都市としての「中世七尾都市圏」の発展

 能登畠山氏の城下町である七尾は朝倉氏のお膝元・一乗谷と同じ位の繁栄を誇ったといわれている。しかし、朝倉氏の一乗谷、大内氏の山口の城下町の発展はよく知られているが、「七尾」の発展はあまり認知されていない。ここでは最新研究を基に、発掘調査(シッケ地区発掘調査)などの考古学、文献などからの歴史学、地図上からの地理学など異分野を総合しつつ、都市としての「中世七尾都市圏」に迫っていく。
(図A)日本海海上交通の海路と能登の港湾都市
日本海海上交通と能登
(図B)七尾と氷見の陸路
七尾と氷見

第1章 都市としての「七尾」の成立と経済
 まずは、都市しての「七尾」がどのように成立したのかその背景と、七尾における3つの町について経済的な側面から取り上げていくこととする。

(1)七尾が発展する土壌
 古代より能登の国府は七尾に置かれていた。さらに七尾には国津である「香嶋津」が置かれ、古代から湊町としても発展していた。748(天平20)年に能登を訪れていた大伴家持(当時・越中国司)の詩にも能登の香島津の名が登場する。「香島より 熊来を指して 漕ぐ舟の 楫取る間なく 都し思ほゆ」。古来より海運は、すばやく大量に楽に運搬できる手段として用いられてきたが、その湊町として七尾の香嶋津も大いに発展していたようである(図Aより)。また陸路においても、口能登の中心部を邑知地溝帯(注1)の北端に七尾は位置し、加賀方面へ。また荒山峠を通って氷見方面へのなど交通の要所であった(図Bより)。このような歴史的・地形的な要因により都市としての七尾は発展する土壌十分に有していたのである。このように七尾が都市として発展していたため、必然的に中世に入って能登に入国した畠山氏もその守護館を七尾の府中に置いたのである。すなわち、大名は領国経営をするにあたり経済的基盤を掌握する必要があったのであり、そのためには七尾に守護館を置くのが最も効率がよかったためであろう。
 ここで、少し中世の能登の地理的位置づけを紹介したい。中世の頃の船といえば現在でいえば漁船程度の大きさであった。それゆえ、耐久性の点からも、食料の確保(食料庫が小さい)の点からいっても陸地から遠く離れて航海をし続けるには無理があったのである。それゆえ船の航海は沿岸航海が基本であり、頻繁に湊で食料などを補給する必要があった。このことは、海に突き出た能登半島の重要性を極めて高めさせた。すなわち、能登半島で寄港しないで航海を続けるのは無理なのである(詳しくは能登の国力考察参照)。このような理由から、能登には数多くの港湾都市が発展していた(図Aより)。さらに能登では、通行する船に対して「舟改銭」や「関銭」「関津料」(通行料・交通税)を徴収していたのではないかと推測され、海運が発達し京都と越後・東北を結ぶ日本海海上交通の要である能登半島ではその収入は膨大なものだと思われる(詳しくは海と能登島と畠山氏参照)。また、七尾湾は能登島があるおかげで波も穏やかで天然の良港として機能していた。その港から幕府や朝廷などに頻繁に贈答品として用いられた鰤を採る漁船が出発していた思われる。現在でも富山湾は漁業が盛んであり、中世も漁業で潤っていたと思われる。その中で、畠山氏は漁師の争乱の調整を通じて漁民を掌握し、漁業税などを取ったと思われ、これら“海からの税”は能登畠山氏の財政を閏わせ、農業収入に頼らずとも相当豊かな経済力を有したのではないかと推測されるのである。また、それだけ海運流通や漁業が盛んと言うことは、船の通行人の宿泊・船への食料供給・燃料供給(薪など)、漁船への燃料供給などの商業収入で多くの民間商店が栄えていたのではなかろうかと推測される。すなわち、能登は海運によって非常に栄えた国だったのである。このような中で、七尾の湊も能登の湊町のひとつとして非常に発展をしていたのである。
 以上見てきたように、七尾は歴史的(古代の国府)・地理的(海路陸路の要)・経済的(日本海海上交通の拠点)・政治的(能登畠山氏の拠点)として、まさに大きな繁栄を遂げていたのである。

(2)「七尾圏」の3つの町〜七尾・府中・所口湊〜
 次に、中世の能登七尾地域の都市について見ていくことにする。畠山満慶が1408(応永15)年に能登一国守護となり、遊佐・三宅・神保らの河内時代からの被官を率いて能登を統治した。能登畠山氏の創設である。畠山氏の守護館の位置については善端直氏の研究(注2)や山村亜希氏(注3)や仁木宏氏(注4)などの指摘により、「近世七尾町域の南西(現在の七尾高校の敷地)に巨大な方形居館があった。その規模からいって、これが室町・戦国期の守護館であることはまちがいないだろう。」(仁木氏(注3)論文より)とされている。いつ頃ここに整備されたかは不明だが、この守護所の位置が特定されたことは畠山氏の領国支配と七尾の発展を見るときに非常に有益な情報となる。
 まずはなぜ、古来からの能登府中の中心地ではなく、そこから少し離れた地に守護所設置したのであろうか。これは、上記(1)にあげた理由があると思われる。すなわち、七尾の地は港湾都市として発達しており、より湊に近い地に守護所を設置して、「舟改銭」や「関津料」などの交通税を狙ったのではないかというものである。さらに旧御祓川(きゅう・みそぎがわ)のすぐ東側にあることで、河川交通も掌握していたと考えられる。また、陸路に置いても七尾から穴水方面へ行く主要道路が発達してたと思われるので、それらの掌握も考えられていたことだろう。守護大名や戦国大名は一般的に軍事的側面で考えられがちであるが、軍事的側面を支えるための収入面に力を注がなければ領国経営の基盤は成り立たない。そのため、大名たちは経済基盤の強化に力を注いでいたと思われる。この点からしても、能登畠山氏にとっていかに湊での収入が大切であったか知ることができる。では、なぜ所口湊の中心部に守護所を設置しなかったのであろうか。それはすでに発展していた町を大名が完全に掌握するのは反発もあって難しいからではなかろうか(注5)。それゆえ、守護権力が「外縁」から掌握するためにあえて少し離れた地に設けたのではなかろうか。また、畠山氏にとっても新たに城下町を形成する費用などもかからないので、経済効率からいっても妥当な守護所の設置だったのではないだろうか。
 では、守護所のあったところにはどのような町が形成されていたのであろうか。1480(文明12)年に歌人・招月庵正広が七尾に下向した際、守護館・守護代邸・子息らの邸・飯川光助邸・三宅忠俊邸で歌会を行ったことが知られる。また、慶致政権時代の1503(文亀3)年には能登府中の大寧寺で盛大に父・義統の七回忌を営んでいる通り、府中には義統の菩提寺である大寧寺やその他安国寺・宝幢寺も府中にあったらしい。このことから、他の被官の邸宅もあって城下町のようなものも多少なりとも形成されていたのであろう。このように、古来からの能登府中とは別に室町時代にあって守護所付近に別の町が形成されてきたのである。
 しかしこの守護所が別の場所に移る時が来る。それは畠山義総の治世のことである。1526(大永6)年には義総は七尾城内に住んでいることが確認されるのである。このように、この時期、平城(平地の居館)から山城(要害の地の居館)に移り住むことは全国で見られる現象である。それはこの時代が戦国時代であり、より安全な地を求めて警備厳重な城を築き、その後には居館ごとその城に移るというものである。それが同様に能登にもあてはまるのである。そして、家臣や寺院などが移り住み(注6)七尾城の城下に「七尾城下町」が徐々に形成されていくのである。この結果、七尾地域には3つの町が誕生したことになる。それはすなわち、所口湊町=港湾都市、能登府中の町=古来からの経済都市、七尾城下町=畠山氏の政治・文化都市である。これらの3つの町は別々に形成されたものではない。お互いに補完関係にあって成立する都市であったので、この3つを「中世七尾都市圏」と称することにする。

