畠山家の出自・能登畠山家のおこり

(1)畠山家のおこり
 畠山家の出自は桓武平氏村岡良文の末裔で、武蔵畠山荘(埼玉県川本町)におこった。畠山重忠は菅谷館(すがややかた、現・埼玉県嵐山町)に住んでいたとされるが、国指定史跡となっている菅谷館跡からは重忠の父・秩父重綱の名前を記した教筒などがみつかっているが、重忠の頃の遺構や遺物は発掘されていない。鎌倉幕府の有力な御家人として畠山氏(秩父氏)は位置し、畠山重忠(しげただ)の時、様々な功績をあげた。しかし1205(元久2)年、幕府執権・北条時政の手によって北条氏独裁体制を固めるために畠山重忠は滅ぼされる。そこで、名家の断絶を惜しんだ足利義兼の子・義純(よしずみ)が重忠の後家と再婚し、畠山家の旧領と名跡を継いで源氏姓畠山氏が中興され室町期に到るのである。
☆平姓畠山氏に関連するサイト「重成血統会の歴史」の畠山氏のコンテンツへリンク!

(写真をクリックすると拡大できます)
畠山重忠公銅像
↑畠山重忠公銅像
菅谷館跡
↑菅谷館跡(現・埼玉県嵐山町)

(2)室町時代の畠山氏
 室町幕府が開設されると足利一門(注1)の畠山家は、畠山国清を中心に初代将軍・足利尊氏に従って各地で奮戦した。その功績により、河内・和泉・紀伊の守護権を与えられた。やがて関東に下り関東執事や伊豆・武蔵守護に就任した。しかし、鎌倉公方・足利基氏に嫌われ国清は失脚したという。
 その弟畠山義深は幕府に許され1366年に越前守護に就任した。さらに、義深の子・基国の代になると畠山家は一層の発展を向かえる。まず幕府管領・斯波義将の提案により越前と越中を交換し、越中守護となった。その後、1382(弘和2)年には河内、次いで能登(注2)、佐渡の守護職を手に入れ、南北朝末期には4 カ国の守護となっていた。その他、一時基国は将軍のお膝元、山城守護を兼任するなど、畠山家の全盛期を築いた。事実上基国が管領畠山家の祖と言える(注3)。そして、1398年8月、基国は管領に就任し翌年には紀伊守護を手に入れ畠山家の河内・越中・能登・紀伊の4ヶ国分国体制が確立した。このように畠山家が栄えた背景には、将軍・足利義満が斯波氏・細川氏と並んで足利一門である畠山家を管領の家格にして幕府を強化しようとした試みがあったとも言われている。しかし、その基国も1405(応永12)年に管領を退くと、翌年1月17日に55歳で死去した。 

(3)能登畠山氏のおこり
 基国には長男・満家と次男・満慶という二人の嫡子がいた。兄弟の行動では、1391(明徳2)年に起きた明徳の乱(山名氏清の反乱)では、基国とその子・「弾正少弼満家・左馬助満慶」が出陣しているのが見える。さらに満家は1399(応永6)年には従五位上に昇進したり、応永の乱(大内義弘の反乱)に参陣するなど、基国の後継者としての行動を残している。しかしこの合戦の後、満家は将軍・足利義満の怒りに触れて蟄居したらしく、1402(応永9)年に将軍・義満の伊勢参宮に供奉したのは基国と次男・満慶であり、満家の活動はしられないのである。(注4)
 1406(応永13)年、基国が没すると、まだ幕府に許されていなかった満家に代わって満慶が登場する。この頃、満慶発給文書において、河内・紀伊・越中での守護活動が確認できる。能登では直接の証拠がないが、おそらく満慶は4ヶ国の守護を相続したのであろう。
<満慶政権の分国支配体制>
・河内守護代−遊佐河内入道長護(父の時代から継続)
・紀伊守護代−遊佐筑前入道
・越中守護代−遊佐河内入道長護(河内と兼務)
・能登守護代−神保肥前入道(神保孫次郎国光)

 1408(応永15)年5月6日に将軍・義満が死去すると、これをきっかけに満家が復帰し、満慶から畠山宗家の家督の移譲が行われた。「勝禅寺殿真源大居士(畠山満慶)肖像賛并序」よると、義満没後、満慶が満家に家督を譲りたいと将軍・足利義持に申し入れそれが許されたという。兄弟の譲り合う姿は「天下の美挙」であると賞賛された。そして、満家は感謝の気持ちを込めて畠山家分国のうち能登一国を分離し満慶に与えた、としている。これは満慶の「肖像賛并序」であるから簡単に信用するわけにはいかないが、下の室町後期に書かれたと思われる古文書Aからも、満家が感謝の気持ちから能登一国を分け与えたと見えるし、その後の兄弟で幕政に関わる姿を見ると、あながち誇張した表現ではないのかもしれない(古文書Aより)

 しかし、吉田賢司著の『足利義持』(ミネルヴァ書房.2017年)によると、この「天下の美挙」は将軍足利義持が、前政権で徴用されていた義満寵臣の更迭の一環として行われており、初期政権で大きな影響を及ぼした斯波義将も同意を得ていたとされている。義持と前将軍義満の仲は周知のように悪く、義持政権の基盤も初期は安定していなかった。ここで義満色を一掃することで主導権を握る側面もあったのであろうと思われる。さらに、将軍義持は絶大な力を持っていた斯波義将を内心疎ましく思っていたようで(義将死後、義持は斯波家を冷遇している)、その対抗馬として勢力のあった畠山氏・細川氏を味方につけたいという思いから、畠山の家督を次男の満慶から長男の満家に戻すことで、「廃嫡の危機を救われた畠山満家は、こののち恩義ある義持のために粉骨砕身し、畠山の軍事力は将軍家の藩屏として幕府を支えることになる。」(吉田賢司氏前掲書P.70)という中央政界の政治力学が、畠山氏の家督と能登畠山氏の誕生に関わっていたようである。さらに、義持の政治的状況から畠山満慶を敵に回すわけにはいかないので、畠山領国のうち、能登一国だけを割いて与えたのではなかろうか。
 そう考えると、満慶が「家督を譲った理由」、「満家が能登一国を弟に与えた理由」、「満慶が能登一国守護となっても幕閣に列した理由」、「『天下の美挙』であると賞賛された理由」の説明にもなる。すべては将軍義持が斯波氏の対抗勢力として畠山家を取り込みたい事情によるもの。一方で、このような家督交代劇が可能だったのは、(古文書A)のように、満家と満慶の仲が良かったからこそできたということも言えるかもしれない。

古文書A「畠山氏寄進等覚書」(歓心寺文書年次未詳)
修理大夫殿(畠山満慶)真観寺殿(畠山満家)の御ほつらく(没落)の間も御孝好により、
能登一国を被之候、自此時、大夫殿の御国と定れり、


 とにもかくにも、満慶が1408(応永15)年に能登一国守護となり、遊佐・三宅・神保らの河内時代からの被官を率いて能登を統治した。これが能登畠山氏の始まりである。
 能登畠山家は、満慶の修理大夫の官途から当初「畠山大夫家」と呼ばれた。その後、義忠(満慶の嫡男)の時代になって修理大夫の唐名である「匠作」を取って能登畠山家は「畠山匠作家」と呼ばれるようになるのである。 『戦国大名系譜人名事典 西国編』によると、「兄の満家の官途名は尾張守であり、これは父義深のそれを襲称したものであるが、弟の満慶のそれは、叔父国清の官途名の修理(権)大夫や阿波守に通じるものであり、能登畠山氏の創出には、先に没落した国清家の継承・再興という意図が込められていたらしい。」としている。その後、修理大夫は代々の当主にも継承されていて、畠山家晩年の当主である義綱・義慶もその官途を受領している。

(4)その後の兄弟関係
 満慶が以前管領畠山家を継いだことと合わせて、満家と満慶はお互い協力して幕政にあたったことから、能登畠山家は畠山家の庶流筆頭として甚だ勢力が強かったようである。それゆえ、以後も満慶邸に将軍が来ることもしばしばあったり、満慶の子・義忠は5代将軍・義量が満家邸に行った時も、満家から義量に贈る引き出物の上役を務めたり、6代将軍・義教の還俗の理髪役を勤めるたりした。つまり、能登畠山家は管領畠山家の分家であったが他の宗家と庶家関係とは違い、分家である能登畠山家も嫡家と並んで畠山家一門の軸を担う役割を期待されたのである。事実、前述したように満家と満慶兄弟の連携は緊密で、幕府では兄弟ともに将軍の御相伴衆(幕閣の最高権力者グループ)に任命された。しかし、その満慶が1432(永享4)年に死去すると、兄の満家も後に続くように翌年死去した。

畠山家紋(画像提供:マーガレット殿)

頂き物なので画像の無断転載禁止

(注釈)
(注1)足利義純によって畠山家は再興されたのであるから、畠山氏は室町将軍家足利氏の一門となるのである。
(注2)能登守護職は南北朝期は吉見氏であったが1379(康暦元)年に失脚すると、将軍の寵愛を受けた本庄宗茂が任命された。しかし、1391(明徳2)年、本庄宗茂が罷免されると、畠山基国が能登守護に任命されたのである。
(注3)畠山宗家は東北地方にあり、奥州探題の家柄であった奥州畠山家(後の二本松畠山家)である。それゆえ、ここでは管領の家柄であった基国から始まる河内畠山家を「管領畠山家」と呼ぶことにする。
(注4)一般には満家は応永の乱の前に蟄居し、将軍・義満の怒りを解くために無許可で応永の乱に参加したとあるが、それだと同年の昇進が説明がつかない。そこで、東四柳史明氏は「能登守護畠山氏の成立をめぐって」(『加能史料会報』13号、2002年)において、満家が義満の怒りを買い蟄居したのは「応永の乱後のこととなり、さすれば勲功第一の満家は、恩賞に与るどころか、乱の後に義満の忌避に触れ、基国の後継者の地位から追われていたことになる。」としている。さらに同氏は忌避に触れた理由について「確証はないが、実質は勲功に奢った満家が、義満の許可を得ず勝手に捕虜を処刑したことが、或いは、義満の怒りを買う結果を招いたのかもしれない。」(「勝禅寺殿真源大居士(畠山満慶)肖像賛并序」より)としている。

BACK


Copyright:2017 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama