畠山尾州家(政長流)関連人物特集

 河内畠山氏とは畠山基国の嫡男・畠山満家を祖とする管領家の事である。応仁の乱で争った、畠山義就と畠山政長は河内畠山家の嫡流である。応仁の乱で義就の嫡流と、政長の嫡流に分かれたが、その後に河内を支配したのは政長の嫡流なので、ここでは、政長の嫡流をして、河内畠山とする。政長嫡流家の家督の移譲は「基国−満家−持国−政長−尚順−稙長−長経−政国−稙長−晴熈−高政−昭高」と続いて滅亡した。政長流畠山氏は尾張守の官途を名乗るものが多く、「畠山尾州家」とも言える。ここでは、政長より始まる家柄を畠山尾州家と呼ぶこととする。
畠山政久<はたけやまさひさ>(生没年不詳)
 弥三郎。持富の嫡男で政長の兄。初め実子のいなかった持国の養子となり後継者に指名されるが、持国に実子義就が産まれると、一転して後継者から外された。それゆえ、家臣達は政久派、義就派に分かれて争うことになった。中心となる政久は争乱のさなか死去し、政久派は弟・政長を中心に団結していった。
 従来より弥三郎の実名は色々議論があった。川岡勉氏はその著『室町幕府と守護権力』(吉川弘文館.2002年)において、その実名をこう考察している。(以下前掲書260頁抜粋)「『碧山日録』〔続史料大成〕長禄三年十月九日条にみえる、「畠山公之族、尾州前司某之子、逃難於山沢、此日大相公召之、特以政久之字為其諱也、其亡臣相慶云」という記事である。ここに見える尾州前司某が畠山持国であることは疑いなく、将軍義政が召し出す持国の子とは弥三郎の事と考えるのが自然である。(中略)それまで実名を持っていなかった弥三郎は、このとき義政から「政久」の諱を拝領したのである。」としている。今谷明氏は「津川本畠山氏系図」から弥三郎の実名を「義富」としているが、この系図は史実と相違が見られその引用は慎重を期さねばならない。さらに、尾州畠山氏は将軍から「義」の字を拝領した者は一人もいない事実を考えあわせると、川岡氏が述べた「政久」の方が正しいのではないかと思われる。
畠山政長<はたけやままさなが>(1442-1493)
 尾張守、弾正少弼、左衛門督。管領にも就任。持富の次男。持国に実子の義就が生まれると、家督を養子の兄・政久ではなく義就に家督を継がせようとした為、政久を中心に義就擁立派と戦った。しかし、兄・政久が死去した為、弟の政長が反義就派の中心人物となった。政長は一時持国に追放されたが、政長派は細川勝元の支援を受け義就派を抑え、1454(享徳3)年に政長が家督を継承する。その後、義就と一時和睦するが義就が将軍に疎んじられて河内に逃亡した為、再度家督を継いで、河内・紀伊・越中の守護に返り咲く。しかし、義就は山名宗全と結び入京。やがて、畠山氏の家督争いから応仁の乱が起こる。その後も両畠山氏の争いは続いた。政長は1477(文明9)年以来管領を勤めていたが、1486(文明18)年に将軍・足利義尚が右大将拝賀の儀式が細川勝元邸で行われる際に、将軍家の両畠山家のバランスを取るために、畠山義就との和睦に舵を切ると以後政長は幕府の行事に参加しなくなり、代わりに子・尚順が随行することになった。
 1492(明応元)年12月、将軍・足利義稙が近江・六角征伐から帰洛し、河内攻めを宣言し、翌1493(明応2)年2月に諸大名を率いて出陣した。その中に政長も参陣し、河内渋川郡の正覚寺に陣を取った。1486(文明18)年の管領辞任以降で、政長が幕府に出仕したのは初めてである。この戦いの最中の4月23日に「明応の政変」と言われる細川政元・伊勢貞宗らのクーデターにより、京都で新将軍・足利義澄を擁立された。そこでいっきに将軍・義稙を中心とする政長・尚順陣営が不利に立たされた。閏4月24日に政長の正覚寺の隣に陣を取った子・尚順が紀伊に没落すると、翌日細川政元に正覚寺を攻められ自害した。
畠山尚順<はたけやまひさのぶ>(1475-1522)
 尾張守。左衛門佐。政長の嫡男。1475(文明7)年12月12日産まれ。幼名は次郎。初め、「尚順」、1498(明応7)年から「尚慶」、1508(永正5)年から入道して「ト山(ぼくざん))」と称した。「尚」の字は将軍・足利義尚の偏諱・正室は京極持清の娘。河内、紀伊、越中の守護。