(図B)七尾圏地図(七尾・府中・所口)
七尾・府中・所口

(3)「七尾城下町」成立後の所口湊と能登府中
 では「七尾城下町」が形成された義総政権以降、所口湊の町と能登府中の町は、七尾城下町に移り住んだために衰退していったのであろうか。答えは否である。まず、(図B)からもわかるとおり七尾城下町は内陸にあり、港湾都市としの機能は果たしえない。そうなると必然的に所口湊は、七尾城下町の港湾都市としてさらに重要性を増すこととなり衰退することはなかったのである。能登府中でも、曹洞宗宗円寺などが七尾城下町に移住しないばかりか新たな寺院が府中に建設されるなど、旧来の繁栄が維持されたようである。このように3つの町が共存できた理由はなんであろうか。それは「七尾城下町」が経済的な城下町でなくとも存立し得たからではなかろうかと推測できる。つまり、七尾城に守護所が移転した理由は前述のように軍事的要因である。すると、七尾城下町へ移住するのは、守護館・守護代邸・家臣の邸宅・大名権力と深い繋がりのある寺院群・町を建設する職人の館・鍛冶屋などの軍事的生産施設などであり、政治的・文化的な都市が形成されればこと足りるのである。このようにして、所口湊町=港湾都市、能登府中の町=古来からの経済都市、七尾城下町=畠山氏の政治・文化都市として、3つの町の共存体制ができあがっていったのである。
 義総政権は能登全域に政治的安定がもたらされ、その城下町は北陸最大の都市に成長したと言われるが、それは七尾城下町だけではなく、能登府中と所口湊を一体にみたものではなかろうか。一般に戦国大名は防御面での利点から戦国時代には山城に拠点を築いた。七尾城下町から七尾城には複数の道があったと考えられ、普通に考えると防御面での不利に働くが、能登畠山氏研究の第一人者である東四柳史明氏は「平時なら領国経営を優先し、城内とふもとを往来しやすいよう複数の幹線路が存在しても不思議ではない。」(北國新聞2013/5/16付)と指摘する。一方、1577(天正5)年の七尾城の合戦では1年近くも上杉氏の侵攻を籠城戦で防いでいることから、有事には防御性を増して、城下との往来を制限していたとみられる。


第2章 七尾城下町の発展
 次に、政治・文化都市であった七尾城下町の発展を史学的観点(文献史料より)と考古学的観点(発掘調査報告)から取り上げていく。

(1)七尾城下町の景観〜発掘調査から〜
 七尾城及び七尾城下町の遺構は開発の手などから免れほとんどといってよいほど遺構を保っている。これは前田氏によって小丸山城に本拠地が移転された結果、七尾の市街地が現在の位置になったためであり、元七尾と呼ばれるこの地域は田畑や低層住宅などが広がっている状態である。さらに、七尾城山は国指定史跡であるがゆえに、城山登山道の整備を除いてほとんど開発の手が入っておらず、発掘調査すればかなりの遺構が出現されると思われる。しかし、発掘調査は予算などの関係もあってなかなか進んでいないのが現状である。それでも老人福祉施設の建設や、高速道路の建設などの緊急発掘調査によって七尾城下町の様子がわかるようになってきた。

T.七尾城下町の範囲
 城下町は、古屋敷町・古城町地内を中心とした七尾城裾部の緩い傾斜面に所在する。その範囲は東は蹴落川まで西は庄津川を超えて派生丘陵の裾部まで広がっている。南北の範囲は明確ではないが、総構の外に広く展開していることは確実である。総構は、東は蹴落川、西は庄津川で画されており、土塁・堀・切岸で防御している。発掘調査の結果によると堀の幅は670cmあり、切岸の高さは2mを確認し、往事はもっと高かったと推定されている。
 七尾城下町の屋敷は、@奥行きが深い(平面長方形)、A並んで形成されている、B道の両側に形成されている、という特徴をもっている。これは短冊形の間口が狭い屋敷が多い一乗谷朝倉氏史跡の城下町と同じ特徴である。同時期に発展した町であるので、特徴も同じと言えよう。

(写真A)
能越自動車道高架下・高屋敷付近
↑能越自動車道高架下・高屋敷付近
(写真B)
能越自動車道高架下・高屋敷付近
↑能越自動車道高架下・高屋敷付近

 写真AAは七尾城下町の大手道があった付近である。能越自動車道の建設に伴い発掘調査が行われ、写真ABの看板の通り、側溝がある大手道が見つかった。七尾市ではここを往年の姿に復元展示するようである。ごく一部分とは言え、七尾城下町の往年の姿が復活することは喜ばしい。

