丸山梅雪特集

丸山梅雪イメージ像
↑丸山梅雪イメージ像(畠山義綱画)

☆丸山 梅雪<まるやま ばいせつ>(生没年不詳)
 初め清三郎家長。河内畠山家に仕えていたが、1513年に能登に下向し、義元、義総に仕えた。文化的全盛にあった義総政権期で、茶の湯を好み名物「はく雲」の葉茶壷やさした香炉などを所持していたらしい。梅雪は禅宗であったが、妻が法華宗であったため法華宗に改宗したらしい。一説に1542年の正月1日に70才で死去と言われる。

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 梅雪においては様々諸説があり謎も多い。死没年月日も1542(天文11)年正月1日の他に、「法性院円岸覚山書伝之写」では、1558(永禄元)年正月1日としている。この「書伝之写」によると、梅雪の父は河内の遊佐氏で、遊佐加賀守の子六郎の従弟にあたるとされている。河内畠山家にいた頃の梅雪は、重病にかかってあまり奉公を出来なかったので、若いうちから入道して南窓軒梅雪と号した。近畿の兵乱で河内畠山家の力が衰えたため、梅雪の子・清三郎(豊前守)が2才の頃の1513(永正10)年に、能登畠山氏を頼って七尾へ下向した。
 能登では、重臣として登用され領内に千貫の所領を得て、七尾城内の館に住んだと言われる。また、梅雪が公用銭について関係する文書において畠山義総、半隠斎宗春、連歌師宗碩と肩を並べて三千疋を送っている。このことから「梅雪およびその子が、畠山義総治下にあって相当な地位にあったことが確かめられる。」と米原氏は指摘している(注1)。「書伝之写」によると、入道していた為、合戦の際は、軍役を余分に負担していたとされる。それだけ財力があったということであろう。

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 梅雪は、三条西実隆や武野紹鴎らと交流していた。実隆は当時一流の文化人で、梅雪が和歌を所望していた事や、「葉茶壷」や「さした香炉」などの所有を考えると、相当の教養があったことが伺える。また、能登畠山氏の当主・義総が書物などのやり取りをしていた三条西実隆と親しかったことが、梅雪との実隆の関係をより一層深く深くしたのではなかろうかと考えられる。
 梅雪文化の高さが具体的に伺える資料がある。それは、禅僧の彭叔守仙が書いた「猶如昨夢集」に出てくる「福也」という人物である。梅雪は「福人」とも名乗っていたので、「福也」とは「福さん」の意で梅雪の事であろうと米原氏は指摘している(注2)。彭叔は1540(天文9)年に能登に下向し、七尾山中腹の釣山軒を訪れ、福也と会話した。彭叔はその館の絶景と、出された御茶が絶品であること、和物・唐物・南蛮物などの茶器の道具の素晴らしさに驚いたと言う。実際、梅雪は名器「薄雲」を所持していた(注3)
 梅雪の茶は、その長男・氏吉等の子孫に伝えられ、その子が、千利休に他流試合等を挑んでいる。このことからも丸山家の文化水準がかなりの高さであったことを示す材料となる。

参考文献
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社,1986年
米原正義「戦国武士と茶湯-能州丸山梅雪のこと-」『日本歴史』318号,1974年
(共著)『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社,1981年
etc・・・・・

(注釈)
(注1)米原正義「戦国武士と茶湯-能州丸山梅雪のこと-」『日本歴史』318号,1974年より
(注2)米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社,1986年,84頁より
(注3)『加能越古文叢』「名物茶器目録」より

丸山(円山)梅雪に関する、小崎学円殿「円山梅雪」のHPへリンク!

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