 1478(文明10)年の4歳の時に父政長に従い幕府に出仕し、早くから後継者として認知されていた。1487(長享元)年に将軍・足利義尚が近江・六角高頼を攻めるために出陣すると尚順も従軍した。この頃はまだ父・政長が健在ではあるが政長の活動は知られない。そして1491(延徳3)年に将軍・足利義稙の近江六角征伐に従い、尚順も大勢を率いて従軍するほど尚順は将軍・足利義稙に気に入られていたと見られる。そこで将軍義稙は尚順に敵対する畠山総州家の畠山義就の子・基家の退治を計画した。一方・畠山基家は将軍と対立する細川政元と接触し始めた。1493(明応2)年2月に諸大名を率いて河内に出陣する。その際、1486(文明16)年以来幕府での活動が無かった父・政長も従軍しているのは将軍から寵愛される尚順の要請があり、政長の復権のチャンスと見たためであろう。しかし、この戦いの最中の4月23日に「明応の政変」と言われる細川政元・伊勢貞宗らのクーデターにより、京都で新将軍・足利義澄を擁立された。そこでいっきに将軍・義稙を中心とする政長・尚順陣営が不利に立たされた。閏4月24日に政長の正覚寺の隣に陣を取った尚順は紀伊に没落すると、翌日、正覚寺を細川政元が攻め、父・政長が自害した。将軍・義稙は尚順の分国・越中に亡命した。
 紀伊に没落した尚順は、1493(明応2)年に紀伊を平定した。反・足利義澄方であった尚順は根来寺の援軍を得てた。根来寺は堺に駐屯しており、和泉守護の細川被官が尚順に願える等、尚順の勢力は徐々に広がりを見せた。1495(明応4)年には堺に進出し、一万貫の矢銭を懸けるなど一層勢力を強め、さらに和泉守護細川氏も尚順方となった。その勢いで1496(明応5)年10月に和泉に全面侵攻を開始したが、この時は畠山総州家の畠山義豊(基家)に敗れて、紀伊没落から従っていた尚順政権の有力被官だった遊佐九郎次郎が戦死する痛手をこうむった。1497(明応6)年に畠山義豊政権が宿老の遊佐氏と誉田氏で内部対立すると、義豊方の誉田氏・平氏を取り込み、尚順方は、河内・和泉・大和・紀伊を平定した。権力基盤が安定した尚順は前将軍・足利義稙の復権を画策するため、1498(明応7)年に尚順は自身の隠居で弟に家督を譲ることを条件に、細川政元と合意し前将軍・足利義稙の復権を画策していた。しかし、1499(明応8)年に畠山総州家の畠山義豊が戦死するほどの戦力ダウンがあったことから、尚順は方針を転換し、義稙と共同し京都を武力奪還することになった。同年9月に山城・摂津・河内で合戦を行うが、尚順方の大名である土岐・朝倉・六角・赤松・山名・武田が離反し、義稙も近江で戦いに敗れ、山口の大内氏の元へ亡命した。尚順も河内の城を放棄し、紀伊へ再び没落した。
 体制立て直しを図る尚順は、1500(明応9)年和泉に出陣し勝利したが、9月に畠山総州家の畠山義豊の子・義英が籠もる河内高屋城を攻撃すると、細川政元の被官・赤沢宗益の援軍に大敗し再び紀伊へ戻った。1504(永正元)年に細川政元が一族の家督争いで内部分裂すると、畠山総州家は後ろ盾を失う危機感から、尚順と畠山義英と和解し、誉田城に義英が、高屋城に尚順が入る体制となった。1506(永正3)年に細川政元らが両畠山家討伐のために河内に出陣すると、両畠山は共同して対立したが大敗した。1507(永正4)年に細川政元が被官に暗殺されると、同年12月には義英と尚順の和睦も敗れ、再び対立関係となった。その後、細川氏が細川澄元派と細川高国派に分裂すると、尚順は高国の姉婿として婚姻関係を基に連携し、義英の拠点・獄山城を攻め落とした。1508(永正5)年に細川高国は京都の細川澄元を攻め落とし、将軍・足利義澄を伴って近江へ下向し、前将軍である足利義稙が山口から京都に復権し、尚順もその側近として出仕した。
 1509(永正6)年に尚順の嫡男・鶴寿丸(後の稙長)が誕生した。その鶴寿丸が1510(永正7)年の幕府の猿楽の饗応準備をしていたとされる。僅か2歳の鶴寿丸が饗応の中心となっていたのは、尚順が常に在国していたわけでなく、分国・紀伊を往復していたためであった。1517(永正14)年に尚順は隠居したが、幼い稙長に家督を譲渡したのは尚順政権の権力基盤である紀伊を安定化させるためだった。それは他家の侵攻が従来は河内→紀伊の順で行われたが、紀伊→河内の順で侵攻されることが多くなったので、紀伊と河内の国境を尚順自ら在国し守備しようという施策であったようだ。この時の畠山尾州家の分国支配体制は、京都を畠山鶴寿丸と被官・丹下盛賢が、河内を守護代の遊佐順盛が、和泉を尚順の子・細川晴宣で治め、自身は紀伊の基盤を固めることに専念していたようである。さらにもう一つの分国であった越中では1519(永正16)年には越中守護代・神保慶宗と対立した。河内より遠く離れた越中に尚順の影響力を及ぼすのは難しく、長尾為景と畠山義総に征討を依頼し、翌年には鎮圧させた。これにより、尚順(畠山尾州家)を中心として、能登畠山を仲介として越後長尾と協力するという、北陸の支配体制=「畠山体制」(詳しくは北国の政治秩序「畠山体制」参照)が成立した。この紀伊在国と、越中平定は武力で領国を支配しようと積極的に領国政策を展開した結果と言える。しかし1520(永正17)年、尚順は湯河氏を始めとする紀伊国人らに離反され紀伊広城を追放され堺に逃れた。1521(大永元)年に、将軍・足利義稙が細川高国に京都を追われ、淡路に逃れると尚順も淡路へ向かった。同年5月に尚順は紀伊広城を攻めたが敗北し、淡路に退却しこ地で死亡した。没年は1522(大永2)年7月17日。 尚順本人は足利義稙を一貫して支持するところがあり、複雑化する畿内の戦国時代の中で、とても珍しいことのように筆者は思う。
畠山稙長<はたけやまたねなが>(1509-1545)
 幼名・鶴寿丸。右衛門佐、尾張守。尚順の嫡男。河内守護。正室は細川高国の姉。稙長の生年は長らく不明とされていたが、「二○二○年に刊行された史料簒集『守光公記』二、永正七年(一五一○)四月二十九日条に室町殿猿楽に畠山亀寿が饗応を用意する記事がある。そこに当年二歳とされていることで、稙長は永正六年生まれと判明した。」(小谷利明氏『戦国武将列伝7畿内編【上】』戎光幸出版、2022年、297頁より)。稙長が僅か2歳で幕府に出仕し、猿楽の饗応の用意をしていたのは理由がある。まずは父・畠山尚順が姉婿である細川高国と連携して幕閣の中心として将軍・足利義稙を支える必要があった事で嫡男である稙長の正室として高国の姉を迎えていたことから後継者として認知されていた。さらに、父・尚順は畠山尾州家の権力基盤である紀伊支配の安定化を図るために度々京都を留守にして分国に行く必要があった。そのため、早めに家督を稙長に譲って尚順が紀伊に在国したいという思惑があったようである。
 鶴寿丸(稙長)が初めて文書を発給するのは3歳であった1511(永正8)年である。細川高国と対立する細川澄元が挙兵し、鶴寿丸は摂津・播磨・河内で戦った。父・尚順は河内で戦って敗北し紀伊へ逃れ、細川高国も京都を脱出し、鶴寿丸も京都を脱出した。
 鶴寿丸は1515(永正12)年に将軍・足利義稙の腹心である畠山順光の屋敷で元服の儀式を行い「稙長」と名乗り、「御相伴衆」となって正式に幕閣に重きをなした。この時の畠山尾州家は、畠山鶴寿丸とそれを支える丹下盛賢と、河内を守る遊佐順盛、和泉を守る尚順の子・細川晴宣、紀伊を守る畠山尚順とそれぞれが別行動をしていたようである。この尚順の行動は勢力争いに柔軟に対応するための政策であると考えられるが、結果的に畠山尾州家の権力を分散することとなり、一番の権力基盤であった尚順の紀伊が失われた事により、その後継者である稙長の権力基盤を弱体化する結果となった。1519(永正16)年に細川高国と対立する細川澄元が挙兵し、翌1520(永正17)年に将軍・足利義稙と和睦した。その事から畠山稙長と対立する畠山総州家の勢力が盛り返し、一時河内高屋城を畠山義英に奪われた。同年5月に細川澄元方の三好之長が敗北すると、稙長は義英から河内高屋城を奪回する。
 以後、稙長と細川高国の権力基盤は安定し、大和の国人の和睦を遂げ、稙長の領国支配は一時的に河内・大和・紀伊に及んだ。1521(大永元)年に、将軍・足利義稙が細川高国に京都を追われ、淡路に逃れると父・尚順も淡路へ向かった。そして高国は将軍である足利義澄の子・足利義晴を将軍として擁立した。この政変において稙長は将軍・足利義晴・細川高国を中心とする勢力に位置づけられ、前将軍・足利義稙と父・畠山尚順と対立した。1526(大永6)年に始まる四国勢が堺に上陸した。四国勢とは、足利義稙の養子となった足利義維・細川晴元を中心とする「堺公方」である。その対立軸は将軍・足利義晴・細川高国を中心とする京都勢である。この対立の中で、四国勢は畠山総州家の畠山義堯が大和の国人・越智氏や河内の国人と連絡を取り、稙長の優位を崩す姿勢を見せ始めていた。そこで稙長は1527(大永7)年に本願寺と同盟し紀伊の反稙長勢力壊滅を目指し15000人の大規模な勢力を動員して上洛した。ところが、1528(大永8)年1月に「堺公方」方の三好元長と細川高国が和睦したため、戦争には至らなかった。この和睦には四国勢も京都勢も反対派が多かったようで細川高国はその支持基盤を失い、同年5月に和睦推進派の近江・六角定頼の元に亡命した。この高国の亡命により四国勢=堺公方勢の勢力が増し、京都勢方の稙長は河内高屋城を「堺公方」方に攻められ城を明け渡すことになった。河内畠山家では「堺公方」方の畠山総州家である畠山義堯が優勢となった。
 1532(天文元)年、「堺公方」方が内紛によって瓦解すると、畠山義堯も滅亡した。同年12月に河内金剛寺に対して稙長が文書を発給し、再び畠山尾州家の勢力が盛り返した。しかし、この文書発給において、守護代・遊佐長教の文書がセットで存在していない。故に稙長とその腹心の丹下盛賢と遊佐長教との関係が綻び始めていたのではないかと指摘されている(小谷利明氏『戦国武将列伝7畿内編【上】』戎光幸出版、2022年、303頁より)。そして、1534(天文3)年8月16日に守護代遊佐長教らが稙長の弟・畠山長経を擁立したので、稙長は紀伊に逃れた。一時は紀伊守護に補任されるが、河内復帰を狙っていたと言われる。しかし、紀伊国内の基盤も安定せず、稙長派の熊野衆・紀伊門徒と遊佐長教派の湯河氏・玉置氏に分かれていた。稙長は細川晴元に対抗した細川晴国の子・氏綱や本願寺と連携し、さらに西国で力をつけた尼子経久とも連携して、河内復帰を目指した。そのため、紀伊の国人で遊佐長教派だった湯河氏が稙長派に収まるなど、稙長の紀伊支配が進展していった。
 1541(天文10)年、将軍・足利義晴を支える細川晴元方で内部対立が起こり、畠山総州家の木沢長政がこの細川氏の内部対立に加わる「木沢長政の乱」が起きたため、細川晴元は将軍・足利義晴に木沢討伐を求めた。さらに稙長に、遊佐長教側との和睦を求めた。稙長がこれを拒否したため、将軍・義稙は遊佐派を切り稙長を味方につける行動にでた。これを期にいっきに河内支配を固めたい稙長は、熊野衆の国人や根来衆などの寺社勢力などの大和や紀伊の勢力支持基盤に3万人の勢力で木沢長政を討つために出陣した。1542(天文11)年に敵であった遊佐長教とも同盟して高屋城を回復し、幕府に復帰し河内守護となった。引き続き、河内飯盛城に篭もる木沢長政残党を攻め、さらに和泉国・松浦氏を討つ準備も開始する。これらの戦争には紀伊衆だけでなく、河内・大和・南山城・和泉の勢力が参加し、稙長がこれらの地域に影響力をもったことがわかる。この稙長政権では河内守護代に遊佐長教を任命し領国経営に当たらせた。今まで畠山尾州家を二分していた勢力を取り込んでの稙長政権が成立した。しかし、長教は守護と実力を二分するほどの権力を博した。その後死去する直前の1545(天文14)年にはすでに家督は晴熈が継いでいたが、稙長の意志は遺言で、能登畠山家の畠山義続を後継者に指名した為に混乱が起きた(詳しくは畠山稙長遺言、畠山義続の宗家相続!?参照)。し同年、能登畠山家当主の畠山義総(義続の父)が死亡したため実現しなかった。 その後の稙長の葬儀が行われないままになるほど家中が混乱していた。これは稙長に主導権を奪われても静観していた遊佐長教が、家中の実権把握を企図していたためであろう。
