畠山稙長遺言、畠山義続の河内畠山家相続!?

 1545(天文14)年に河内畠山家当主・畠山稙長が死去。稙長が死去した際の遺言に、「能州守護息男」を後継者に指名した。なぜ能登畠山氏から後継者を指名したのか?その真意はなんなのか?先行研究をもとに真相に迫ってみたい。

(古文書a)「天文十四年日記」(『加能古文書』1310)
古文書内( )は筆者加筆
河内辺事、家督之儀未定候、故尾州(畠山稙長)如遺言者、能州守護息男(畠山義続)候、依之当時其扱候、然処ニ不慮ニ能州匠作入道(畠山義総)死去候間、兎角打過候、多分可此人之旨其沙汰候、佐々霜台(六角定頼)之扱候、但於河州尾州舎(畠山晴熈)衆各其覚悟之由候、多分可闘乱之旨、京中上下其沙汰候、恐々謹言、

(天文十四年)八月十九日  (吉田)兼右
大内(義隆)殿
畠山稙長が「能州守護息男」を後継者に指名


(古文書b)「栗棘庵文書」(旧版『七尾市史資料編第五巻P.143)
古文書内( )は筆者加筆
将又遊佐豊後守(秀頼)未申通候へ共、只今以書状申候。相意得可申入由候。

態一筆令啓候。仍尾州(畠山稙長)為弔従此方之御使分、従貴寺御出世之御方御一人御下向候者、可。為祝着乃由候屋形(畠山義総)香奠千疋、従左衛門佐(畠山義続)方同五千疋被差上候。御意得候仰届候趣、相意得可申旨候。
彼家督未相定候間、直書者無之候。遊佐河内守(遊佐長教)方、従遊佐豊後守方之書状迄候。可其御意得候。彼香奠已上六千疋、観音坊与申山伏申付、只今被差上候。彼山伏河内迄御供可仕候由被申付候。委細彼者可申候。御造作之義無是非候。次従拙者河内之書状共も上申候。何も被御覧分、預御届候者可入候。猶従岑首座演説候間不詳候。
恐々謹言。

 (天文十四年)六月八日 (温井兵庫助)総貞(花押)
 栗棘庵 参 侍者御中
畠山義総・義続が香典を贈るものの、河内畠山の代表者未定で遊佐長教に弔意を表したとされる。

★関連年表★
西暦 和暦 月日 出来事
1541 天文10 8月 本願寺の使者に義総に代わり義続が対面する(天文日記)。義続の初見。
1545 天文14 5月15日 河内畠山家当主・畠山稙長が死去。
6月8日 畠山義総義続が稙長死去の香典を遊佐長教に送付(古文書bより)
7月12日 能登畠山家当主・畠山義総が死去。
8月19日 義総が死去し、能登畠山氏の家督を義続が継ぐこととなり河内畠山家が混乱している様子(古文書aより)

はじめに
 1545(天文14)年に河内畠山家当主・畠山稙長が死去した際の遺言に、「能州守護息男」を後継者にした事に端を発する河内畠山家の家督相続問題。この問題は大きくなり、稙長の葬式すら延期されていた。しかし、一体義続に家督を相続させるという稙長の真意はなんなのか?そしてそれがどうして実現できなかったのか?さらに先行研究では稙長の遺言による相続予定者「能州守護息男」は畠山義続でなく他の人物であるという説もある。河内畠山家にとっても能登畠山氏にとっても大きな出来事であるのに、その真相はまだ良くわかっていない。そこで河内畠山家研究を行っている諸氏が挙げている理由を示し、能登畠山側からの考察を交えてこの問題に迫る。

(1)河内畠山家側の理由
 ここで、この相続問題を検討している諸氏の見解をまとめたい。

(A)弓倉弘年氏(「戦国期河内畠山氏の動向」「天文年間の畠山氏」より)
 弓倉氏の「戦国期河内畠山氏の動向」見解によると、畠山稙長の死去する前にすでに家督は稙長の弟・晴熈に譲られたと言う。しかし、稙長の死去の際、相続者は白紙に戻された事が、稙長の葬式が度々延期されている事からも明らかとしている。そこで弓倉氏は、この稙長の遺言の真意を、晴熈擁立は遊佐長教の傀儡と稙長は考えていて、長教の力を抑える為に能登から養子を迎えようとしていたのだと説明する。
 弓倉氏のその後の論文「天文年間の畠山氏」では「能州守護息男」について考察している。即ち義総を「能州匠作入道」とするならば、義続を「匠作入道息」とするのではないかとした上で、12代将軍義晴へ家督踏襲を謝した四郎某を「能州守護息男」に比定しようとした。そこで従来四郎=畠山晴熈とされていたものを再考察し、別人という結論を得たが、四郎=「能州守護息男」という決定的な結論には至っていない。