U.城下町の建設時期
 城下町の建設時期は大きく2時期に分けられる。第1期は16世紀初頭から後半で、1991(平成3)シッケ地区の発掘調査の結果、京都型の正方形区画を町割りの基本としている。大手道があったが、第1期では道幅は少なくとも300cmで側溝が素掘りであった。
 第2期は16世紀後半から末で総構が構築され、「内」と「外」の区別化は図られている。「内」は城の中枢部であり、「外」は商工業者居住域や周辺地域と明示されていると思われる。大手道は総構の外では城の正面と城内を結ぶ七尾城内最大の規模の道路である。総構の構築と同時に拡幅され、同時に両側に側溝も素掘りだったものが石組みに改変された。大手道の道幅は300cmの路面で、側溝が100cmあるので、両合わせると大手道の幅は500cmとなる。総構の内側のとしての大手道は「能越自動車道開発工事における発掘調査」で発見され、外側と同じく両側に石組みの側溝をもっていた。

V.今までの七尾城下の発掘調査
 老人福祉施設建設に伴なう緊急事前発掘調査として1991(平成3)年に行われたのが七尾城下町の初めての発掘調査だった。その結果として『七尾城跡シッケ地区遺跡発掘調査報告書』刊行された。当初は、それほど期待もせずに発掘調査を行っていたようだが、少し調査するだけで天目茶碗など数々の出土品が出てきたので本格的シッケ地区が調査されるきっかけとなった(注7)
 シッケ地区の発掘調査で検出された主な遺構は、建物関係では掘立柱式建物2棟。柵跡、井戸跡3箇所、道路跡、溝跡(側溝ヵ)などが出土した。また、「鏡作り」「漆器作り」の工房が確認され、職人が居住したとみられる。鏡の遺構は16世紀第2四半期と見られている。また道路跡も出土し、その結果城下町の町割りが京都型正方形区割りであり、道幅は少なくとも3m、町割の1区画は14mで中央に石組の井戸があったことがわかった。主な遺物としては、漆器、下駄、越前焼の甕・すり鉢、珠洲焼の甕・壷・すり鉢、備前焼、瀬戸焼、中国製陶磁器、朝鮮製陶器、土師器皿、土鈴、貨幣(遺失貨幣)、銅板などである。この出土した遺失貨幣(注8)は城下町の一部でしかないシッケ地区から大量に発掘された。ということは、これ以上のかなりの貨幣需要が七尾城下町にあったと推測される(『七尾城跡シッケ地区遺跡発掘調査報告書』より)。これは七尾城下町にも相当量の物資の流通があったことを示す貴重な資料となる。また、文化を示す発掘としては香炉が出土し、七尾で香道が盛んに行われていた徴証といえ、文化都市としての七尾城下町と能登畠山文化の高いレベルを示すものである。
 2015(平成27)年に全線開通した能越自動車道建設にあたる部分の東沼田の大手道側の発掘調査では、金が付着した土つぼが3点出土した。これらのつぼは金の溶解したために金が付着したと見られている。七尾城下町には刀鍛冶などの工房跡も発掘されていることから、城下で金を加工していたと考えられる。発掘された地域が総構の外ではあるが、城内に近接した大手道にあったことから「畠山氏直属の職人集団」と考えられる城主畠山氏が城下の職人を掌握し、金の生産から加工まで一貫して行っていたことが明確になった。また、同地域からは紺屋とみられる複数の大甕が見つかっている。今後は畠山氏との政治的なつながりなどが解明されることを期待したい。
 また、道路建設に伴う発掘範囲で5万点ほどの出土品があるが、2012(平成24)年にその1割が実測されたとき、実にその55.3%が宴席で使われる使い捨ての皿である土師器であった。これは公家や文化人を招いてさかんに歌会を開いた文献資料の裏付けなのではないかとの指摘もある。さらに発掘調査が進んで、七尾城下町の全容解明されることを期待したい。

『七尾城跡シッケ地区遺跡発掘調査報告書』

七尾城跡シッケ地区遺跡発掘調査報告書
(写真をクリックすると拡大します) 

