畠山義続軍VS遊佐・温井軍
七頭方 | 守護方 | |
勝敗 | WIN | LOSE |
兵力 | 三千人程度? | 一千人程度 |
主力 | 遊佐続光 温井総貞 遊佐信濃守(後の宗円) 伊丹総堅 平総知 三宅総広 長続連 温井光宗? 鞍川清房→戦死 鞍川清経→戦死 平重冬 |
飯川光誠? 三宅某(2人)→切腹 神保九郎右衛門尉→切腹 河野弟2人→切腹 得田兵庫 仁岸宗心→戦死 |
●経過
「本成寺 菩提心院」 孫次郎(斉藤孫次郎利家ヵ)より状当来候へ共、(中略) 歸國已来無覚束過行候之處ニ、使僧太義二被越候、其許様躰承候而、満足之至候、 一、當寺少納言殿能州へ訴訟候て、九月始此ニ迎船来、愚老も大義して仕立候て、則御屋形(畠山義続)江出仕、親父本地之内、百計之所被賜候て、勸持(日導)も覚子も大慶、及来春者、寺建立之企相半ニ、候處ニ、能登國二ニ破候て、屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐(続光)・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱候、彼少納ハ何手へ被成候も未相聞候、陸地ハ寺嶋と倉(鞍)河を取合にて、鳥も不通候、水路ハ時分柄之義にて候間、使節往覆不涯候、知存を遣候へ共、半途より還候、旦方より飛脚被越候、四、五日も過候者、いかなり共可来候哉、(中略)恐々謹言
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悳祐(花押) 能登国鳳至郡諸岳村之事、為ニ悳胤(義総)搭頭領一所レ被ニ寄進一也、永可レ被ニ全知行一候、仍執達如レ件 天文廿年五月廿三日
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(天文二十年一月年)八日、 一、能登左衛門佐(畠山義続)へ以返状、旧冬日付、為返太刀三貫之也、・馬代廿貫 遣之、使亀源寺へ渡遣之、以円山也、返語にハ先度自金吾(義綱ヵ)書状并少弼(六角定頼) 内輪之不慮出来候、就其被官輩加州可引入之由風聞候間、堅可相押之由承候条、加州へ 内輪之儀共間、相溝左右方へ不可令合力之由、堅固ニ申下候処、又可預合力之由承候、 最前之筋目相違之儀難申付候、殊更合力等事者停止候之条、得其意可有宣説之由旨申 出了、一、亀源寺へ為返、織色一端・引合出之 |
恩簡令披覧候、仍其方既御籠城之由、千万無御心元候、先度 加州之儀示預候間、即人数等不可相立之旨堅申付候、委細先日 御報令申候き、然而只今承候之趣最前示下之通相達候間御分別 可為祝着候、更非疎意候、恐々 十六日出之 (天文十九年ヵ)十一月十三日 (畠山義続)左衛門佐殿御返報 |
★ちぇっくぽいんと★
「長家家譜などが伝える『石塚の合戦』についての基礎的考察」
はじめに
『越登賀三州史』には、遊佐続光が国政を欲しいままにし、それと対立する長続連等を討伐しようと、続光が越中鞍川氏を率いて1543(天文12)年に挙兵したとある。また、『長氏由来記(抄録)』にも1543(天文12)年に続光の挙兵したとの記述がある。しかし、現在では多くの資料で「石塚の合戦」を見かけることはない。しかし現在になって「石塚の合戦」肯定論が出てきた。それは、この合戦を天文19年に起こった内乱と比定しているからだ。それでは現在「石塚の合戦」がどういう風に解釈されているかを列挙する事にしたい。
歴史家は「石塚の合戦」をどうみているか?