(B)田中政行氏(「畠山義続に関するニ、三の問題(下)其のニ」より)
 田中氏は稙長が義続を後継者に指名した理由を次ぎのように示している。「義続の猶子契約は、越中の一向一揆に対し成立した義総と植長の政略上の約定である。(中略)義続は能登在住ではあったが、義総では名目的に人質の提供、植長には不在守護の自らに代る監視者の設置の意味があった。」(注1)としている。義総と稙長との信頼関係を再確認するための政略と位置付けている。その上で、義続への家督相続の遺言について、同氏は「不在守護として越中事情に暗く、そのため父の代より数多くの争乱の耐えぬのを心痛し、隣国能登で越中事情に明るい義続にその将来を託したものであろう。」と評している。

 しかし、この論にはひとつの問題がある。義続が河内畠山家の家督を相続すれば、越中での影響力は回復するかもしれないが、河内畠山氏の基盤である河内・と隣国・紀伊への影響力は低下するのではなかろうか。義続は河内在国したことはなく、河内・紀伊の事情にはあまり通じていない。そうであれば、河内・紀伊の国人たちの反発は必至であり、一層遊佐長教の介入を許してしまうのではなかろうか。私はこれが稙長の真意とは到底考えられない。

(C)東四柳史明氏(「戦国期の能登畠山氏と五山叢林塔頭」より)と、村井祐樹氏(『六角定頼』より)
 東四柳氏は「戦国期の能登畠山氏と五山叢林塔頭」において、「佐々霜台(六角定頼)之扱候、但於河州尾州舎(畠山晴熈)衆各其覚悟之由候、多分可闘乱之旨、京中上下其沙汰候」という文章から「当時の風聞によれば、畠山宗家家督の後継者には、幕府内部で強い発言力を持っていた近江六角定頼(能登畠山氏の婚戚)がバックアップする義続が本命視されており、そのために稙長の舎弟たちが抵抗の構えを見せていたという」と述べている。『六角定頼』(ミネルヴァ書房、2019年)著者である村井祐樹氏は「これは六角定頼が決めました。ただし河内の国人衆や稙長の弟(政国)を担ぐ物達は、それぞれ考えがあるようです。おそらくは争いになるだろうと、京都ではもっぱらそういう話になっています。」と訳している。つまり、河内畠山家中での路線対立はもはや京都まで伝わってしまうほどの逼迫したものだったと言える。(注2)

(D)高森邦男氏(「戦国期における北国の政治秩序について」より)
 高森氏は『北陸社会の歴史的展開』において稙長の真意を間接的ながら述べている。すなわち、義続が越中における神保と椎名氏の争乱を調停し、河内畠山家の分国越中を維持するのに腐心し、畠山体制の維持に積極的に関わっている事例を挙げ、「稙長の死去の際して実現こそしなかったものの、その家督として義続が推挙されたと伝えられる程に本宗家の信頼を獲得する事が出来たのである。」と述べている。短い文ではあるが、稙長の遺言に対して、稙長の義続への個人的な信頼関係という理由付けをしている。

 以上の(A)〜(D)の論を考えたとき、(C)の東四柳氏と(D)の高森氏の見解は非常に短い文ではあるが、一番自然で受け入れやすい説であると考える。16世紀中頃になると河内畠山家の中で畠山尾州家(政長流)の支配体制に変化が見え始めた。それは畠山尚順の時代である。分国のうち、紀伊支配を畠山尚順が、京都で幕府への出仕を幼少の畠山稙長(鶴寿丸)とその腹心の丹下盛賢が、河内支配を守護代・遊佐順盛が、和泉支配を尚順の子・細川晴宣がそれぞれ行うというもので、それぞれが柔軟に対応できるようにしたものだが、当主である畠山尚順の影響力が薄くなっていた。実際、尚順は「堺公方」方として活動しているが、その子・稙長は将軍・足利義晴方として別の動きをしている。無論、畠山尚順の分国の中で唯一畿内に無い越中での影響力低下は言わずもがなの状況であり、守護代・神保氏が独立的な動きを見せていた。さらに隣国越後の守護代・長尾為景・景虎らの越中への影響力が強くなっていた。それらの人物と稙長の仲介役として奔走する能登畠山家の畠山義総義続父子に対して(注2)、稙長にとってどれだけ頼もしく映ったか想像に難くない。さらに、この頃の河内畠山家家中は、一応守護・畠山稙長の元で統一されているが、1542(天文11)年まで守護・畠山稙長と守護代・遊佐長教で家中が二分されていた。長教は当然稙長後の復権を見据えていると考えられ、稙長にしてみれば守護家の権力を基盤を固めておくことを考えていたはずである。その稙長は以前将軍・足利義稙の復権を図る時に尼子経久と同盟している。遠方の勢力でもしっかりと情勢を見据えて考えることができているので、混乱した家中を治める為には能登畠山家の権力基盤を利用しようと考えたと思われる。ただ、六角定頼の後援がある河内畠山氏の家督が畠山義続となれば家中への影響力も回復できると考えられる一方で、強力な権力を持っている者(ここでは義続のこと)が当主になれば河内畠山家で実力を得てきた遊佐長教らの家臣たちの反発が一層強くなることは間違いない。大名や家臣の派閥という河内畠山家中の問題だけでなく、六角氏の外圧という要因も加わることで、権力闘争が複雑化するのは間違いない。それをもって、河内の国人衆や稙長の弟(政国)を担ぐ物達は畠山義続の家督相続に対して反対したのではなかろうか。

