「伝・武田信玄」の肖像画の真の像主を巡る動き

一般に武田信玄の肖像画とされた下の画。でも本当に信玄を描いたものなの?

伝・武田信玄
長谷川信春作「伝・武田信玄像」(成慶院所蔵)

はじめに
 上記肖像画は、成慶院本に載っている長谷川信春(等伯)が描いた肖像画である。この像主(被写体)は一般に「伝・武田信玄像」と言われているが、この肖像画の像主は本当に武田信玄像なのであろうか。実はこの肖像画の像主が誰であるかを論じる議論はかなり前からあったのである。例えば、私が参照している論文は1988年、1989年に発表されたもので、かれこれ10年以上から肖像画の真の像主確定の模索が続いているのである(注1)。にもかかわらず、ほとんどの人は未だに上記肖像画を「武田信玄」として認知しているのである。これはかなりの問題ではなかろうか。
 ただ、この真の像主確定問題は非常にデリケートな課題を含んでいる。それは武田信玄の地元である山梨の住民感情である。地元の英雄である武田信玄のイメージは、この像のように強いイメージでなければならないといった郷土史家の反論がある。本来はこのような感情に流されて歴史研究を妨げてはならないのであるが、郷土愛ゆえのことであれば多少慎重に事を進める必要がある。さらに言えば、美術史会ではまだまだ「像主は武田信玄である」という論の方が強いとも聞く。ということで、成慶院本の武田信玄像の真像主確定問題は、学問上では色々論じられても、一般レベルではまだまだ「研究・論議の余地がある」ということすら認知されていない状況である。ここでは、この問題を緻密に分析し最初に論文として発表した藤本正行氏と、同じく同問題に対して論文発表した加藤秀幸氏の論文に論拠して、今この肖像画にどのような問題が起こっているのかを論じていく。

(1)なぜ武田信玄像の像主が疑われているのか?
 まず、この成慶院本肖像画の被写体が持っている刀の家紋が問題として挙げられる。武田家の家紋は「四割菱」。それに、対してこの刀には「二引両」の家紋が書かれているのである。また、「武家肖像画の真の像主確定への諸問題(上)」の筆者・加藤秀幸氏は前掲書で武田の家紋である四割菱は「この二引両紋を居える小道具を描く画像には、全く見だすことは出来なかった。」としている。二引両は足利家の血筋を引く家紋であり畠山家もニ引両である。さらにこの像を描いたのが能登出身の画家・長谷川信春(等伯)であるので、能登畠山家の武将(当主)が真の像主ではないかという議論が出てくるのも当然である。次に疑問である点は、被写体の髪の毛が薄く、また髻(もとどり)入道前の髪の毛が残っているので入道した信玄を比例するには無理があるということである(藤本正行氏が指摘した)。この像には袋印が無いので詳細な作成年代の特定は出来ないが、作者が「信春」の号を使用しているので、長谷川信春時代の作品であることは間違い無いと言われている。となると少なくともこの作品は、長谷川信春が上京し「等伯」と名前を改める1572(元亀3)年以前に描いた作品であると言える(注2)。であれば、この肖像画像主は能登畠山家の人物像と考えるのが相応しいのではないだろうか。永禄年間の能登守護は畠山義綱であるが、肖像画に描かれた壮年の男性の風貌からして、永録年間に20代であったと推定される義綱(詳しく畠山家人物年齢考-義綱仮説-参照)に像主を比定するのは無理がある(注3)。となると、義綱を後見し、家中で実力を有していた前当主・畠山徳祐(義続)の像であるのではないかという推論に辿りついている。
 藤本正行氏は、従来から信春作の「伝名和長年画像」の像主は宮島氏が伊丹氏の家紋が見えるので信玄配下の伊丹康道とされていたが、氏の著書「武田信玄の肖像」において同作品の成立年に、信春が船大将位の身分の肖像画を描くか疑問とした上で、その像主を能登畠山氏家臣で重臣であった伊丹氏と比定した(注4)。これは、信春が畠山氏の像を書くと言う成慶院本の信玄肖像画がともすると能登畠山氏を描いた説の補強になるとしている。

★参考資料
伊丹氏の画像
(能登伊丹氏の像であるといわれる「伝名和長年像」東京国立博物館蔵)

(2)真の像主は義総?義続?
 『石川考古』246号では「これまで武田信玄の肖像画とされていたが、刀の紋章から畠山義総の肖像画であることが近年の研究で明らかになった。」としている。しかし、これには出典がなくなにに論拠したのかがわからない。長谷川信春の誕生年が1539年で畠山義総の没年が1545年であるから、もし義総生前に描いたとしたら信春6才の頃となる。いくらなんでもそれは無理であろう。すると、義総が没してから信春が義総を思い出しながら描いたことになるが、これも全く推論の域を出ない。むしろ、信春の誕生年と、彼の執筆活動時期を考える時、その肖像画の像主は義続であるとする方が自然である。だが、像主を義続とするにはひとつの問題点がある。それは、「髻」の問題である。永録年間に同肖像画が描かれたとすれば、1552年頃に出家したとされる義続に出家前の「髻」があっては不自然である。この点から、藤本正行氏は『鎧をまとう人々』(吉川弘文館,2000年)において「髻があることで信玄説を否定した私が、髻の存在を無視して義続説を主張」できない、と書いている。それゆえ、この肖像画が能登畠山氏の誰を像主としているか確定的な結論はまだ出ていないのである。

