↑七尾駅前長谷川等伯像
初名信春(しんしゅん)。戦国・安土桃山時代を彩る画家。狩野派と比しても優るとも劣らない長谷川派を築いた等伯。彼は能登七尾の出身で、能登在国時は「長谷川信春」という名で活動していた。彼は優秀な画家として数々の秀作を歴史に残した。その彼の才能は少なからず七尾の文化的土壌を受けていたように思われる。 |
(1)七尾に等伯生まれる
1539年等伯は、畠山家臣の長家の臣である(畠山氏にとっては陪臣)奥村家の文丞宗道の子として七尾に生まれた。幼名を又四郎という。幼頃、奥村家の縁のある七尾の染物屋・長谷川家に養子として出され、その頃から仏画を描く町絵師として徐々に有名になっていった。
当時の七尾は畠山義総が築いた七尾の文化的全盛の時代であった。彼は七尾にいる20歳代(1560年代)の頃から優れた作品を残している。また、その頃には長谷川信春と名乗っていた。等伯の能登に在国していたその頃の作品として以下のものがある。
作品名 | 所蔵 | 指定 | 制作年 |
「十二天図」 | 羽咋市正覚寺蔵(真言宗) | 石川県有形文化財指定 | 1564(永禄7)年制作 |
「日蓮聖人画像」 | 高岡市大法寺蔵(日蓮宗) | 国指定重要文化財 | 1564(永禄7)年制作 |
「釈迦・多宝仏図」 | 高岡市大法寺蔵(日蓮宗) | 国指定重要文化財 | 1564(永禄7)年制作 |
「鬼子母神・十羅刹女図」 | 高岡市大法寺蔵(日蓮宗) | 国指定重要文化財 | 1564(永禄7)年制作 |
「日蓮上人坐像」の彩色 | 七尾本延寺蔵 | 1564(永禄7)年制作 | |
「日蓮上人画像」 | 七尾市実相寺蔵(日蓮宗) | 七尾市指定文化財 | 1565(永禄8)年制作 |
「三十番神図」 | 高岡市大法寺蔵(日蓮宗) | 国指定重要文化財 | 1566(永禄9)年制作 |
「涅槃図」 | 羽咋市妙成寺蔵(日蓮宗) | 石川県有形文化財指定 | 1568(永禄11)年制作 |
「法華経本尊曼荼羅図」 | 京都市妙傅蔵 | 1569(永禄12)年制作 | |
「達磨図」 | 七尾市龍門寺蔵(曹洞宗) | 石川県有形文化財指定 | 室町末期〜桃山初期の作 |
「鬼子母神・十羅刹女図」 | 富山市妙伝寺蔵(日蓮宗) | 2003年発見される | 1571(元亀2)年制作 |
「熊木左近将監画像」 | 七尾市定林字蔵 | 不明(16世紀ヵ) | |
「畠山義親画像」 | 能登町萬福寺蔵 | 模写は1680(延宝8)年制作 | |
「愛宕権現図」 | 石川県七尾美術館蔵 | 不明(16世紀ヵ) | |
「海棠に雀図」 | 個人蔵 | 不明(16世紀ヵ) |
(2)七尾の政治的・文化的土壌
信春(等伯)が大成した要因の一つとして、生まれ育った七尾の文化的土壌があげられる。信春が生まれた頃の七尾は畠山義総の治世の下、小京都ともいわれるほどの繁栄があった(詳しくは都市としての「中世七尾都市圏」の発展参照)。また、多くの貴族、公家たちが七尾に下向したことで、七尾の文化は大変豊かであったと思われる。そういった状況の中で、信春の養父である長谷川宗清(道淨)も自ら絵を描いていたと言われ(注1)、七尾の文化的影響は大名や文人だけでなく、もっと広く伝わっていたことが伺われるのである。そして、それは信春にも影響し、自らを画壇へと進ませたのである。七尾の発展と言う文化的要素が、画家としての信春の才能を多いに引き出したのだろう。
それともう1つ、信春が大成した背景が能登の状況にある。それは、9代当主・畠山義綱の下による一時的(1560年-1566年)な平和の誕生である。1550年代(等伯10代)は、能登では権力争いが頻発し、幾度も内紛が起こった。なかでも1555(弘治元)年から起こり断続的に5年もの間続いた弘治の内乱では、長谷川氏が居住していたと思われる七尾まで戦禍が及んだ。また、当然等伯の実家である奥村家も戦争に駆り出されたでことであろう。この事は、信春の絵画の勉強にも悪影響を及ぼしたと思われる。自分の身の回りが安全でなければ、おちおち絵も描けないし、勉強もはかどらないであろう。しかし、信春は1560年代にあたる彼が20代の頃から優れた作品を残している。その時期はまさに、義綱の強力な大名専制支配の下、家臣間の争いが沈静化した時に当てはまるのである。つまり、「義綱専制期」という能登の平和時代に、七尾の経済力や文化が復興され、人々に文化を楽しむ余裕が生まれ、その間に信春(等伯)の才能が花開いたと言えるのである。
