畠山義総特集

畠山義総イメージ
↑畠山義総イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 義総<はたけやま よしふさ>(1491〜1545)
 幼名次郎。能登守護・七尾城主。1517年に左衛門佐、1535年8月に修理大夫。1536年に入道して徳胤。法名は興臨院殿伝翁徳胤大禅定門。畠山慶致の次男。 1506年の義元・慶致の和解で早くから後継者と認められ安定した基盤を築く、文芸にも熱心で、外交に長ける。ゆえに能登畠山家は1515年〜1545年までの30年間、義総の治世の下安定した発展を遂げ、七尾の文化的土壌を形成した。その義総も1545(天文14)年7月12日死去した。京都の興臨院は義総の創設で菩提寺となっている。

義総支配体制ちぇっく!


守護−守護代体制
実力者:畠山義総、遊佐秀盛[守護代:1515-1521頃]、遊佐秀頼[守護代:1532-1545]

能登畠山家の基本である守護−守護代体制を継承した。しかし、守護代は遊佐嫡家である美作家(遊佐総光)を登用せず、豊後守の家柄の庶流のものを登用した。これは、義総の遊佐氏牽制の動きの一環であろう。


義総政治活動ちぇっく!
 義総は1515年に畠山義元が病に伏したのを受けて家督を相続した(義総は慶致の息子だが、義元の猶子となって後継者となった理由は明応九年の政変参照)。義総は、家督を継ぐ以前の段階から永正の乱を調停したり、病床に伏していた義元を補佐して代理を務めていたこと、また1513(永正10)年には御相伴衆に列していた事等で、その政務は注目されていた。
 義総は能登畠山氏の基盤強化の為、興徳寺に禁制を掲げ同寺を奥能登の拠点としたり、領国経営に腐心している。その一方で、義総政権の晩年の1537年には、慶致の嫡男だが庶流の畠山九郎を中心として、その兄弟である勝禅寺・駿河が、加賀一向一揆の支援を得て反乱を起こしている。この乱をどうみるかは、まだ評価の確定していることではないが、一族の者でも権力を削って、大名専制強化を狙ったということが伺える。
 この義総の安定した30年間の治世は、領国下の七尾は小京都とも呼べるほどの繁栄をもたらした。その繁栄ぶりは彭叔守仙の「独楽亭記」に記されている(詳細は七尾城下町の発展参照)。また、羽咋郡宝達金山の開発に努めたり、能登国分寺を保護したりなど積極的な領国政策を展開している時期でもあった。

義総外交政策ちぇっく!
 義総は家督継承以前まで京都に在住していて、御相伴衆に列するなど地位も高かった。幕府とは非常に好意的な外交姿勢を保って能登畠山氏の威信の維持に努めている。その徴証に、将軍足利義晴に積極的に贈答品を送っている文書等が多数残っている(文書A参照)。幕府内談衆で能登畠山氏の幕府申次を担当していたのが大館常興だったが、このような幕府の大名別申次は、「大名と将軍をとの間を機械的に仲介していたのではなく、担当大名の利益をはかるべく幕府内で様々な「ロビー活動」も展開していた。」(木下昌規編『足利義晴』戎光祥出版、P208より)と言われる。そのため、大館常興の仲介で、義総は管領に準ずる地位となる「道服」の着用免許を受けていた。特に1536(天文5)年の対幕府交渉が多く見られるが、この年に義続の元服・官位獲得などがあったがゆえのことであろう。幕府と懇意にしていた理由は、畠山九郎や畠山駿河などが義総に対して能登加賀国境あたりで反乱を起こして本願寺と連携する動きをみせていたので、幕府の権威をもって合力を止めようとしたのが原因であると考えられる。