(2)能登畠山家側の事情
 ここまでは河内畠山研究の実績から理由を考えてきたが、今度は後継者を出す側としての能登畠山家から理由を推察したい。能登畠山家方からこの稙長の相続問題を取り上げた論考は今のところない。そこで、筆者が今度は能登畠山家側の状況から推察していく。ただし、筆者の考えにより「能州守護息男」=畠山義続という前提で進めていく。

 弓倉氏は「天文年間の畠山氏」において、能登畠山氏側からの事情にて畠山義続は有り得ないという理由として次ぎのように示している。「義続が家中をとりしきっていたのであれば、わざわざ河内へ行くとは考えられない。」として「兼右自身幕府の当事者ではないので、稙長の遺言も伝聞であろう。「能登守護」と記したからと言っても、義総とは限らず、能登畠山氏の一族と解しておいた方が良いのではないだろうか。」と述べている。
 義続は義総の次男である。長男に畠山義繁という者がいたが、1533(天文2)年6月5日に早世したので、早くから次男の義続が義総の後継者として周囲からも認められたようだ。1541(天文10)年8月には、本願寺からの使者に義総に代わって対面しており(「天文日記」より)、同年9月には「匠作入道(=義総)子息佐殿(=義続)」(今川為和集)と見え、左衛門佐の官途を名乗っているのも知られる。このことからも確かに義総の後継者と義続と認められているが、果たして弓倉氏が言う能登畠山の「家中をとりしきっていた」とは言えない。古文書bを見ると、父義総の稙長への香典が1000疋(=1万貫)であるのに対して、義続がその5倍の額を送っている。しかし、畠山家中の人物である温井総貞は文書の文面でも義総を「屋形」と称し、義続を「左衛門佐」と表記している。さらに、義続よりも義総の名前を先に出しており、身分が上であることを示している。義続が金額が5倍なのにあくまでも能登畠山家中の上位者は「義総」なのである。では一体なぜ義続は5倍の香典を送ったのか。これは、「義続が宗家の家督を継承する立場にあった」(古文書aより)からではないだろうか。

 ではなぜ六角定頼は河内畠山家の家督相続に争乱覚悟で介入を試みたのか。そして、なぜ畠山義続を河内畠山氏の家督に据えたかったのか。それは(1)(C)で東四柳氏が述べたとおり、六角氏と能登畠山氏の婚戚関係によるだろう。これより先の1539(天文8)年に六角定頼の子・六角義賢に義総の娘=義続の妹が嫁いだ。能登と近江と遠く離れた地の婚姻関係を結ばせた理由は、加賀の本願寺勢力にある。すなわち、畠山義総に取っては本願寺勢力と結び、加能の国境で反乱活動を行っている畠山九郎に対する本願寺の支援を止めたかった。そこで、畠山義総は幕府にも本願寺に影響力のある六角家に娘を嫁がせることにした。それは、陸路で近江まで通行する場合、加賀を通る事は避けられず、それを持って六角家の能登畠山家に対する協力を得ようとしたからである。この作戦は功を奏し、強い六角家の要請で、一応ではあるが、畠山九郎への援助は停止された。六角定頼にとっては、幕府への信頼の厚い畠山義総に恩を売ることで、より政権基盤を安定化させようと思ったのであろう。そうであるとすれば、近江よりほど近い河内畠山氏の家督が、能登畠山家と関係の深い人物になれば、よりコントロールをしやすくなる。


 畠山尾州家(政長流)畠山総州家(義就流)の両畠山家の内紛から河内畠山家基盤は非常に脆弱であった。そこでなんらかの河内畠山家の中興策が必要であったことは想像に難くない。そこで畠山稙長は能登畠山の後継者たる義続を河内畠山家の家督に据えることで、河内畠山家と能登畠山家の再統合を果たそうとしたのではなかろうか。もともと1408(応永15)年に河内から分家した能登畠山家であるので両家の関係は深かった。そこで、再統合が叶ったとすれば河内畠山家の権力強化と越中での影響力回復も可能である(注3)。しかし、宗家と分家の統合など史実ではあまり例がなく、あまりに突飛過ぎる考えで、これは筆者の私案であり、考えの1つに過ぎない。が、そう考えれば、畠山稙長と六角定頼、畠山義総という三者の思惑が合致する事となり、「故尾州(畠山稙長)如遺言者、能州守護息男(畠山義続)候」という状況が出現したのではないか。

 では最後に義続が河内畠山家を継ぐとすれば一体誰が能登畠山家の家督を継ぐかという側面から考えたい。1545(天文14)年当時、家督相続を打診された義続は29歳ほど(年齢の義綱仮説より)であった。義続の嫡子・義綱は11歳ほどであり。現当主・義総があと10年長く生きれば、嫡孫の義綱21歳で十分家督を相続する事は可能な年齢となる。そこで、稙長の後継者を義続とし、義総の後継者を嫡孫の義綱としようとしたのではないかろうか。嫡孫相続は、能登畠山家では前例がある。2代義忠−3代義統である。この場合は、義忠の嫡子・義有が早世したという理由があったが、嫡孫の家督相続は不可能なことでも、突飛な事例でもない事は明かである。そうすると弓倉氏の「義続が家中をとりしきっていたのであれば、わざわざ河内へ行くとは考えられない。」という指摘は再考の余地があることになる。また、稙長自身6歳で元服し、家督を正式に継承している。つまり、義綱の若年での相続も畠山義総が存命ならば問題ないと考えていたのでは無いか。

むすびに
 河内畠山氏を先行研究している諸先輩方の考えをまとめていると、やはり能登畠山家側の事情についても精査していかないと、河内畠山家の家督相続問題は論じることができないと考える。加えて畿内に勢力基板を置く河内畠山氏の権力闘争は、幕府も含めた複雑化している畿内の他の勢力との関係を抜きには語ることができない。上記で見てきたように当時の事情を考えるとき、高森氏が指摘する“稙長の個人的信頼な義続への信頼”に加え、東四柳氏の“六角定頼がバックアップする義続の権力”から家督を託した。さらに畠山義総の本願寺対策との複合要素が混じったことを考えて、畠山稙長の遺言での後継指名は畠山義続であったと結論づける。しかし、畠山稙長が狙った河内畠山家の権力基盤強化策としての畠山義続の家督相続は、畠山義総が稙長とほぼ同時に死去してしまうというアクシデントによって実現できずに終わる。しかも、稙長の相続をめぐって河内では葬儀が延期されるほど家中が混迷し、六角の介入への反発から河内守護代・遊佐長教に付け入る隙を与えてしまうことになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

(注釈)
(注1)
引用文中の「植長」は「稙長」の誤りである。
(注2)ただし、村井氏は前掲論文で、後継者を能登畠山の一族である「畠山晴俊」に比定している。
(注3)能登畠山家は越中に対して河内畠山氏からの意向で守護を行使するという「守護代行」という形で関与していた(詳しくは北国の政治秩序「畠山体制」参照)。それゆえ、河内畠山氏と能登畠山家との「再統合」が実現すれば越中に対する影響力は強まると言える。

参考文献
田中政行「畠山義続に関するニ、三の問題(下)其のニ」『七尾の地方史』15号.1980年
東四柳史明「戦国期の能登畠山氏と五山叢林塔頭」『北陸史学』26号,1977年
弓倉弘年「戦国期河内畠山氏の動向」『国学院雑誌』昭和57年8月号
村井祐樹『六角定頼』ミネルヴァ書房、2019年
弓倉弘年「天文年間の畠山氏」『和歌山県史研究』16号.1989年
(共著)『北陸社会の歴史的展開』能登印刷.1992年
(共著)『新修七尾市史 通史編T(原始・古代・中世)』七尾市.2011年
天野忠幸(編)『戦国武将列伝7畿内編【上】』戎光祥出版,2022年
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義綱公式見解「稙長の遺言対象者は義続である。」

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