畠山長経<はたけやまながつね>(生没年不詳)
 左京大夫。尚順の次男。1534(天文3)年に守護代・遊佐長教らに兄・稙長が追放され変わって長経が当主に擁立された。その後1536(天文6)年、畠山総州家(義就流)との和睦が図られた畠山尾州家(政長流)・畠山総州家(義就流)それぞれ、一国の守護を2人で務めるという特殊な半国守護案に不服で遊佐長教に暗殺された。
畠山政国<はたけやままさくに>(?-1550)
 播磨守。尾張守。尚順の三男。河内守護。1536(天文6)年、兄の長経が遊佐長教らに追放されると、その弟・政国が擁立された。しかし半国守護にもめたのか、守護補任は遅れて翌年の1537(天文7)年となった。一方先に追放された政国の兄・稙長は政国擁立に不満で、何度も河内に復帰しようと試みたが実現しなかった。政国政権の実権は、守護代・遊佐長教によって握られており、畠山総州家の守護代・木沢長政とあわせて領国運営を行っていたらしい。幕府も半国守護の政国・在氏に命令するのではなく、守護代・遊佐長教、木沢長政に命令している事からも明かである。その後、1541(天文10)年に木沢長政が細川晴元政権に謀反を起こす「木沢長政の乱」が起こった。それに支援を与えた政国・在氏は、翌年に長政が敗れると政国・在氏政権は崩壊し、稙長の河内侵攻に耐えられなかった。
畠山晴熈<はたけやまはるひろ>(生没年不詳)
 播磨守・伊予守。尚順の四男。兄・稙長が死去する2ヶ月前の1545(天文14)年に晴熈は家督を相続した。しかし、晴熈の相続は遊佐長教のいいように運営される危険から稙長は能登畠山家の畠山義続を後継者に指名し(詳しくは畠山稙長遺言、畠山義続の宗家相続!?参照)、晴熈は一時実力行使も辞さなかったが、能登畠山の義総死去で義続の家督相続は立ち消え、晴熈が正式に家督を相続した。しかし、晴熈政権の実権は完全に遊佐長教が握っており、晴熈政権の奉行人・吉益匡弼、田川純忠、走井盛秀、萓振賢継らも遊佐長教の命令を執行していた。まさに晴熈政権は「名実共に遊佐長教の領国であったと言ってよいであろう。」(「戦国期河内畠山氏の動向」より)
 遊佐長教は1546(天文15)年、細川氏綱と筒井順昭と挙兵・上洛し、第二次細川氏綱の乱に参加した。この乱では長教が幕府と連絡を取り合ったり、足利義藤(義輝)の元服の役を管領畠山家に替わって請負うなど、畠山家にとって代わっている。しかし、後の摂津舎利寺の戦いで細川晴元に敗北し和睦している。しかし晴元方の三好長慶と婚姻・同盟した長教は、長慶が叔父三好義賢と対立すると、長教はまたもや細川氏綱を担ぎ出し、長慶に味方し反幕府勢力として挙兵する。この長教の反幕府行為のため、畠山晴熈は隠居することとなる。この戦いは長慶が勝ち、長教もそれに乗じて和泉・大和などを領国とするが1552(天文21)5月11日に暗殺されてしまう。
畠山高政<はたけやまたかまさ>(1527-1576)
 →武将列伝「畠山高政」の項を参照
畠山昭高<はたけやまあきたか>(?-1574)
 左衛門佐。政国の三男。初め政頼、後秋高。昭高。後世の史料によると1569(永禄12)年の守護代・遊佐信教、安見宗房が当主・高政を追放するクーデターで当主として擁立された言う。しかし、古文書などの一次史料では、1565(永禄8)年に家督を高政から譲られた。