(1)日置謙氏
大正時代に活躍し、1927(昭和2)年に『改訂石川県史』を書き上げた日置氏は、同書において資料的根拠の弱さから「抹殺すべきもの」とみている。
(2)片岡樹裏人氏
1968(昭和43)年の著書『七尾城の歴史』において「石塚の合戦」の地理的考察を交えて展開されている。しかし、「究極的には、まだ疑問の余地があり、断定出来る程の確証はない」と評されている。
(3)東四柳史明氏
能登の中世史の第一人者である東四柳氏は著書「畠山義綱考」(『国史学』88号、1972年)では、押水の合戦において加賀門徒の協力や温井総貞の隠居などが見られるため『長気家譜』等が伝える「石塚の合戦」は押水の合戦を後世に誤伝されたものではないかと私見を述べた上で、「後世に多くの伝承をもつ此の合戦が、全く架空だとは思い難いものがある。」とも述べている。
(4)橋本芳雄氏
「室町中期氷見の豪族鞍川氏」(『富山史壇』78号)において、氷見の国人鞍川父子が1550(天文19)年に能登の内乱に巻き込まれて戦死したとの記述から、「石塚の合戦」を能登で義続が篭城したとされる内乱に比定している。
(5)坂下喜久次氏
2005(平成17)年の著作である『七尾城と小丸山城』(P.424北國新聞社出版局)において「此の事件は世情遊佐続光の叛乱とされているが、もっと複雑な要因が重なり予期しない展開をみせたようである。」と指摘している。
(6)川名俊氏
「戦国期能登畠山氏と本願寺・一向一揆」(『地方史研究』402号、2019年)において、この内乱を「七頭の乱」と呼称し、従来からの畠山義続・温井総貞対遊佐続光という構図から、畠山義続対七党(遊佐続光・温井総貞・長続連・三宅総広・平総知・伊丹続堅・遊佐宗円ヵ)という対立構図で起こった乱としている。その根拠はおそらく「本成寺文書」にある。「能登國二ニ破候て、屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐(続光)・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱候、彼少納ハ何手へ被成候も未相聞候、陸地ハ寺嶋と倉(鞍)河を取合にて」(古文書Aより)、と言うところより、越中より来た鞍川氏をもってこれを1550(天文19)年に起きた「七頭の乱」とし、その原因を「屋形をハ子城へ逐のほせ、遊佐(続光)・温井(総貞)大将と仕候て、七頭して取巻、只今乃大乱」としている。つまり、遊佐と温井を中心とする七頭が当主を本城(七尾城)から子城へ追放し、七頭がそのまま「畠山七人衆」となったということだろう。
まとめに代えて
確かに、「石塚の合戦」が記載通り1543(天文12)年に起こったとするにはいくつもの疑問がある。7代当主義総が健在でありその地位が揺るいでいないこの年に謀反が起こるのは考えにくい。また、義総存命中にも関わらず義総の話が出てこないというのも少しおかしい気がする。従ってこの「石塚の合戦」は1543(天文12)年には無かったと断定できる。一方で、今まで1550(天文19)年の内乱は、七尾城まで及んだかなりの規模の軍事抗争にまで発展したにも関わらず、史料があまり見られなかった。しかし、この「本成寺文書」
(古文書A)や『天文日記』などの当時の史料とこの「石塚の合戦」を比べていくといかに共通点が多いかわかる。よって長家関連の資料である「石塚の合戦」は、誤記などを含めてその引用を慎重にしなければならないが、「石塚の合戦」を1550(天文19)年の内乱に比定したい。そこで私は畠山家当主義続が篭城する程の事態となったこの内乱を、従来の「石塚の合戦」と区別するため「能登天文の内乱」と呼称していたが、川名氏が(6)の前掲論文において(古文書A)より「七頭の乱」2019年にと呼称していたことに合わせていくこととした。また、以前遊佐きむち氏がホームページ上(現在遊佐きむち氏のホームページ「能登のぉと」は閉鎖中)で「石塚の合戦」は長続連が家中での台頭を始めたきっかけといわれたが、時代がずれたことで長続連の台頭も遅れたことになり、長氏の畠山家中で頭角をあらわす時期はかなり後になってからだということもわかる。
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