(A)御内書案
旧冬四品礼太刀一腰・馬一匹・青銅千疋到来、日出候。尚常興可申候也。
(天文五年) (足利 義晴)
 三月十八日 在判
  畠山修理大夫入道どのへ

 しかし、義総は幕府とは懇意な関係を築いていたが、朝廷との関係は左衛門佐や修理大夫の官途を得ているにも関わらず、それ程重視していなかったようである。1535(天文4)年に義総が能登畠山家の極官(家の最高の官途)である修理大夫の官途を欲せんと、内奏に「樽代」10貫をもって申請した。これは、献上金が少なすぎるという理由でで却下された。当時の修理大夫の相場は、少なくとも3倍であった。また、1540(天文9)年に朝廷が御所の修理代を諸大名に求めて幕府が諸大名に命じると、義総は幕府に対して、「かねて義晴が諸大名に触れてあった第六代義教将軍百年忌の仏銭五十貫は納めるが、禁裏修理料は勘弁してくれ」(注1)と言っていることからも、朝廷を軽く見ているのがわかる。下の(図1)に義総が朝廷・幕府に進上したカネ・モノの一覧を示したが、これらをみるとき、いかに義総が幕府に対して重点を置いていたのかがわかるであろう。1539(天文8)年に三好範長入京により騒動が発生すると、将軍・足利義晴は義総に支援を求めている。それに対し義総も細川晴元の京都退京を案ずる文書を幕府に送ったり、1541(天文10)年に将軍足利義晴が坂本に動座するなど不安定な幕府に対し、銭を進上したり、帰洛に対して太刀を献上するなど、常に幕府側にたった姿勢をとっている。その甲斐あって、1542(天文12)年には道服(注2)の着用が幕府から許可されるなど、幕府からも厚遇を受けたようである。

 諸大名との外交としては、足利義晴擁立派の近江六角定頼と婚姻関係を結んでいる。即ち、義総の娘を六角義賢の正妻・後妻にしているのである(後に彼女は義賢の跡を継ぐ義治を産む)。この婚姻関係は、中央政界とのパイプを太くするのと同時に、六角を通じて本願寺と和睦し、能登一向一揆の沈静化に腐心した。これは効を奏し、亨禄の錯乱(1531年)以来、険悪な関係にあった一向一揆と関係改善することが出来た。また、後述するが、1520(天文17)年の両越能三国同盟にて、北陸の政情を安定化させるなど、義総の外交には目を見張るものがある。

(図1)義総の朝廷幕府への進上物一覧表
年代 宛先 内容
1526(大永6) 朝廷 後柏原天皇の崩御と朝廷の窮乏につき金子壱千疋を献上。
1527(大永7) 幕府 江州移座につき、室町家(将軍家)に十万疋贈る。
幕府 種々馳走により、将軍より太刀・刀を下賜される。
1528(大永8) 朝廷 後柏原天皇三周忌に金子壱千疋を贈る。
1531(享禄4) 幕府 隼を献上し、将軍より太刀を下賜される。
1534(天文3) 朝廷 「能登のしゅご(義総)びぶつ(美物)色々上申」
幕府 畠山治部大輔(少輔ヵ)、将軍家の坂本渡海で太刀・馬を献上。
1535(天文4) 幕府? 「義総、白鳥一、塩引五、背腸五、十種進上」
幕府? 「義総修理大夫口宣により御礼千疋進上す。義総同時四品と為る。」
1536(天文5) 幕府 義晴の落髪について、太刀・馬・青銅を献上する。
幕府 義総が菊憧丸(後の義輝)誕生の祝儀として太刀一、馬一疋を贈る。
幕府 義総が、四品口宣加判の御礼で太刀・青銅三千疋を献上する。
幕府 年始の礼として次郎(義続)が太刀・馬を献上する。
幕府 義続に御字の礼として太刀・馬を献上し、太刀を下賜される。
幕府 義続に官途の礼として太刀・馬を献上する。
幕府 義総が年始の礼として太刀・白鳥・海鼠腸を献上する。
幕府 菊憧丸誕生の祝儀として畠山小次郎が太刀・馬を献上する。
幕府? 「義総、びぶつ(美物)五色、壱千疋を進上す。」
1537(天文6) 幕府 将軍へ年始の祝儀として、太刀一腰、白鳥、海鼠腸を贈る。
1538(天文7) 朝廷 「義総、禁裏に、美物を進上する。」
幕府 「背腸・鯖子各五十桶致進上」」
幕府 将軍へ年始の祝儀として、太刀一腰、白鳥一、海鼠腸百桶を贈る
1539(天文8) 朝廷 「義総、禁裏に、美物を進上する。」
幕府 将軍へ年始の祝儀として、太刀一腰、白鳥、海鼠腸を贈る。
幕府 将軍へ八遡御礼として、太刀一腰持、青銅五千疋を贈る。
1540(天文9) 幕府 「第六代足利義教将軍百年忌」仏銭五十貫を進納する。
朝廷 「禁裏御修理代」の要請は「整え難し」と拒否する。
朝廷 「義総、禁裏に、美物を進上する。」
幕府 将軍へ年始の祝儀として、太刀一腰、白鳥、海鼠腸を贈る。
1541(天文10) 朝廷 「義総、禁裏に、美物を進上する。」
幕府 幕府が義総に下賜する直綴等を仕立てて披露する。
幕府 幕府に八朔の礼として太刀を進上する。
幕府 幕府に背腸・鯖子を進上する。
幕府 坂本へ動座した足利義晴の安否を憂慮し銭を進上する。
1542(天文11) 朝廷 幕府の命により、義総が禁裏陣座造営の要脚を進納する。
幕府 将軍帰洛の礼として義総・二本松が太刀を進上する。
幕府 幕府が義総に道服の着用を許可される
朝廷 禁裏に塩引等を進上する。
1543(天文12) 朝廷 「義総、禁裏に、美物を進上する。」

義総出陣履歴ちぇっく!
 義総政権時代の最大の合戦と言えば、やはり越中永正の乱である。これは、1519(永正16)年、越中の守護である畠山宗家の尚順が、その命に従わない神保慶宗を征伐する為に起こした合戦である。1519年の段階では総大将は尚順の猶子となっていた勝王であり、越後の守護代・長尾為景の援軍を借りて越中に攻め込んだ。当然同族の能登畠山家にも出陣要請があったが、義総があまり乗り気でなかったことなどが災いして、能登畠山軍の敗北をきっかけに敗退してしまった。そこで、翌年に尚順は神保慶明を代理として予め能登畠山家に出陣要請をして、義総を長とする体制を整え、再び畠山・長尾連合軍は越中に攻め込み神保慶宗を滅ぼした。この戦いによって、両越能三国同盟が成立し、北陸の政情は安定を見たのである。事後処理の巧みさも義総の技量の高さが伺える。
 しかし、基本的に義総は、合戦を起こすと言うより、事前に争いを回避する人物であったと思う。永正の内乱(1514-1516)や1538(天文7)年に起こった畠山九郎の内乱などは基本的に交渉によって矛を収めている。義総の安定志向が垣間見える事象である。

義総文芸ちぇっく!
 義総は当代きっての文人大名で、その業績をあげればきりが無い程である。その一例を挙げれば、義総自身が曜変の蓋置、天目茶碗の「老茄」銘の茶入などを所持し、また公家の三条西実隆と懇意にしており「源氏物語」を譲り受け、さらに実隆の屋敷修造費一万疋を献上して「源氏物語」の註釈書等をもらうなどし、文学研究上価値の高い実隆著の「源氏物語」細流抄が完成し七尾へもたらされている。また、1528(応永8)年に後奈良天皇の三週聖忌に金子千疋を献上した功績から、天皇勅筆の和歌と名香・蘭闍待と定家卿筆の「伊勢物語」(いわゆる武田本)を賜った。義総時代、七尾城の城内書庫には三万棹の本が収められていたと言われるほどの膨大な蔵書の数があった。さらに、義総は書物の収集に限らず、古典研究をおこなったり、儒学の研究などを政治理念に活かしたりと、かなり先進的な学問研究もしていたようだ。
 その他にも歌道で有名な冷泉為広・為和父子が度々七尾へ下向するなど、文化招聘活動も盛んに行ったりした。七尾滞在期間は、為広が1517(永正14)年9月上旬から翌年5月頃までの滞在、為広・為和父子共に1526(大永6)年5月頃からの滞在(為広は同年7月23日に七尾でその生涯を終えている)、1541(天文10)年には為和が8月から同年9月末頃まで滞在したことが確認されている。さらに義総は、窮乏した公家・文化人等を七尾に迎え入れたりもして文化の育成に努めた(下記遊佐きむち氏のコンテンツ参照)。1525年に連歌で有名な能登永閑が七尾を訪れ、大規模な連歌の会が開かれている。義総自信も連歌を詠んで、その記録は「賦何人連歌」として残されている。

(B)「賦何人連歌」一部抜粋
月はまだきにはるる秋霧 義総
上記を含め義総は14句も詠んでいる。

 歌会は2代当主義忠の頃から頻繁に開かれていたが、義総の頃も盛んであったようで、1517年9月13日、16日に義総主催で歌会が催され、さらに同年10月16日からは、ほぼ毎月16日にの“月次歌会”が催されるようになったと言う(小葉田淳『史林談叢』臨川書店.1993年.2頁)。
 義総の高度な文化水準は当然、その家臣にも波及し(注2)、河内畠山氏から下向してきた茶人として有名な丸山梅雪等によって茶道・香道が、七尾の文化水準を著しく高めた。義総側近である半隠斎宗春や温井総貞等が文芸に関心を寄せ、義総の文芸が大名だけ出なくその家臣にも、さらに七尾シッケ地区によって、城下町に香炉が発見された事により、義総の文化事業は広く城下にも広がっていたことを示しているのである。その結果、画家として有名な、長谷川等伯(七尾出身)が誕生する土壌が築かれたのである。つまり、七尾は当時でも有数の文化水準の高い都市であったのである!
 義総の文芸水準の高さは京都でも広く知られていたようで、公家の近衛植家は自分が持っている「河海抄」に不安持ち、義総所蔵の証本と校合した。当主になって以降は上洛をすることの無かった義総であったが、その文化的業績は京都でも高く評価されていたようである。

(参考資料)
湯築城連歌の会
これは愛媛県松山市の湯築城跡に推定復元された武家屋敷の中である。武士や僧侶が連歌の会を開いている様子を再現したもので、右側の上座に座っているのが指導者である宗匠である。右側手前の武士が執筆となり採用された句を書きとめている。義総が行った連歌の会はもっと大規模であるがこのように画像になっているとイメージがつかみやすいので掲載をした。

義綱公式見解:義総は動乱の世の中を巧みに舵取り出来る人物

遊佐きむち守殿作成「畠山義総」のコンテンツへ

☆武将採点表(10段階評価、10がMAX)

畠山義総 点数 評価
先見力 本願寺や長尾らとの提携を画策し北陸の情勢の安定に努めた。歴代の守護代を解任し大名権力の強化に成功した。
情報力 10 中央政権とも太いパイプを持ち、北陸ではなはだ威勢があった。常に情報をみすえて政治を行なっていると考えられる。
人望 大名権力の強化に成功し、それに従う家臣も多かったが、反乱分子も幾らかいた。
経済力 七尾城下町は、かなりの繁栄をしていて、商業的魅力が能登に備わったのは義総の業績である。
政治力 10 中央との太いパイプから本願寺とも提携し、文芸を行政に生かすなど優れた当主であった。
戦力 守護大名的体制ゆえ、直轄軍をもたなかったと思われるが、自らの巧みな政策によって戦力を動かしていた。

☆参考資料

義総花押
↑義総花押

義総肖像画
↑義総肖像画<京都市 興臨院蔵>

宝達山
↑宝達駅から宝達山を臨む。
 義総が金山として開発しようとしたのがこの宝達山である。

(注釈)
(注1)今谷明『戦国大名と天皇』講談社学術文庫,2001年
(注2)道服とは、室町時代頃から公卿・大納言以上の人が内々で着た上着のこと。腰から下にひだがつく。袈裟(けさ)。僧衣のこと。
(注3)義総の家臣で冷泉為広・為和の門弟となったものが下の表(表A)の人物である。義総だけでなくその家臣まで広く文芸に関心を持っていた事を伺わせる。

(表A) 小葉田淳『史林談叢』臨川書店.1993年より
1517年冷泉為広下向にて際の門弟となった者 1541年冷泉為和下向にて際の門弟となった者
飯川半隠軒宗春 飯川新次郎光誠
後藤惣兵衛 遊佐大法師
後藤兵部丞 神保宗佐衛門尉総誠
温井藤五郎孝宗 伊丹八郎四郎
所口の常心院 神保与一
斎藤兵庫 温井千松丸
遊佐孫六 井上蔵人丞総英
平(越前と号)新太夫  
伊丹彦四郎  
成身院宗歓  
参考文献
今谷明『戦国大名と天皇』講談社文庫,2001年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城史刊行会,1968年
木下昌規編『足利義晴』戎光祥出版,2017年
米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社.1976年
(共著)『戦国大名系譜人名事典「西国編」』新人物往来社.1986年
東四柳史明「畠山義総考」『北陸史学』30号,1981年
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