 政頼(昭高)は、安見宗房を河内守護代の家柄である遊佐姓への改姓を許し、宗房を中心とした運営がなされた。宗房は「永禄の変」(将軍・足利義輝暗殺事件)における「天下諸侍御主」の弔い合戦を上杉謙信に提案し、畠山政頼(昭高)も遊佐信教も挙兵すると伝えている。このことからも、昭高政権の外交方針の基本は、足利義輝の弟・覚慶(足利義昭)の将軍擁立であり、三好家との対立であった。そこで昭高は、三好本宗家の中で中心となっていた三好三人衆と対立していた松永久秀と同盟し、遊佐信教は安見右近を派遣するなど連携を深めた。1566(永禄9)年2月17日に覚慶が還俗して義秋と名乗ると、政頼も偏諱を賜り「秋高」と名乗るほど河内畠山氏への義秋(義昭)の期待は高かった。秋高は松永久秀や和泉の松浦氏と連携し三好義継と度々戦いを繰り返すが、1566(永禄9)年の5月からの戦いで松永久秀は大敗を喫した。その結果、足利義秋陣営の状況は不利となり、阿波三好氏らが擁立する足利義維の子・足利義栄陣営の有利な状況となり、秋高や紀州の根来寺も三好三人衆らと和睦した。
 1568(永禄11)年、足利義昭が越前朝倉氏の元から織田信長を通して上洛する動きを見せると、それに呼応して、義秋陣営に、松永久秀・三好義継・安見宗房・畠山秋高・村上武吉・毛利元就らが結集し、将軍・義栄陣営の三好三人衆・三好長治・篠原長房らと対立した。将軍・義栄が病没すると義昭陣営が有利となり、同年10月には義昭が将軍に任官した。その結果、義昭陣営だった信長に近江の六角旧領が、松永久秀に大和国が、三好義継に飯盛城が与えられ、秋高も歴代畠山の居城である高屋城を回復した。安見宗房は秋高の家臣ではなく、将軍直臣の奉公衆となった。ここに、義昭陣営として幕府を支える河内畠山氏としての地位を畠山秋高は確立した。
 しかし、義昭陣営は織田信長の勢力を源泉としているため、畿内近国の中で多数の大名と敵対しており、その信長の外交政策にまた畠山秋高も巻き込まれていく。1571(元亀2)年には将軍・義昭と松永久秀の対立が表面化。それに合わせて、幕臣であった和田惟政と畠山秋高が松永久秀と敵対した結果、三好義継・三好三人衆・阿波三好家・松永家対将軍義昭・畠山秋高という対立軸になってしまった。そのため、1571(元亀2)年5月30日に秋高の拠る高屋城を三好康長らの三好三人衆に攻撃された。このような対立軸の中で秋高の政治状況も不安定になっていたと見え、1572(元亀3)年閏1月4日に、秋高は守護代・遊佐信教による暗殺未遂事件を受けていた。
 このような状況の中、昭高は幕府や信長との連携を度々天秤にかけていたようで、1573(天正元)年には反信長勢力方に味方したが、同年、将軍・義昭が信長によって追放されると再び信長に接近し始め、1574(天正2)年にその動きを察した遊佐信教の2度目に暗殺事件によって殺害されてしまった。

むすびに
 畠山尾州家氏(政長流)は、戦国期にもそれなりの勢力を保ったと言える。特に稙長期は義就流畠山在氏と結んだ畠山政国(政長流)を河内より追い出したり、尚順・稙長期には越中支配を巡って能登畠山氏との提携も見られることから、義就流に対してかなり優位にたっていたことは間違いない。織田信長に擁された足利義昭に、畠山尾州家の当主である畠山昭高が河内半国守護に任命されている事を考えると、単なる傀儡ではなく、幕閣を担う力として期待されていたようであったと言える。しかしながら、畠山尾州家(政長流)は畠山総州家(義就流)との対立の結果、家中の分裂が深刻になり次第にその力を失った。その結果、河内畠山の両家は細川氏や三好氏など他勢力と常に連携をしなければならず、周囲の勢力との連携対立を繰り返したため、一層その政治状況を複雑化させるに至り勢力の減退を招き、滅亡に至ったと言える。の子孫はその後、江戸幕府の高家となって家名を保っている。

☆参考文献
弓倉弘年「戦国期河内畠山氏の動向」『国学院雑誌』1982年8月号
共著『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社.1986年
弓倉弘年「天文年間の畠山氏」『和歌山県史研究』16号.1989年
久留島典子『日本の歴史13一揆と戦国大名』講談社,2001年
小谷利明「畿内戦国期守護と室町幕府」『日本史研究』510号,2005年
天野忠幸『松永久秀と下剋上』平凡社,2018年
天野忠幸(編)『戦国武将列伝7畿内編【上】』戎光祥出版,2022年

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