北国の政治秩序「畠山体制」

 戦国期の越中国は守護河内畠山家の影響が全く及ばないとか、無政府状態であり、守護代神保氏・椎名氏・遊佐氏など在地の武将が好き放題の領国運営を行っていたなど言われる。果たして本当にそうなのであろうか。畠山家の影響力は全く無かったのであろうか。ここでは、戦国期越中国の運営を特に河内畠山家と能登畠山家の関係を中心に論じてみたい。

(1)「畠山体制」発足のきっかけ-越中永正の乱(神保慶宗征伐)から-
 16世紀初頭の越中国は、守護代神保慶宗を中心とした慶宗派と反慶宗派に分かれて互いに争い混乱していた。越中守護は管領家である河内畠山家であるが、他の分国である河内・紀伊より越中国は遠く離れており、守護の影響力は低下していた。さらに、河内畠山家は応仁の乱より続く義就系と政長系の対立によって家中は混沌としていて、越中支配が手薄になっていた。しかし、時の越中守護・畠山尚順は守護に反抗する慶宗派を討伐しこの状況を打開しようと1519(永正16)年に畠山勝王を総大将として、さらに能登畠山氏・越後長尾氏の協力を得て第1次神保慶宗征伐を起こした(越中永正の乱)。この戦は負け戦に終わったが、さらに翌年、尚順は征伐に直接関与し神保慶明を尚順の代行総大将として第2次神保慶宗征伐が行われた。今度は、第1次征伐の時よりも能登畠山家との連携を深めて行った為、慶宗を敗死に追いやる事が出来た。
 この戦では、第1次征伐では総大将の畠山勝王が長尾為景に出陣を請う文書形式となって越中守護畠山家が越後長尾家に征伐を「要請」する形で行われた。しかし、第2次征伐では尚順が為景に対して高圧的な態度で臨んでおり、長尾家に対して「命令」するという形で征伐が行われている。これは尚順が為景に対して越中国新川郡の守護代の地位を約束して、形式上尚順の家臣として征伐軍に参加させている事による。また、能登畠山との関連では第1次征伐では越中守護畠山家と能登畠山家の連携は消極的であり、能登畠山家の越中への派兵も後手後手になっている。一方、第2次征伐においては、尚順が能登畠山家との連携を深めるよう為景にも命じている通り、能登畠山家の積極介入が伺える。すなわち、神保慶明が尚順の代行として越中永正の乱に関与しているが、実際に為景に対する出陣に関する連絡やその謝辞などの指揮・統括は能登畠山の畠山義総が越中・多胡城にて行っているのである。ここに畠山宗家の要請に応じて能登畠山家が実務を代行するという体制が出来あがり、能登畠山家の「越中守護代行」的地位が確立する事になるのである。この状態を、高森邦夫氏は「本宗家畠山尚順が、政治的・軍事的に束ねる事ができる領域という程の意で(中略)こうした畠山惣国内の政治秩序を畠山体制とよぶことにする。」(『北陸社会の歴史的展開』より)と述べている。
 つまり、河内畠山家では越中国の争乱を契機に間接的にでも越中をコントロールしようとして、同族の能登畠山家に越中への影響力を認めることになり、また能登畠山にとっても自国能登の安定のため隣国越中の政治的安定は必要不可欠であり、越中に介入する必要性があり、相互に利害が一致していたのであった。事実、能登畠山家は越中永正の乱において進軍のため越中氷見に湯山城を築いていたが、戦後はその周辺を直接支配して前線基地化した(詳しくは能登畠山氏の氷見支配参照)。これは、能登畠山家が積極的に越中に関与しようとする姿勢であろう。こうして1520(永正17)年から“尚順−義総体制”で「畠山体制」は発足した。その体制は河内畠山家を頂点として河内畠山家(越中守護)>能登畠山氏(越中守護代行)>越後長尾氏(新川郡守護代)=神保氏(射水・婦負郡守護代)>椎名氏(新川郡又守護代)として階級を構成した(注1)

(2)「両越能三国同盟」
 越中永正の乱の戦後処理と北陸における守護勢力の結集として、能登の畠山、越中の三守護代(神保・椎名・遊佐)、越後の長尾において三国同盟が結ばれた。これは、一向一揆が越中進出した事などに対抗する措置として理解できる。というのは、越中守護の尚順が越中に在国し、強力な支配体制が築けない以上、能登畠山・越後長尾などの協力を得て、支配体制を維持するのが適切だと考えたからだ。また、勢力を増す一向一揆も反守護的な大一揆方と守護勢力に協調的な小一揆方(加賀三ヶ寺)の分裂傾向にあったため、北陸の守護諸勢力は守護同士協調し、さらに小一揆方と連携を取ることによって政治的安定を図ろうと画策していた。つまり越中永正の乱の戦後においても越中守護・他北陸の守護との思惑が一致し「畠山体制」は維持されたのである。
 この後、しばらく「畠山体制」は表に出なくなる。畠山尚順は、応仁の乱以来対立する総州畠山氏(義就系)尾州畠山氏(政長系)のなかで、尾州畠山氏(政長系)であり、従来より総州畠山氏(義就系)の当主・畠山義英と争っていた。始めは尚順の尾州畠山氏が有利であったが、尚順が家臣によって堺に追放されたことによって、再び両畠山氏の争いは混沌として安定をみなかった。その為、総州畠山氏(義就系)の当主・畠山在氏が没落し尾州畠山氏(政長系)の当主・畠山稙長の優位が確定する天文後期に至るまで政権は安定しなかった。この混沌期は「畠山体制」が知られなくなった時期と一致する。つまり越中守護畠山家(河内畠山家)が内紛により越中に関与するほど余裕が無かったのであろう。さらに言えば、越中永正の乱の戦後の「両越能三国同盟」がとりあえず上手く機能してた事にもよろう。

(3)畠山義続の「畠山体制」−神保長職との関係−
 越後長尾家では1542(天文11)年長尾為景が病死すると、その跡を長尾晴景が継いだ。しかし、晴景が長尾家を継ぐと家臣の内乱が激しくなり、長尾家の勢力は著しく衰えた。その結果、越中新川郡守護代としての長尾氏の影響力も少なくなり、又守護代として新川郡を本拠地としていた椎名長常の勢力も衰えていった。これに乗じたのが神保長職である。長職は1543(天文12)年に突如神保氏の支配域を東に越えて富山城を築城し在城したのである。これに反発した椎名氏によって神保氏との争乱が始まった(「越中大乱」という)。
 この争乱に対し、能登畠山当主・義続は一向衆が神保・椎名のいずれにも加担しないよう要請し、また両者の停戦斡旋を行った。結局は神保長職の富山城在城を認めるという長職寄りの裁決を義続は下した。これらの行為は、義続が自発的に行ったものでなく、書状に「大形彼国様躾、唯々河州江以頭書申遣候」(文書A参照)とあるように、河内畠山家の要請を受けて実施されたものである。この事は、天文期に至っても「畠山体制」が継続されていることを示す。この「畠山体制」に則った調停は上手くいき、神保・椎名氏は和睦したようである(注2)。こうして“稙長−義続体制”で活躍した義続を、当時政情不安にあった尾州畠山氏(政長系)当主・畠山稙長は非常に頼もしく感じ、義続を遺言において稙長の後継者(畠山宗家の家督後継者)として(1545年に)指名している(家督相続に関するコンテンツへ)。

(文書A)前田育徳会所蔵文書 前田育徳会尊経閣文庫
畠山義続書状
京都南方儀、具示給候、畏入候、猶以相改事候者、承度存候、仍就越中取扱之儀、天平寺(石動山)相談、大宮坊并神保宗左衛門尉・半隠斎至于富山指越候、大形彼国様体、唯々河州江以頭書申遣候、被加芳言候者、可為本望候、恐惶謹言
(天文十二年)十月七日 (畠山)義続(花押)
伽那院大僧正御坊
人々中
河内からの要請で越中の調停として神保宗左衛門尉と飯川宗春を遣わす。
 
  (文書B)栗棘庵文書 京都市
温井総貞書状

(端書)「温井備中守」
追而令啓候
一、定林寺上秉払之儀、無事成就候事、併御入魂故満足候、
一、志津良年貢銭之儀、此間年々致未進候由尤候、近年依
 世上悪、諸事不相調之由申事候、雖然涯分堅申付、可進納之由、切々彦左衛門かたへ致催促事候、尚以聊不可存疎意候、委曲釣山御存知之義候、
一、越中辺之儀、神保(長職)・椎名(長常)間之儀、一和相調候、乍去土肥・斎藤々次郎・鞍河進退之儀、于今相滞候間、而被差越使者、被申曖半候、将亦南方辺之儀、相替子細候者、後更可示預事本望候、猶後音候、恐々謹言
(天文十三年)七月廿八日 (温井)総貞(花押)
栗棘庵
参貫報

(富山城の位置)
越中1−神保長職
※地図は「戦国を楽しむ」より。無断転載禁止※

(4)畠山義綱の「畠山体制」−神保長職との関係−
 畠山義綱の時代になると「畠山体制」は微妙な変化を見せるようになった。すなわち、越中に関する河内畠山家の関与がなくなるのである。これは、高森邦男氏が述べているように畠山体制は「稙長死を契機に本家の脱落、能登畠山氏の相対的地位向上などの変化がみられた。」といえる。尾州畠山氏(政長系)は稙長死後(1545年)、当主の晴熈や高政の権力が低下し、その実権を家臣の遊佐信教に握られるようになった。このような政情から越中に関与している余裕がなくなったのである(注3)
 しかし、「畠山体制」は河内畠山家の関与無しでも能登畠山家当主・畠山義綱がその盟主を勤めることによって存続した。越中では1560(永禄3)年に神保氏が椎名氏を圧迫し、それに対し椎名康胤が長尾景虎(上杉謙信)に支援を求め、景虎による神保長職征伐が開始された。この戦いは景虎が長職を敗退させて越後に戻ると再び長職が越中に戻るという一進一退が続いた。しかし、1562(永禄5)年になってついに神保氏は追い込まれる事になり、長職は畠山義綱を頼り、長尾景虎との和平の斡旋を依頼した。この調停の結果、義綱は神保長職に対し富山城の領有を認めなかったものの、神保旧来の領地である射水・婦負郡の安堵を認めた。これは、かなり神保氏寄りの裁定ではあったが、景虎もこの裁定に同意し兵を引いた。なぜ長尾景虎はこの裁定を受け入れたのであろうか。それは畠山義綱の巧みな裁定があったからである。新川郡守護代である景虎は、いくら越中を統括する義綱でも新川郡のことなら物申すこともできたが、射水・婦負郡においては何も発言できる立場になかった。そして義綱は、義続が長職に1544年に領有を認めた富山城を放棄させ、すべて「畠山体制」発足当時の形に戻す事で神保・長尾・椎名を納得させたのである。
 これはまさに、「畠山体制」の代行人であり現盟主である能登畠山氏の当主・義綱に長職が頼った結果であり、永禄期において、しかも河内畠山家が関与できなくなっても「畠山体制」が有効に機能していた事の徴証である。以後、神保長職は畠山義綱の保護の下、増山城に拠り領国再建に努めることになった。また、義綱は増山城にも程近い守山城(小矢部川河口近く)を能登畠山氏が掌握し、神保氏を監視する事にし、神保氏を能登畠山氏が掌握することに努めた。ここに、神保氏は射水・婦負郡を安堵されたものの能登畠山家に属さねばならない立場となった(注4)

(1562年頃の越中勢力範囲)
1562年頃の越中勢力範囲
※地図は「戦国を楽しむ」より。無断転載禁止※

(5)「畠山体制」の終焉・崩壊
 義綱により旧に復した「畠山体制」であったが、この体制も1566年永禄九年の政変によって畠山義綱が追放され、新たな七尾城主として畠山義慶が擁立されると弱体化した。つまり義綱を中心とした「畠山体制」は1562年〜1566年までの僅か4年で瓦解したことになる。では、1566年以降「畠山体制」は新当主・義慶に継承されたのであろうか。答えは否である。その理由は、永禄九年の政変によって畠山義綱が、追放後も復権工作を続けた為である。義綱が追放された当初、義綱方・義慶方双方の勢力は互角であった。義綱が復権する可能性も多いにあったわけで、その為神保長職・上杉輝虎(謙信)は新たな能登畠山当主・義慶に味方する事なく、近江に亡命した畠山義綱を支援する事にした(注5)。つまり「畠山体制」の盟主は永禄九年の政変に以後も義綱から義慶に継承されなかったのである。盟主が「畠山体制」の当地国である越中近くにいないことは、「畠山体制」の弱体化を招くので、長職・輝虎は一刻も早い義綱の国政復帰を期待した。しかし、1568年に起こした復帰工作である能登御入国の乱であえなく義綱は敗れてしまった。この結果、義綱方と義慶方の戦力差は大きくなり、義綱の国政復帰の望みは徐々に薄くなっていった。またその為、長職も輝虎も義綱を見限り義慶へ接近するようになった。ただ、これが「畠山体制」の盟主変更とは成り得なかった。というのは、畠山義慶は重臣に担がれた当主であり、実権をそれほどもっていなかったし、能登畠山家中の政情も不安定だっからである。「畠山体制」の有効力は越中守護=河内畠山氏という「権威」と能登畠山氏の「武力」にあり、それを能登畠山家の重臣が代わって行ったり、盟主の家の政情が不安定な時には発揮できないのであった。つまり、河内畠山家が関与できなくなった後の「畠山体制」は、義綱の専制政治という政治的・軍事的にも強力で安定した治世によって辛うじて維持できていたのであり、それを欠いては、「畠山体制」は崩壊せざるをえなかったのである。それゆえ、義綱の復帰がほぼ絶望となった1568年に「畠山体制」は終焉を迎えたと言える。

