏や加藤秀幸氏らによって行われている。真の像主確定のためにも畠山家の人物の年齢が明らかにされ、問題解決に進展あるよう願うばかりである。

(注釈)
(注1)また、片岡氏の年齢推定が誤りである事は、藤本正行氏が「武田信玄の肖像-成慶院本への疑問-」(『月刊百科』308号,1988年より)で示された。それによると、片岡氏は畠山義春の没年・寛永20年を寛永2年と間違えて逆算してしまったとしている。
(注2)ただし、義慶は家督を継承した1566(永禄9)年段階ではまだ元服していない。
(注3)元服する年齢が18歳というのは当時としては少し遅いということも考えられるので、義慶の誕生年を2・3年遅く考えてもいいかもしれない。
(注4)逆に考えれば、35歳というかなり若い年齢で入道しているが、これ以上生年を遅らせることはできないとも考えられる。

参考文献
加藤秀幸「武家肖像画の真の像主確定への諸問題(上)」『美術研究』345号、1989年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会、1968年
藤本正行「武田信玄の肖像-成慶院本への疑問-」『月刊百科』308号、1988年
藤本正行『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、2000年

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