畠山満慶特集

畠山満慶イメージ像
↑畠山満慶イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 満慶<はたけやま みつのり>(1372〜1432)
 能登守護・七尾城主。畠山宗家当主のち能登畠山家初代当主。左馬助・修理大夫。御相伴衆。 畠山基国の次男。妻は賀茂別雷社の社務(姓不明)の娘(『地域社会の史料と人物』北國新聞社.2009年.P30より)。1406(応永13)年父が死去すると、将軍足利義満に嫌われていた兄満家に代わって畠山宗家当主を継ぎ、河内・越中・能登・紀伊の4ヶ国の守護となる。1408(応永15)年義満が死去すると、兄満家に家督を譲渡した。その礼に兄より能登一国を与えられ能登畠山氏初代当主となる。病気のため1432(永亨4)年、死去。法名勝禅寺殿真源道祐大居士(参考「畠山家の出自・能登畠山のおこり」)。

満慶支配体制ちぇっく!


守護:畠山満慶(在京)
守護代:遊佐祐信(在京)
小守護代:池田主計入道(能登在国)


 畠山基国が死去すると、将軍義満に勘気を受けていた満家に代わって満慶が河内・紀伊・越中・能登の4ヶ国の守護となり、将軍に仕え幕政の中心に位置した。当時守護大名は在京が原則で、この頃の満慶もまた能登在国は認められない。そして将軍義満の死去した1408(応永15)年、満慶は畠山宗家の家督を兄満家に返還し、満家から能登一国を与えられた満慶は能登畠山氏を創設することになる(注1)。満慶の幕閣での地位は、宗家守護から能登守護となっても変わらず、兄満家と共に将軍義持に近侍した。
 満慶は七尾府中に守護館を設け、1410(応永17)年には宗家当主時代からの重臣・遊佐祐信(美作守基光)を守護代とした。祐信は満慶に近侍したため、祐信の被官である池田主計入道を七尾に派遣して実務を執らせた。遊佐祐信は能登の細かい政務を任されていたと見えるが、天野慶景に関する所領安堵から見ると(「満慶政治活動ちぇっく!」で後述する)、満慶がまず安堵し、その後で祐信が打渡状(注2)を発給していることからして、国政はすべて祐信に任されていたのではなく、満慶の主体的な運営の下、祐信が実行していたと考えられる。また、1415(応永22)年には、加賀大乗寺が能登永光寺に対する寺位について、能登国の総持寺、加賀国の浄住寺を守護代遊佐祐信に訴えた。これに対して満慶は祐信に対して大乗寺を勝訴にするように命じている。これは守護代権力の上位権力者として守護が君臨しているなによりの証拠である。
 満慶は畿内から譜代の家臣である三宅・神保氏・平・佐脇・誉田らを能登に派遣している。一方能登の豪族は積極的に畠山氏の庇護に入るものもいれば抵抗するものもいた。抵抗した者の多くは没落していき、温井氏のように積極的に庇護に入った者は勢力を盛り返してくなど、能登畠山家の基盤を固めるため積極的な領国政策を展開した。例外は将軍直属の奉公衆である長氏で、唯一16世紀の半ば独立を保ち戦国期まで畠山家の庇護に入らなかった。

満慶政治活動ちぇっく!
 満慶は宗家の当主であったために、幕政にも深く関与し御相伴衆に列した。また、将軍にかなり気に入られていたようで、例えば4代将軍義持の時の「足利義嗣(義持の弟)反逆」への協力の嫌疑をかけられたが、同じく嫌疑をかけられた山名や土岐らは処罰を受けたものの満慶はお咎めがなかった。その状況は1408(応永15)年に分家して、能登畠山家当主となっても変わらなく、兄満家とともに幕閣で重要な地位を占め、応永末年頃(1420年代)まで御相伴衆を続けた(畠山家の出自・能登畠山のおこ り参照)。このように能登一国守護となっても幕政に積極的に関与していたため、分国能登には在住せず京都に住んでいたと思われる(注3)
 一方、満慶は直接能登に命令を出していたとも言われる。七尾城の築城、七尾の命名、祭りの奨励である。満慶は晩年・正長年間に現在の古城・古屋敷あたりに守護館を建て、七尾城の構築に着手。その城山の美しさから、満慶は山の七つの尾根に「松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・竜尾」と名づけて風景を楽しんだといわれる。これがいわゆる七尾の語源となったと言われる。また、戦乱で廃れた祭りの復興を画策し、祭りのまん幕に畠山の「三つ柏」の家紋の使用を許可。曳山を奉納する府中町・鍛治町・魚町の税を免除するなど祭りを奨励したと言われる(下記写真A・B・Cを参照)。この満慶が奨励した祭りが毎年5月3日〜5日まで七尾市街で行われる青柏祭(せいはくさい)と言われる。現在でも府中・鍛冶・魚町の三町は、「でか山」と呼ばれる高さ約12mの山車(車輪だけでも2mもある)を祭りの際に引きまわす。写真Bでもわかるように、能登畠山氏ととても縁が深い祭りであるため、「でか山」の上段にしつらえる場面を能登畠山氏の歴史関係にすることもある。しかし、これらの政策は本当に満慶本人が行ったものであろうか。満慶が能登入国しなければこのような、細かい命令(七尾の命名、祭りの復興)など出すことが可能であったろうか。甚だ疑問ではある。
 では次に古文書の史料における満慶政権の活動を東四柳史明氏の著書『半島国の中世史』を中心に見ていこう。1410(応永17)年に遊佐祐信が永光寺領における竹木の勝手な伐採・乱暴狼藉を禁止する制札を出している。これは守護代・遊佐祐信が守護に変わって国政を担っている証拠である。一方1411(応永18)年に、畠山満慶(沙弥道祐)が幕府奉行所に対して、鵜川保は諸橋に入るのか否か問い合わせをしている。さらに興味深いのは、家臣である天野慶景への所領の沙汰についてである。天野慶景の「慶」はおそらく満慶の偏諱であって満慶の臣である。1412(応永19)年、慶景は満慶より「相博」(注4)の旨に任せ「直海保内北浦地頭職」(羽咋郡)を安堵されている(古文書A)。この安堵は翌1413(応永20)年3月に、守護代・遊佐祐信の打渡状(注2)が交付され(古文書B)、さらに同年5月には将軍・足利義持の袖判御教書が慶景に発給されている。これを東四柳氏は「守護の主体性に基づく安堵を得たのち、その所有権をより確実なものとするために、守護の口入(土地・所職に関して仲介すること)により将軍の安堵をもうけていたことがわかる」と指摘している。つまり、満慶は主体的に能登の支配に関わり、幕閣の中枢に位置している立場を利用し、国内の豪族を掌握するため、将軍権威を利用するなど巧みな領国政策を展開していると見ることができよう。これらのことから、満慶は幕政だけに関わっているでなく、守護として能登の政治に関与している事実が浮かび上がった。そうであれば、満慶は在京して大局的な領国政策を指示し、実際に在国して細かい指示を出しているのは守護代・遊佐祐信と言えるのではなかろうか。

古文書A 畠山満慶安堵状(「天野文書」)
能登國直海保北浦李一分地頭職事、
任相轉旨、不可有知行相違之状如件、
 應永十九年八月十一日 (畠山満慶)(花押)
  天野彦次郎(慶景)殿
古文書B 遊佐祐信打渡状(「天野文書」)
能登國直海保北浦李一分地頭職事、
任御判之旨、可被全所務之状如件、
 應永廿三月廿三日 (遊佐)祐信(花押)
  天野彦次郎(慶景)殿
(写真A)
七尾駅前「ミナ・クル」に展示されているデカ山(山車)
↑七尾駅前「ミナ・クル」に展示されているでか山(山車)
(写真B)
尾駅前「ミナ・クル」に展示されているデカ山(アップ)
↑写真Aのアップ(写真をクリックすると拡大します)
「でか山」の場面は能登畠山氏関連の歴史だった。
(写真C)
七尾駅前再開発ビル「ミナ・クル」
↑写真Aのでか山が展示されている「ミナ・クル」
(写真D)
青柏祭・でか山の車輪
↑青柏祭・でか山の車輪(車輪の高さは約2m)
(七尾市文化財展示館蔵)

満慶出陣履歴ちぇっく!
 将軍・足利義持は幕府に反抗する伊勢国司・北畠満雅を征討する命令を諸将に下した。そして、1415(応永22)年6月19日、満慶は将軍の命に従い大和へ出発している。「寺門事条々聞記」によれば、満慶の手勢は120〜130騎ほどであったとしている。幕閣の中枢にいた満慶らしく、将軍の命に従い、進軍していた様子が伺える。「満済准后日記」によると、6月19日に出発した満慶一行は、6月26日には大和国宇多郡で兵糧などの略奪を行い、7月には北畠満雅を大和国川上城から敗退させるなどして、8月18日頃一色氏らとともに京都に帰着したと言う。

満慶外交政策ちぇっく!
 満慶は在京し幕閣の中枢に位置したことから、将軍などを始め色々な勢力と関わりを持っていた。下表は時系列にその関わりを表にしてまとめたものである。満慶と将軍義持・義量・義教との関係は非常に深く、以下の一覧のようにその外交関係は膨大な量に上る。満慶は将軍より何度も自邸に訪問されていたし、醍醐寺や聖護院に将軍が行くときには必ずと言っていいほど供奉している。特に将軍義教の還俗・任官に関しては武家伝奏万里小路時房が満慶を訪ね、申次を相談するほど幕閣で重要な地位を占めていたことがわかる。さらに、6代将軍を決めるいわゆる「くじびき」が行われる時には、管領の畠山満家、斯波義淳、細川持元、山名時熈と共に畠山満慶もおり、事実上この5人が幕閣の最高権力を持っていたと言え、河内畠山家の庶流の家柄である能登畠山家の地位の高さがうかがえる。また、将軍義教の治世では、供奉も多くなっており、さらに「気の短いことで有名」な将軍義教に畠山満家、山名時熈、畠山満慶が政道に意見を具申し、それに対し将軍も喜ぶなど満慶らは相当将軍に信用されていたのだということがわかるのである。まさに能登畠山家は三管領に準ずる家格を持ったいたと物語る証左であろう。

満慶と他勢力との関わり一覧表 (『加能史料室町T』より抜粋)
西暦 和暦 出来事
1408 応永15 将軍義満没。満慶が等持院における陰勤行の陀羅尼輪番を勤める。
1410 応永17 日向守護・島津元久が上洛した折、将軍義持や有力大名などと共に満慶も太刀一振と50貫を贈られる。
1412 応永19 (6月)将軍義持が満慶邸に臨む。
同年 (6月)満慶が自邸にて猿楽を催す。
同年 (9月)裏松重光の重陽節の宴に、兄・満家と共に満慶も参列する。
1413 応永20 (4月)将軍義持が満慶邸に臨む。
同年 (8月)将軍義持が裏松義資の邸に臨む際、満慶ら有力大名が供奉する。
1414 応永21 (4月)将軍義持が満慶邸に臨む。
同年 (12月)称光天皇の即位費用を満慶ら有力大名が負担する。(満家が158貫、満慶が55貫)
1415 応永22 (3月)加賀大乗寺が寺の地位争いの調停を満慶に求め、能登総持寺と加賀浄住寺を訴える。
同年 将軍義持に従い、伊勢国司北畠満雅を討つため、軍に参加し大和に出発する。
同年 (12月)将軍義持が満慶邸に臨む。
1416 応永23 満慶が祇園社に神馬を寄進する。
1417 応永24 (10月)将軍義持が醍醐寺に臨む際、満慶供奉する。
1418 応永25 (6月)満慶と山名時煕が足利義嗣の謀反に組したとの噂が立つ。時煕の出仕が停止される。
同年 (9月)醍醐寺の大塔造営の心柱木引を行う際、満家・満慶兄弟が奉行する。
1419 応永26 (8月)将軍義持が仙洞御所に参内した際、満慶がこれに祗候(奉仕)する。
1422 応永29 (9月)将軍義持が伊勢参宮する際、満慶が供奉する。
1423 応永30 (1月)満慶が三宝院満済を訪ね年始を賀する。同月前将軍義持が醍醐寺三宝院望む際、満慶が供奉する。
同年 (4月)将軍義持が出家する。満家と満慶等が太刀を進上する。
同年 (11月)前将軍義持が伊勢参宮に出発する。満慶が供奉する。
1424 応永31 (1月)前将軍義持夫妻と将軍義量が管領満家邸に臨む。満慶嫡男義忠が供する。
同年 (2月)将軍義量が満慶邸に臨む。満家と満慶が膳に相伴する。
同年 (7月)満家が満慶を介して管領辞職を願い出るが、前将軍義持がこれを却下する。
同年 (11月)前将軍義持が満慶邸に臨む。
1425 応永32 (1月)将軍義量が管領満家邸に臨む。義忠が父満慶から義量への引き出物を進上する。
(同月)前将軍義持が法身院に臨む。満慶が供奉する。
1426 応永33 (1月)満慶が前将軍義持に年始を賀する。将軍義持が醍醐寺三宝院に臨む。満慶が供奉する。
1427 応永34 (11月)前将軍義持が満慶邸に臨む。
1428 正長元 (1月)前将軍義持の参内に供奉する。満慶三宝院満済を訪ねる。
同年 (3月)武家伝奏万里小路時房が満慶を訪ね、足利義宣(義教)の還俗・任官を賀し、申次を相談する。
同年 (4月)足利義宣(義教)が醍醐寺三宝院と聖護院に臨む。満慶が供奉する。
同年 (5月)足利義宣(義教)の賀茂社競馬の足揃を見物する際、満慶が奉行する。
同年 (8月)足利義宣(義教)が満慶邸に臨む。
1429 永享元 (1月)満慶が三宝院満済に年始を賀する。足利義宣(義教)が醍醐寺三宝院に臨む。満慶が供奉する。
同年 (2月)足利義宣(義教)が聖護院に臨む。満慶が供奉する。
同年 (4月)将軍義教が醍醐寺法身院に臨む。満慶が供奉する。
(同月)満慶が将軍義教に管領辞意を満慶を介して伝えるが、将軍これを聴きいれず。
同年 (6月)将軍義教が聖護院に臨む。満慶が供奉する。
1430 永享2 (1月)満慶が三宝院満済に年始を賀する。足利義宣(義教)が醍醐寺に臨む。満慶が供奉する。
(同月)将軍義教が聖護院に臨む。満慶が供奉する。
同年 (3月)将軍義教が醍醐寺に花を観に行く。満慶が供奉する。
1431 永享3 (1月)将軍義教が室町第で猿楽を観る。満慶等諸大名も見物する。
同年 (6月)満家と満慶等が三法院満済に頼み、将軍義教に政道の意見を上申する。
(同月)将軍義教が如意寺に臨む。満慶が供奉する。
同年 (8月)九条満輔(満家)が満慶等に八朔の祝儀を贈る。
(同月)幕府が室町北小路第の工事着手する。満慶が惣奉行を勤める。

満慶文芸活動ちぇっく!
 満慶は「初代、二代ともにすぐれた文化人として聞こえたが」(伊藤良『能登だより』能登印刷,1983年)と評され、一部書籍では風流な士であったとされる。しかし、他方で文字が読めなかったとも言われている。実際、2代・義忠、3代・義統、7代・義総らの歴代大名の文芸がよく知られるのに対し、幕閣の中枢をなした満慶の文化的業績を語る論文は皆無と言ってよい。それを考えると、それほど満慶の文芸活動はなく、お世辞にも風流の士とは呼べなかったのではなかろうか。しかし、1412(応永19)年6月に京都の満慶自邸で猿楽を催したり、同年9月には裏松重光が重陽節の宴を催した際に、加賀守護・斯波満種と共に参列したり、三宝院満済と親しくしていたりするので、幕閣を担う満慶だけに文化的行事に触れる回数は多かったと思われる。
 すなわち、満慶自身はそれほど風流の士ではなかったが、幕閣の中枢に位置した関係から文芸に触れる機会が多く、それゆえその土壌が嫡子・義忠の文芸への関心を高め、以後の歴代当主の文芸活動が花開いたのではないかと推測できる。

ちぇっくぽいんと!
 満慶は初名「満則」と言う。片岡樹裏人氏はその著書『七尾城の歴史』で、「満則」→「満慶」への名前の変更は能登畠山家当主となったのが契機ではないかと指摘している。しかし、満慶は能登畠山家創設後、すぐに入道し「修理大夫入道道祐」と称しているので、片岡氏の推測は誤りであろう。

義綱公式見解「幕閣の有力者であり、能登畠山家の基礎を築く。」

☆武将採点表(10段階評価、10がMAX)

畠山満慶 点数 評価
先見力 畠山家の基盤を築くため兄とも連携し、幕府の威信を高めるために奔走した。
情報力 10 幕閣の最高権力者の一人であり、中央との太いパイプでたくさんの情報が彼に集まった。
人望 10 蟄居した兄に家督を返還するなど、仁義に厚く京都の武士だけでなく公家からも信頼された。
経済力 能登一国の当主となってからも、幕閣で力を発揮し能登の基盤安定にも努めた。
政治力 10 三管領に準する家格と発言力を持ち、将軍も満慶を信頼していたので相当の政治力があった。
戦力 大和進軍の時、手勢120騎ほどであったのは、京都ではそれほど兵力をもっていなかったのであろうか。

☆参考資料(満慶花押)

満慶花押

(注釈)
(注1)満慶の満家への家督返還だが、『足利義持』(吉田賢司、ミネルヴァ書房、2017年)によると、足利義満の死後に重用されていた義満寵臣の更迭も多方面で進められており、満慶から満家への家督返還もその一環だと指摘している。さらに、足利義持の初期政権では斯波義将の影響力が絶大であり、その影響を抑えるために力があった細川氏・畠山氏の協力を得る必要があり、義満寵臣の更迭をしつつも配慮するために、満慶を能登一国守護としたのではないかと指摘している。満慶が「勝禅寺殿真源大居士(畠山満慶)肖像賛并序」よると兄弟の譲り合う姿は「天下の美挙」であると賞賛されたというが、実際は義持が主導で行われた、将軍家と畠山家を密接にさせる企みとして見てとれる。
(注2)「守護の指令を遵行して名充人に交付される文書」(東四柳史明『半島国の中世史』北國書籍印刷,1992年,196頁)
(注3)満慶が基本的に在京大名であって、能登に入国した確証はない。しかし郷土史家である富田景周(江戸中期)、森田柿園(幕末〜明治)、日置謙(大正〜昭和)は満慶が1398(応永5)年に満慶が入国したとしている。しかしこれだと、能登畠山家創設以前の入国になるので、もし一時的に入国したとしても、1408(応永15)年以降の誤りだと思われる。また、これらの諸氏は、満慶が七尾城を築いたとも指摘している。
(注4)「相博とは、所領を交換するの意味であり、慶景がどこの北浦を、だれと如何なる理由で交換したかは定かではない」(東四柳史明『半島国の中世史』北國書籍印刷,1992年,195頁)

参考文献
伊藤良『能登だより』能登印刷,1983年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会.1988年
東四柳史明『半島国の中世史』北國書籍印刷,1992年
東四柳史明「能登守護畠山氏の成立をめぐって」『加能史料会報』13号.2002年
米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社.1976年
吉田賢司『足利義持』ミネルヴァ書房.2017年
(共著)『戦国大名系譜人名事典』新人物往来社.1986年
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