<以上のことを表にまとめると以下のようになる。>

「畠山体制」
西暦 中心人物 越中守護代行 射水・婦負郡
守護代
新川郡守護代
(新川郡又守護代)
砺波郡守護代 備考
1519 畠山尚順 畠山義総 神保慶宗 椎名慶胤 遊佐氏
(実態は
一向一揆に
占拠された)
越中永正の乱
1520 神保慶明(?) 長尾為景
(椎名慶胤)
1544 畠山稙長 畠山義続 神保長職
(富山城)
長尾晴景
(椎名長常)
椎名の領地を越え
富山まで神保領になる。
1545 不在  
1562 畠山義綱 神保長職
(増山城)
長尾景虎
(椎名康胤)
神保長職の領地を削減。
射水・婦負郡に限る。
1566 畠山義綱
(近江に亡命中)
上杉輝虎(謙信)
(椎名康胤)
神保長職・上杉輝虎は
畠山義慶政権を認めず。
1568 畠山義綱の復帰がほぼ絶望となり、「畠山体制」が終焉。

(注釈)
(注1)実際には強大な軍事力を持った越後長尾氏が神保氏を圧倒しているので、河内畠山家>能登畠山氏>越後長尾氏>神保氏=椎名氏という力関係になっていた。また、新川郡守護代−又守護代の関係から越後長尾氏と椎名氏の関係は協調関係にあり、そのため椎名氏は長尾氏の力を背景にその後も神保氏に対抗していった。
(注2)神保・椎名両氏は義続の調停によって和睦したものの、椎名から独立していった土肥氏、反神保を貫いた斎藤氏、神保氏に加担した鞍河氏らの越中国人による争いは続いた(文書B参照)。
(注3)それでも、能登畠山家と河内畠山家(尾州畠山流)との交流はあったようだ。1554(天文23)年に、河内守護代である安見宗房が能登国に使者を送る際、本願寺に路地の安全に関して謝していたことが、「天文日記」の天文23年6月9日の条に記されている。尾州畠山氏の当主である畠山高政はこの頃、反幕府勢力である三好長慶に追われて近江に逃げた足利義輝と行動を共にしている。守護代の安見宗房も行動を共にしているので、この動きは、将軍家と能登畠山家を間接的につなげる使者であったと思われる。
(注4)逆の立場からすれば、神保氏が能登畠山氏に属するということは、椎名氏・長尾氏からの侵攻を能登畠山家氏を楯に守ることにもなる。能登畠山氏と長尾氏は同盟関係にあり、能登畠山家に属する神保氏を長尾氏は攻撃する事ができないからである。つまり、領国復興準備中の神保長職にとっても、能登畠山氏に属することはメリットがあったと思われる。よく神保氏はこの頃「長尾家に属した」と言われるが、それは有り得ない。というのは、長尾家は公式には射水・婦負郡に対して何の権限も持たないのであるからである。また、本当に長尾家に属したのであれば、1569年に長尾家が神保氏を攻撃したのに説明がつかないし、1570年に神保長住(織田派)と神保長城(上杉派)に分裂した理由も説明がつかない。これは、能登畠山家に頼っていた神保家が能登畠山家の弱体に伴ない、その頼るよりどころに迷った結果と言えるのではないか。
(注5)この結果、守山城にいた能登畠山氏の守将は親神保勢力より反神保勢力に挿げ替えられたと言う(久保尚文氏の『越中中世史研究』による)。

主な参考文献
久保尚文『越中中世史の研究』桂書房.1983年
高澤裕一(編)『北陸社会の歴史的展開』能登印刷.1992年
弓倉弘年「天文年間の畠山氏」『和歌山県史研究』16号.1989年
etc・・・・・。

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