(3)武田信玄像の根拠を否定する
 信春の肖像画の像主が武田信玄であるとする論拠は、「成慶院宛勝頼書状」と『集古十種』古肖像部があるが、「武田信玄の肖像」の筆者・藤本正行氏によると、その文献的裏付けが無いと指摘している。それは、前者が成慶院に納めた「信玄公寿像」が信春作の肖像画に比定するとは必ずしも考えられないこと。後者についてはそもそも同書の成立年代・資料的価値から藤本氏はその存在を疑っている。また、藤本氏は信春が確実に能登での執筆活動を伝える時期=1568年から信玄が没する1573年までに、信春が信玄と接する文書的裏付けもなく、果たしてその機会があったのかを疑問視している。これらの事から、長谷川等伯と武田信玄は自然に考えればほとんど接点がないことになる。その反対に、信春は能登に居住し、しかも父は能登畠山氏の被官でもあったことから、信春が畠山氏と接する機会はあったと考える方が自然である。

(4)ひとつの推論
 ここに、「髻」の存在を解決する私のひとつの推論を述べる。それは、成慶院本の像主は「義綱が長谷川信春に依頼して描かせた往年の畠山義総の姿」だったのではないか、というものである。
 筆者は以前、畠山義綱は長谷川信春(等伯)のパトロン(後援者)であった可能性を指摘した(詳しくは人物特集長谷川等伯を参照)。また、義綱は祖父である畠山義総に「深い憧憬の念を抱いていた」(東四柳史明『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社,1986年,68頁)ので(注5)、義綱が義総の功績を称える為か、或いは自らが義総を目標とする為に、信春(等伯)に義総像を描かせたのではなかろうか。義総は享年54歳(1491-1545)で肖像画の年齢とも合致する。問題は髻であるが、義総は1536年に剃髪しているので、義綱が誕生して物心ついた頃にはすでに出家している事になる。しかし、上記のような理由で義綱が義総の肖像画を描かせたとすれば、勇猛な現役時代の義総を描かせたいと思うのは当然の事とも考えられ、肖像画の像主が50歳代の風貌で髻があるということも問題にならない。義総肖像画としては、興臨院(京都市)蔵の出家した義総像がある(興臨院蔵の義総像はここを参照)。この二つを比べると、成慶院本肖像画の方が表情が厳しく武家っぽく、興臨院肖像画は表情が優しい。これは現役武将か出家した後かという違いがある他に、義綱がその憧憬の念から「頼もしい義総像を描いてくれ」と要求したのかもしれない。しかし、以上は勝手な推論に推論を重ねたものであるので、全く見当をはずしているということも有り得るが、ひとつの私の仮説としてここに挙げる。
 しかし、美術史研究家から成慶院本の像は「迫真的な描写から見て、絵師が像主を実際に見て描いたものと考えられている」(注6)らしい。そうなると、この義綱が頼んで義総の往年の姿を描かせたというのも認められない。すると、義続の往年の姿を描かせたものか、あるいはそれ以外の畠山氏の人物を描かせたものかということになる。いずれにしろ現時点での像主確定は難しいも問題である。後考を待ちたい。

むすびに
 筆者は絵画を専門に研究しているわけではないので、絵に関しての専門的考察は困難である。だが、藤本正行氏の研究を始めとして「伝・武田信玄像」の像主が誰であるかという問題には様々な研究・議論があることは確かである。そして、最近では信春作成慶院本の肖像画像主は武田信玄ではなく、能登畠山氏の誰かであるということが、現実味を帯びてきたのである。しかし、この問題は信玄の地元=山梨(甲斐)での郷土愛感情を含むデリケートな問題であるので、問題を提起する各氏は慎重に物事を運んでいるのである。それゆえ、なかなか研究も進まず真の像主を確定するにはまだ時間を要するようである。
 ただ私が願うのは、信春作の肖像画の像主が武田信玄か能登畠山氏の誰かも確定しておらず、様々な研究・議論があることを認識して、歴史の書籍や教科書で肖像画像主=武田信玄と断定して読者に誤解を与えるような事はないようにしてもらいたい。また、読者にも惑わされないでもらいたい(筆者はこの肖像画を歴史教科書で武田信玄像として習った記憶がある…断定するにはまだ早い!)。

(注釈)
(注1)さらにもっと前の時代、1900(明治33)年にも沼田頼輔氏が真の像主について疑問を投げかけている。
(注2)「武家肖像画の真の像主確定への諸問題(上)」において加藤氏は、この成慶院本の肖像画が描かれた時期を信春が能登方面で盛んに執筆活動をした永禄年間であるのではないかと指摘している。
(注3)『鎧をまとう人々』(吉川弘文館,2000年)において藤本氏は「成慶院本の像主は、多くの人々から元亀四年に五十三歳で死んだ信玄の晩年姿と見られたくらいであるから、どう見ても二十八歳以前には見えない年齢的にふさわしいのは、義春の一時代前、すなわち父の義続あたりであろう。」と指摘している。
(注4)藤本正行氏は能登畠山氏の家臣伊丹氏を像主としているが、加藤秀幸氏は「家紋の表象性と武家の肖像」(『加能史料研究』19号,2007年)において、「伝名和長年像」の像主は「著名な富樫の住人馬術家の斎藤好玄」としている。
(注5)義綱が祖父義総に憧憬の念を抱いていた証拠として、義総が建立した京都興臨院を中興したり、義総の花押と酷似した花押を義綱が使用したことなどがあげられる。巧みに領国運営をして30年もの間安定した治世を築いた義総を義綱が目標としたのであろう。
(注6)藤本正行『武田信玄像の謎』吉川弘文館.2005年.163頁より

参考文献
加藤秀幸「武家肖像画の真の像主確定への諸問題(上)」『美術研究』345号.1989年
藤本正行「武田信玄の肖像-成慶院本への疑問-」『月刊百科』308号.1988年
藤本正行『鎧をまとう人々』吉川弘文館.2000年
藤本正行『武田信玄像の謎』吉川弘文館.2005年
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