(2)七尾城下町の生活〜文献資料から〜

T.七尾城下町第1期の文献

 七尾城下第1期は16世紀初頭から16世紀半ばまである。当主で言うと、畠山義元畠山慶致畠山義総の時代である。1514(永正11)年に古文書Cにて地名としての「七尾」の初見である。義元によって少しずつ七尾が開発されたと考えられると、文献調査と発掘調査の時期が一致する。
 さらに、古文書Dによる1540(天文9)年に七尾城を訪れた京都東福寺の住持・彭叔守仙による1544(天文13)年に記した『独楽亭記』に七尾城下町の文献記述がある。彭叔守仙の訪問は時期を考えると、発掘調査で言うとところの16世紀第2四半期であり、七尾城下町に紺屋や鏡工房・漆器工房などの店があった時代であり、彭叔守仙の記述も頷ける。義総は積極的に公家を七尾に招請したり、貧窮した公家を受け入れたりと保護した(下記図E・F参照)。おかげで、京風の能登畠山文化が根づき花開くこととなった。例えば、冷泉為広が1517(永正14)年9月上旬から翌年5月頃まで七尾に滞在していた。また、1526(大永6)年5月頃からは為広・為和父子共に滞在(為広は同年7月23日に七尾でその生涯を終えている)し、さらに、1541(天文10)年には為和が8月から同年9月末頃まで滞在していた。この間様々な歌会が七尾で催され家臣が多く為広・為和に弟子入りしている。また、1525(大永5)年に連歌で有名な能登永閑が七尾を訪れ、大規模な連歌の会が開かれ、義総自信も連歌を詠んで「賦何人連歌」が作られている。また、義総の臣・丸山梅雪は茶道を盛んにし、茶器などを多く持ち茶会を開いていたようなので、城下町にも茶道が普及していたのではないかと考えられる。また、近江の猿楽の日吉大夫は頻繁に能登に訪れており、七尾では猿楽も盛んに催されていたのであろう。
 このように七尾の発展は決して当主だけの文化だけではなく、広く家臣にまで浸透していたようである。当主や家臣に浸透していれば、当然その背景として七尾城下町も茶会のお菓子を扱う商店など経済的な発展・文化的発展をしていたと思われる。つまり、七尾城下町全体文化的レベルが高かったと思われる。そういった環境が七尾城下町第2期にあたる長谷川信春(等伯)を誕生させたと言っても過言ではないだろう。また、信春(等伯)の父は畠山氏の家臣であったが信春を紺屋に養子に出したと言われるので、七尾の一般庶民が紺屋で着物を染めて着るほど、町に裕福な町人が多くいたことが想像できる。これは、七尾城下町の一般庶民まで文化レベルが高かった微証となろう。宗教では、七尾の法華宗寺院が京都と本法寺などど本末関係をもち八田郷を中心とする都市型構造が展開していたといわれる。(『石川考古』246号より)

(古文書C)「加能越古文叢」
就今度七尾江御出張、忠節神妙之條、御年貢之拾う分一永代御免除也、
弥於向後粉骨肝要之由、依仰執達如件、
 永正十一
   十二月廿六日  (隠岐)統朝(花押影) 
  (三宅)俊長(花押影)) 
  大呑庄御百姓中
 
 
(古文書D)禅僧の彭叔守仙「独楽亭記」(「猶如昨夢集」所収)
七尾の町の繁栄のさまは、偏えに能登の太守である畠山義総のすぐれた手腕に よる賜物である。七尾山の山麓には、多くの人々が移り住み、家並みは一里程にわたって続いている。その町中を色々な行商人たちが行き交い、道ばたには常設の店舗も多く立ち並んでいる。七尾山の麓に開かれた市場町は、まさに活況を呈 している。 夕暮れどきになるとこの町では、大寧・安国両寺の鐘声が、互いに応えあうようにして鳴りひびき、その情景は、幻想的である。また、七尾山から前峯の石動山へは、一筋の尾根道が通じており、朝な夕なに多くの人馬が、途絶えることなく行き来している。
※赤字は筆者追加
(図E)文化人能登下向者表
身分 人名
公卿 冷泉為広、冷泉為和、持明院基規
持明院基春、勧修寺尚顕、
勧修寺尹豊、船橋のぶ賢
転法輪三条公頼、甘露寺伊長、他
僧侶 上乗院僧正、永俊、虎伯、彭叔守仙、他
連歌師 月村斎宗碩、宗[王賛]、寿慶、永閑、宗牧、他
歌人 岩山道堅、正[音_]、圭純、他
猿楽大夫 日吉大夫、他
(『図解 石川県の歴史』より抜粋)
  (図F)文化人能登下向者の内訳表
年代 公家
地下人
僧侶 文化
芸術人
目的
永正十三年〜永正十五年(1516〜18) 1 - - 1 - -
永正十六年〜大永元年(1519〜21) - - - 1 - 1
大永二年〜大永四年(1522〜24) - 1 6 7 - 6
大永五年〜大永七年(1525〜27) 6 1 7 14 4 8
享禄元年〜享禄三年(1528〜30) 4 2 5 11 5 5
享禄四年〜天文二年(1531〜33) 2 2 2 6 - -
天文三年〜天文五年(1534〜36) 1 1 2 4 1 -
天文六年〜天文八年(1537〜39) 1 1 2 4 1 -
天文九年〜天文十一年(1540〜42) 1 2 2 5 - 5
天文一二年〜天文十四年(1543〜45) - - - 0 - -
18 9 27 54 11 26
※目的
A=荘園所領年貢督促・直務支配・困窮による下向
B=畠山氏の招請・文化活動
(『図解 石川県の歴史』より抜粋)

U.七尾城下町第2期の文献

 七尾城第2期は16世紀後半の時代である。当主で言うと、畠山義続畠山義綱畠山義慶の時期である。この3人の当主となった時期は、頻繁に内乱などで戦争が起こるようになり、それは同時に町の発展も阻害することになった。この政治的不安定要素はどのように七尾城や七尾城下町の都市に影響を与えたのだろうか。
 義続の治政下、1547(天文16)年押水の合戦や1550(天文19)年の七頭の乱、さらには1553(天文22)年には大槻・一宮の合戦など戦争が起こった。また、義綱政権期では1555(弘治元)年〜1560(永禄3)年までの長期に渡り弘治の内乱が起こり、町が衰退する条件としては十分過ぎるほどの政治的な不安定時代であった。やはり、この時代の文化的業績は、義総政権期に比べるとほとんど見当たらず、公家などの下向の史料も見えない。やはり能登畠山氏としては、内乱の頻発で費用がかさみ公家の招請どころではないし、公家としても戦乱続く国に安穏と下向できるはずもない。しかし、戦争が町を強くする理由も存在する。第2期の発掘調査で確認された総構の建設である。七尾城をより強固にするために総構を作り、城の中枢部と城下町を分けた。中枢部には重臣達の屋敷や防御設備が充実していたと考えられる。また大手道が拡幅された後、さらに側溝が石組みに変わっている事からも、畠山氏が没落していたわけではなく、むしろ積極的に防御を図って国を富まそうと考えていたのではないかと考えられる。そこに至り七尾城下町はますます発展を遂げたであろうことが推察される。実際、七頭の乱が終結した1550(天文19)年には近江猿楽の日吉大夫が能州に在国したことが知られ(「多賀神社文書」より)、1度だけの興行ならば在国はしないはずなので、おそらく頻繁に猿楽が催されたのであろう。さらに、弘治の内乱を克服した義綱政権は大名専制体制を確立し、1560(永禄3)年から1566(永禄9)年に義綱・徳祐父子が家臣に追放される永禄九年の政変までの6年間は、強い大名権力の下で内乱も起こない非常に政治的に安定した時代であった。そのためか、1561(永禄4)年長続連が自邸に義綱を歓待し能や狂言を披露したり、1562(永禄5)年の能登一宮気多大社造営の儀の際には猿楽を行ったりしている。また、画家して有名な長谷川信春(等伯)は義綱専制期の6年間の間に6つの作品を完成させているし、元亀年間(1570〜1571)まで能登に居て活動したことも知られている。つまり、信春が落ち着いて絵を描く環境が能登にあったのである。古文書の制約で具体的な事例は数例に限られるが、このように義続・義綱政権期においても文化的業績は少なからずあるといえる。また、次代の義慶政権・義隆政権期にあたる1566(永禄9)年から上杉謙信の能登侵略が行われる1576(天正4)年までは、政情は不安定であったものの大きな戦争もない時代であり町の発展を積極的には阻害していない(注9)
 このように、能登畠山時代の末期には確かに畠山家は混乱期に突入するが七尾の文化は全部失われたわけではなかったのである。ではなぜ晩年においても「中世七尾都市圏」繁栄はさして失われなかったのであろうか。


第3章 晩年の「中世七尾都市圏」の様子
 最後に、能登畠山時代末期である晩年の「中世七尾都市圏」の様子を考えていく。まず第一には、畠山家が混乱に陥っても、それ自体が「七尾」の繁栄要因を消し去っていないという理由が挙げられる。例えば時代は違うが、石動山は山伏の修験道として中世・江戸時代と栄えたが、明治時代の神仏分離令によってほとんど廃山同然となった。これは、石動山が宗教的価値をなくして存在意義をなくしたから滅びたといえる。一方晩年の「中世七尾都市圏」はどうであろうか。例え能登が政治的に不安定であったとしても、日本海海上交通の要所としての能登の経済的地位に変化はない。だから港湾都市としての「七尾=所口湊」も変わらず繁栄していたといえる。つまり、例え能登畠山氏のお膝元という政治的要因を消え去ったとしても、経済的繁栄要因は消えていないので、町としては繁栄が維持されるのである。さらに言えば、「中世七尾都市圏」が晩年になっても繁栄したからこそ、その経済力を基に晩年の畠山家が存在できたと言えるのではなかろうか。それはすなわち、能登と言う経済的に豊かな地が、守護大名的体制を残したままの畠山家を戦国末期まで存続させたとも言える。
 次に第二の理由として「中世七尾都市圏」が3つの町を抱擁していた複合都市であったことが理由にあげられる。いくら経済的繁栄要因があると言っても、軍事的(戦争などによって)に町が破壊されてしまえば、現実問題としてそこに町は存在しなくなる。では数々の戦乱においても、「七尾」の町が消え去らなかった要因は何か。それは、「所口湊町」と「能登府中の町」が、能登畠山氏の居館である七尾城より離れていた地理的要因が挙げられる。「中世七尾都市圏」のうち、戦乱で巻き込まれるのは畠山氏の居城に隣接する「七尾城下町」だけであり、距離的に離れた位置にあり、さらには能登畠山氏とは直接政治的に関係していない「所口湊町」と「能登府中」は戦乱の被害を最小限に抑えることができるのである。以上のような理由で、「中世七尾都市圏」の衰退は最小限に抑えられ、その後も能登畠山氏を経済的に支えていたと思われるのである。

(注釈)
(注1)邑知地溝帯とはわかりやすくいえば、羽咋市から七尾市までを走る現・国道159号線辺りの平地のこと。陸路としての平地は安全であるし、田畑の多い生産地でもある。
(注2)善端直「能登畠山氏の城下町 七尾」(『守護所と戦国城下町』高志書院、所収)
(注3)仁木宏「守護所・城下町と府中・所口湊−都市史のなかの「七尾」−」(『能登七尾城 加賀金沢城』新人物往来社.2006年,所収)
(注4)山村亜希「中近世能登七尾の湊町と城下町の景観」(『能登七尾城 加賀金沢城』新人物往来社.2006年,所収)
(注5)実際、畠山氏の後七尾を支配した前田氏は、「船の挑発に応じなかった者は磔にする」と命じるなど強権的に府中を支配しており、相当な反発があったであろうことが想起できる。このようなことにならぬよう、畠山氏は配慮して自由な湊町を間接的に掌握したといえる(仁木宏(注3論文)『能登七尾城 加賀金沢城』P.69より)。
(注6)七尾城下町に家臣や寺院が移り住んだ証拠として、彭叔守仙「独楽亭記」(古文書Aより)があげられる。筆者が追記した赤字の部分には「七尾山の山麓には、多くの人々が移り住み」と書かれている。筆者は当初は他国や他地域からの移住してきたことを示すものであったと思ったが、この「中世七尾都市圏」のことを考えると、能登府中や所口湊から移り住んできたと見るほうが自然であろう。
(注7)現在、発掘された「シッケ地区」はデイサービスセンター(老人福祉施設)「城山園」が完成し、遺構は埋め立てられた。
(注8)遺失通貨とは、破損して使えなくなって捨てた通貨・銭のことである。
(注9)義慶政権・義隆政権ではそもそも古文書自体が少ない為、文化的業績も知られない。

参考文献
善端直「能登畠山氏の城下町 七尾」(『守護所と戦国城下町』高志書院、所収)
(共著)『能登七尾城 加賀金沢城』新人物往来社.2006年
小島道裕(編)『史跡で読む日本史7』(戦国時代)、吉川弘文館,2009年
七尾市『七尾城跡シッケ地区遺跡発掘調査報告書』七尾市教育委員会,1992年
石川考古学研究会『石川考古』246号,1998年
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