美術界や歴史界でも長谷川等伯と能登畠山氏の接点が少しずつあきらかになっている。石川県七尾美術館2023(令和5)年の企画展「能登畠山氏とゆかりの文化」のパンフレットによると、「十二天図」は「九代当主義綱が差配した気多神社(羽咋市)造営事業の一環として描かれた可能性が指摘される」とし、「法華経本尊曼荼羅図」内に描かれた「徳祐」という人物は、八代当主義続とする説がある。さらに、等伯の一級史料である『等伯画説』には等伯が「能州の屋形(能登畠山氏)が黙庵筆の『猿猴図』を所持していた」と述べ、その絵を実見していたとされ、能登畠山氏と直接会っていたと考えられる。
(3)上京そして長谷川派形成
1566(永禄9)年以降、権力削減を恐れた重臣達に義綱が追放された(永禄九年の政変)後の畠山家では、傀儡として擁立された君主・畠山義慶の下で、重臣達の権力争いが再び始まった。そして、元亀年間(1570-1571年)混乱を深める能登で、等伯の養父・長谷川宗清、ついで養母が亡くなった。それを契機としたのか信春は能登を発ち上京した。そして、信春は狩野派全盛の京都で狩野派に優るとも劣らない作品を生み出し、長谷川派をたてた。また、上京したのにあわせて名前を「信春」から「等伯」に改名したと言われている。上京後の主な作品としては日本の国宝に指定される「楓図」(京都 智積院蔵)や「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)などが挙げられる。さらに、この頃の等伯(信春)の友人として、千利休や本法寺住職日通上人らがいたことも、彼の才能に多大な影響を与えたことであろう。
また、等伯はかなりの野心家であったことが遠藤氏の論文において指摘されている(注1論文)。遠藤氏によると、晩年に徳川家康を近づこうとしたり、「天正十七年大徳寺三玄院に勝手に上がりこみ襖絵を書く。又、「雪舟五代」の呼称で雲谷派と争う。」などの行動が知られ、デモンストレーションの意味をもっていたとされている。等伯のこれらの行動は、後発の芸能家であるゆえの処世術であったと言えよう。
1604(慶長9)年、66歳で法橋の位につき、翌年画家の最高位「法眼」となる。1610(慶長15)年に徳川家康に招かれ江戸に赴くが、同年病死した。享年72歳であった。
(4)ひとつの推論
ここでひとつ、私の推論を提案したい。元亀年間の突然の上京の理由と、畠山家側の大徳寺(南派)に活躍を見出せず、むしろ朝倉家側の大徳寺(真珠庵・古渓)の中に多くの活躍を見出すことを一挙に解決する推論である。それは、「長谷川信春が畠山義綱と何らかの関係をもっていた」ということである。先に挙げたように、能登での信春(等伯)の活躍と、義綱政権期はほぼ重なる。さらに、義綱は文芸に造詣が深かったらしく、1566(永禄9)年に能登を追放された後、医道で著名な曲直瀬道三に医道伝授を受けている。この事から、義綱と信春の間に何か関係があってもおかしくはないと言える。さらに、実際に会って『猿猴図』を実見するほどの仲であり、さらに。「十二天図」を気多大社造営事業の一環として注文を受けていたのだとすれば、その画力を大いに買っていたと見える。
また、信春の元亀年間の上京は能登国内での義綱派の衰退の時期と一致する。すなわち、1568(永禄11)年に義綱の能登御入国の乱が失敗し、前守護義綱派と現守護義慶派(重臣達を中心とする)の対立関係において能登国内での潜在的義綱派が衰退し、「義綱亡命政府」(詳しくは「義綱亡命政府」の基礎的考察参照)からも佐脇綱盛らを始め、次々と義慶派へ離反する者が出た頃である。義綱の帰国の望みも薄くなり、諦めて上京したとも取れる。さらに、畠山家側の大徳寺(南派)での活躍が知られないのは、義慶派の畠山家を警戒した為とも言える。前述のように長谷川等伯(信春)は野心家であったことが知られ、20代でまさに画家として売りだし中であった頃、義綱をパトロン(注2)として活躍していたのではないかとも推測できる。等伯(信春)作の成慶院本の肖像画の被写体が畠山義続或いは畠山義総(注3)とすれば(詳しくは武田信玄の肖像画の真の像主を巡る動き参照)、信春と義続・義綱父子との関係もあったと結論でき、信春=義綱派説の補強となろう。
(注釈)
(注1)遠藤幸一「長谷川信春と能登(ニ)」『富山大学教育学部紀要』No.29.1981年
(注2)パトロンとは「芸術家や芸人などを経済的に援助する人。後援者。」の意である。
(注3)筆者(畠山義綱)は長谷川信春(等伯)が描いた成慶院本の肖像画は「義綱が長谷川信春に依頼して描かせた往年の畠山義総の姿である」(武田信玄の肖像画の真の像主を巡る動き参照)と推定した。
Copyright:2023 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama