畠山慶致特集

畠山慶致イメージ像
↑畠山慶致イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 慶致<はたけやま  よしむね>(?〜1525)
仮名弥二郎。能登守護・七尾城主。左衛門佐。入道して保寧院徳宗。畠山義統の次男。父義統に寵愛される。1500(明応9)年、兄弟闘争に端を発した明応九年の政変において、権力回復をたくらむ守護代遊佐統秀らに擁立されて5代当主となる。しかし、一向一揆での危機から領国体制確立のため1508(永正5)年、兄義元と和解、当主を退いて入道するも、1513(永正10)年に能登永正の内乱で再び義元派と対立し敗北して失脚。1525(大永5)年に死去した。

慶致支配体制ちぇっく!


権力者:遊佐統秀・三宅俊長

 1500(明応9)年、兄弟闘争(古文書A)に端を発した明応九年の政変において慶致は守護代・遊佐統秀に擁立された(注1)。この政変では弥二郎(慶致)派がかなり優位に立っていたらしく義元は抵抗もあまりなく越後に出奔した(注2)。ということは、弥二郎(慶致)が単に兄弟争いで勝利したのではなく、遊佐統秀ら有力家臣たちを取り込んでいたと見える。裏を返せば有力家臣が弥二郎(慶致)を擁立したとも言えよう。また、義元政権の時守護請の代官として見られた隠岐統朝の名が消え、三宅俊長に代わっている。この後、義元が守護に復帰すると同時に隠岐統朝の名も復活しているところをみると、隠岐統朝は義元の没落に同行しているとみられる。家中でも義元派と慶致派に分かれていたことを示す徴証である。では、慶致政権は重臣による傀儡政権であったのだろうか。後に永禄九年の政変で同じように家臣に擁立されて誕生した10代当主・義慶政権との違いは、慶致には義慶と違って実権があったと思われる。「政治活動ちぇっく!」で後述するが、1503(文亀3)年に父義統の七周忌を法主として慶致が大々的に行ったり、後に兄義元と和解したことも慶致の大名権力が家臣に対して比較的確立されていたと見ることができる。もし、遊佐統秀ら有力な家臣が絶大な力を振るっていたとすると、自ら擁立した候補を降ろし和睦すれば、次政権で左遷されることも十分考えられるので、おいそれとは和睦できない。事実、1568(永禄11)年の能登御入国の乱の際、義慶方は危機に陥ったが頑として義綱を迎え入れようとはしなかった 。これは、追放した長・遊佐・八代たちが、義慶政権の実権を完全に握り、もし義綱が復帰したら自分たちはどうなるのかと考え、あえて徹底抗戦をしたのだろう。

古文書A『永光寺年代記』(羽咋市永光寺蔵)
(明応)九庚申
帝崩(後土御門天皇)、九月廿八日、十月廿五日太子踐祚(後柏原天皇)、
七月二日夜、能(州)符(府)中御兄弟(畠山義元・慶致)取合、

慶致政治活動ちぇっく!
 兄・義元との取合(喧嘩)に端を発する家督交代劇の最中と思われる1501(元亀元)年にも、能登の公用銭が守護請として荘園領主に送られている。また、京都の公家衆における日記などに能登の争乱に言及していないということからも、兄弟の取合における軍事的衝突はなかったと東四柳史明氏は指摘している。さらに同氏は、慶致政権において1504(永正元)年までは、守護請の年貢の進納や、高勝寺が慶致に下地の検注などが見られるので、これを「大名権力が在地掌握に一定の効果をあげていた」(注3)とし、1503(文亀3)年に父義統の七周忌(注4)を大寧寺で盛大に行って守護の権威を内外に誇示するなどの政策が見れると指摘する。これは裏を返すと、国内の政治基盤が安定していなかった事を示すものとなろう。慶致政権は家臣を二分した事から脆弱で、家臣の中には義元派も多数存在したと思われる。それゆえ、守護の権力の誇示の為、父義統の七周忌を盛大に行ったりして内外に実力を誇示しようとしたのだ。これは、内面の政権の脆弱さをカモフラージュしていると、東四柳氏は指摘している。このカモフラージュは中央政権や慶致政権に敵対する勢力に向けられていたのは想像に難くない。

慶致外交政策ちぇっく!
 1500(明応9)年の明応九年の政変において義元と対立して守護となった慶致は、必然的に義元が積極的に支援していた足利義材(義稙)と対立することを余儀なくされた。当時幕府は1493(明応2)年の明応の政変以降、足利義材派と、細川政元・足利義高(義澄)派に分裂していた。従って慶致は細川政元派に組していた。
 しかし、1503(文亀3)年になると幕府より慶致政権は「能登守護未御礼申、然則敵国也」というようにみられ"新たな能登守護は敵か味方かわからない”と評されたのである。これはなぜだろうか。この疑問を解決するための新説が2008(平成20)年に東四柳氏から出された。すなわち1503(文亀3)年時点ですでに義元と慶致が和睦していたというものである。同氏は義元と天野次郎左衛門尉(俊景)の古文書を検討した結果、1506(永正3)年の段階で義元と慶致の子・二郎(後の義総)との連携がみられるとしてそれ以前に義元。慶致兄弟の和睦がなったと結論づけたのである。ということは義元の守護還任は1508(永正5)年なので、和睦がなされた後もしばらくは慶致は守護であり続けたと見られる。
 慶致(弥二郎)は1504年、朝廷に対して「錦御旗」の下賜を願望した(古文書B)。これについて奥野高広氏は、1504(永正元)年に始まる能登での内乱鎮圧の為に利用したのではと指摘している(『羽咋市史中世社寺編』より)。この行動は、朝廷権威を利用した守護権の高揚策であり、後に義綱が大名権力の回復の為、幕府に接近したのと似ている。義元と和睦した慶致政権は幕府(=細川政元派)と敵対していることになるので、朝廷に接近したのである。国内の敵を一層する為に朝廷に近づいた例は、越後の長尾為景などの例がある。
 その他でも慶致と朝廷の関係は意外に深い。例えば1497(明応6)年に御土御門天皇に真魚を献上しており(『御湯殿上日記』明応六年十一月六日条より)、父・義統に寵愛されていた頃からの繋がりがあるのかもしれない。さらに、1501(文亀元)年には御柏原天皇の即位費用段銭が能登国にも賦課されている。これを慶致が納めたかどうかは記録にないが、1504(永正元)年の「錦御旗」の所望を考えると、これに応じていると推測できる。そうであれば慶致政権は朝廷重視の外交政策を展開していたということができるかもしれない。
 1506(永正3)年、管領細川政元が敵対勢力の力を揺るがそうと一向一揆と提携し蜂起させた。これにより、幕府(=細川政元派)と敵対している能登の政局も動揺し能登畠山家は滅亡の危機に扮した。さらに1508(永正5)年に前将軍である足利義稙が上洛し将軍に復帰した。将軍・義稙を支持していた畠山尾州家(政長流)の畠山尚順のとりなしもあって、大内義興・細川高国・畠山尚順と並んで在京して義稙政権の一角を担う幕閣に列することになった。そこで、守護が在京して分国・能登が空白になることを避けるため、義元と慶致の2段階目の和睦として、兄・義元が守護に還任して在京し、弟・慶致は守護を退任して入道し保寧院徳宗として在国して国政にあることになった。さらに、義元の子孫と慶致の子孫での後継者争いを避けるため、慶致の子・義総を義元の後継者とすることを条件に能登畠山家の再統合を図られた。
 入道して「保寧院徳宗」と名乗った慶致も一時は在京したようで1510(永正7)3月に近衛尚通邸に鶯合に赴いたことが記録にある(「後法成寺関白記」『加能史料Y』P.39より)。在京は短期間であったのかこのあと、同年9月に近衛尚通に能登下向を伝えている(「後法成寺関白記」『加能史料Y』P.61より)。実際、1511(永正8)年5月(古文書C)、1512(永正9)閏4月、1513(永正10)年5月に保寧院徳宗(慶致)は、近衛尚通に能登国の海鹿草を毎年1桶送っていることからも在国が伺われ、さらに1512(永正9)年には羽咋の気多社に安堵状を発給しており、兄・義元が不在の中で国政を担当する重要な役を任されたようだ。
 しかし1513(永正10)年を最後に、保寧院徳宗(慶致)の1525(大永5)年に死去するまで活動は見られなくなる。近衛尚通は1514(永正11)年に太政大臣に昇進しており、贈答品のやりとりが無くなったのは近衛側の理由とは考えられない。この理由を川名俊氏は「慶致が内乱に関与し、敗れたため失脚した可能性が想定できるのである。」(注5)。1500(明応9)年の明応九年の政変で兄弟対立した溝は、1508(永正5)年に義元の守護還任ということで決着を見たものの、慶致が在国で力を発揮したため再び家中が分裂したとも言える。そこで慶致派の家臣が中心となって能登永正の内乱(1513年)が起きたと考えられる。僅か10年強で大きな政治体制変更が3度あったが、その中で内乱に至ったのは能登永正の内乱の1度だけである。

古文書B『宣胤卿記』(永正元年五月十三日条)
十三日、癸卯、睛、(中略)行季來(世尊寺侍従)、幡銘中書自懐中取出令見之、可指南云々、可然之由返答、
無相承只押而書事也、能登守護畠山彌二郎(慶致)所望、花山院前左(政長)府傳達云々、此銘事、
余可書歟(中御門宣卿)之由、先日中納言(中御門宣秀)參會之次、前左府傳言、爲其家行季可然之由返答了、
(下略)
慶致(弥二郎)が朝廷に対して「錦御旗」の下賜を願望したことに対して、世尊寺行季が中御門宣胤に指南を求めたものである。
古文書D『後法成寺関白記』(永正八年五月四日条)
四日、癸丑、晴、小風吹、従能州海鹿一桶、保寧院(畠山慶致)送之
 
 

慶致出陣履歴ちぇっく!
 1506(永正3)年に、能登の他全国各地で一向衆が蜂起する(東寺光明講過去帳)。能登の一揆軍には「能登国一宮大坊主」と「鈴(珠洲ヵ)の三崎の鬼次郎」の名がある。この時、能登畠山家の慶致政権
は劣勢だったようで、古文書Eにあるように「能登天満城」が陥落している。この能登天満城とは後にも先にも登場していない。そこで郷土史家の高井勝巳氏がその著書『能登・加賀の山城』(自費出版,2015年)でその位置を「その所在地を検討してきましたが、結論として七尾城周辺で「天満」の地名を伝えている場所としました。そして、白羽の矢をあてたのは標高約二十メートルの矢田天満宮古墳の地です。」(同書122頁)と指摘している。この「矢田町天満」という場所は七尾城から約3kmほどのところにある。 1506(永正3)年当時はまだ居城としての七尾城は存在していない。つまり、詰めの城としての七尾城があり、その前線基地として七尾城から3kmの麓にあったのが「天満城」ではないだろうか。とするならば、1506(永正3)年の一揆では慶致は守護所(守護館)から詰めの城である七尾城まで追い込まれることになる。それは1488(長享2)年に隣国で起こった長享の一揆(「加賀冨樫氏野々市の歴史with一向一揆」参照。)かなりの苦戦をしいられたことが言える。それゆえ、この後家督は再び兄の畠山義元に戻るが、その世代になって七尾城が整備され始める。きっと「天満城」が陥落したことによってより防備を増強するという考えに至ったのではないだろうか。
 次に慶致と兄・義元との兄弟闘争について。1500(明応9)年の明応九年の政変で兄から守護を奪い、1508(永正5)年には一揆の台頭で兄と和睦し守護を降りて入道する。さらに再び義元派と慶致派の対立が深まり1513(永正10)年の能登永正の内乱が勃発。この内乱は1年以上続き、守護・畠山義元が京都より能登に下国しても収まらず、後継者である義総が下向することで鎮圧されたかなりの大規模な内乱だったようだ。しかしこの内乱において慶致自身の発給文書が見られるわけではなく、発生当時の慶致が主体的に行動していたどうか疑わしい。さらにこの後、義総が予定通り家督を継承するものの、慶致自身はは1525(大永5)年に死去するが全く活動が知られない。家中から実質引退しているとみるべきである。であるならば、慶致が能登永正の内乱で擁立され失脚したか、慶致がこの反乱で義元派であったか、義総があくまで義元派としての立場で家督を相続したのかのパターンが考えられるであろう。

古文書E『永光寺年代記』(永光寺蔵)
(永正)四 丁卯、(上略)
去年(永正3年)十月廿八日能登天満城落、

 

慶致文芸活動ちぇっく!
 慶致は、父親である義統にも気に入られたようであるし、文芸や京都に関心のある人物だったようである。歌人・招月庵正広が父義統の招請で能登に下向してきた時、父と共に歌会などを催している。1481(文明13)年に「子息彌次郎(慶致)」が来て歌会を催している。また、正広の2度目の能登下向1482(文明14)年にも「弥次郎(慶致)」が歌会に出席している。
 さらに慶致が守護を退いた後も、「彼(慶致)が守護を退いた後にも前関白・近衛尚通と家族ぐるみで親交をたもっているのは、その王朝趣味の一傍証」(注6)からも読み取れるし、その具体的な交流として「義総の父保寧院は近衛尚通と親しく交わった。尚通公記を見ると、永正七年三月廿四日に、尚通邸で催された鶯合に参じ、同年九月中旬能登へ下国し、以後も尚通に物を送り、妻もまた尚通の室に物を送ったりして、旧交を忘れなかったのがわかる。」(注7)と事象が知られる。また慶致は、1504(永正元)年に公家の花山院政長を介して幡の銘の執筆を依頼した。さらに、公家の持明院基春に所望し「入木道色紙形」を贈られたことから、慶致に書道の趣味があったと米原正義氏(注8)・東四柳史明氏は指摘する。また冨樫泰高に馬の絵を10幅所望し、その返礼に絵と同じ馬を10頭送ったとされる「能州太守」は、慶致の可能性が高いと言うことから慶致に絵の趣味もあったことが知られる。父・義統の影響を受け慶致も文化に精通したと言えよう。また、慶致の文化的水準は、その子で7代当主となる義総にも引き継がれることになるのである(注9)

ちえっくぽいんと!
 当初東四柳史明氏は「能登畠山氏家督について再検討」において、明応九年の政変の理由を将軍・義稙が失脚し、管領細川政元に4代義元が罷免されたのを受けて、権力回復をたくらむ守護代遊佐秀統らに擁立されて5代当主となる。としていたが、「能登守護畠山慶致のことども」において、中央政争との関わりは誤りであったとし、兄弟闘争であったと結論付けた。詳しくは明応九年の政変のコンテンツをみて頂きたい。

(注釈)
(注1)兄弟の争いに負けた義元は『永光寺年代記』によると、1501(文亀元)に能登から没落した。
(注2)東四柳史明氏は「明応九年の義元能登出奔時の政変については、直後における能登国内の荘園年貢の収納状況に変化がないことから、内乱状況は認めがたい」(「畠山義元と能登永正の内乱」『加能史料会報』19号,2008年より)と指摘している。「慶致政治活動ちぇっく!」でも言及している。
(注3)
東四柳史明(他共著)『羽咋市史中世社寺編』思文閣出版
(注4)「七周忌」とは、人の死後満6年、数えて7年目の法事のことである。一般的に1/3/7/13周忌に供養を行うものである。そこで、前守護義元が「没落」(『永光寺年代記』より)している後に盛大に義統の七周忌を行っている「左衛門佐慶致」こそ能登の守護であるという見方ができる。また、「左衛門佐」は畠山家当主の官途であり、慶致当主説の補強となろう。
(注5)川名俊「能登畠山氏の権力編成と遊佐氏」『市大日本史』24号,2021年34頁より
(注6)(注1)論文より
(注7)米原正義「能登畠山氏の文芸(上)」『国学院雑誌』1965年1月号,68頁より
(注8)米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社1976年
(注9)父慶致の影響か、義総も公家・近衛家との交流が知られる。

参考文献
東四柳史明「能登畠山氏家督について再検討」『国学院雑誌』73編7号、1972年
東四柳史明(他共著)『羽咋市史中世社寺編』思文閣出版.1973年
米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社.1976年
東四柳史明(他共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社.1986年
東四柳史明「能登守護畠山慶致のことども」『七尾の地方史』24号、1990年
東四柳史明 「畠山義元と能登永正の内乱」」 『加能史料会報』19号.2008年
高井勝巳『能登・加賀の山城 追録編』自費出版,2015年
川名俊「能登畠山氏の権力編成と遊佐氏」『市大日本史』24号,2021年
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