畠山総州家(義就流)関連人物特集

 河内畠山氏とは畠山基国の嫡男・畠山満家を祖とする管領家の事である。応仁の乱で争った、畠山義就と畠山政長は河内畠山家の嫡流である。義就流畠山氏は義尭が管領に就任した事から幕府との繋がりはあったようだ。しかし、それも細川氏との関係からのものであって義就流畠山氏自身の力量ではなかろう。その証拠に、義就流の当主は尚誠の永禄年間の微証を最後に知られなくなる。なお、義就流畠山氏は上総守の官途を名乗るものが多く、「畠山総州家」とも言える。ここでは、義就より始まる家柄を畠山総州家と呼ぶこととする。
畠山義就<はたけやまよしなり>(?-1490)
 右衛門佐、伊予守。義夏。持国の嫡男。畠山総州家初代当主。父持国は初め実子がいなかった為、甥の政長を養子にする。しかし、義就という実子が誕生した為、実子に家督を継がせようとした事から、義就派と政長派の対立が始まる。細川勝元の支援を得た政長に追われ、伊賀に撤退するが、1455(康正元)年に将軍の命により政長派と和睦するが、1460(寛正元)年には政長等の画策によって、幕府に敵視され、朝廷には朝敵にされ河内若江城に逃げて遊佐国助等とともに抵抗する。山名・細川・武田らの軍勢に攻められ敗退するが、山名宗全の助けによって足利義政に赦免され、守護職を継いだ。1467(応仁元)年に政長討伐為挙兵し、応仁の乱を起こす。宗全死後も西軍を率いて奮戦し、1477年以来河内を実質支配する。 政権内では、「河内三奉行」と言われる花田家清、小柳貞綱、豊岡慶綱を用いていた。
畠山修羅<はたけやましゅら>(1468-1483)
 仮名二郎。義就の嫡男。当初はこの修羅が義就流の家督を継承するはずだったが、1483(文明15)年11月14日に死去した為に実現しなかった。彼の死後、彼の息子(実名不詳)と修羅の弟・基家との間に家督相続争いが起こったが、義就が母子を殺害する事によって、基家が後継者と決まった。
畠山基家<はたけやまもといえ>(1469-1499)
 義豊。仮名次郎。弾正少介弼。河内守護。義就次男。畠山総州家氏3代当主。義就には最初子が無く、能登畠山義有の次男・政国を猶子として迎えて後継者とした。しかし、義就に実子が出来ると2代当主政国を廃した。基家は1485(文明17)年8月6日に元服、義就が没した1490(延徳2)年12月12日に家督を継承した。
 1493(明応2)年4月23日に「明応の政変」と言われる細川政元・伊勢貞宗らのクーデターにより、将軍・足利義稙を廃し新将軍・足利義澄が擁立された。そこで義稙を中心とする畠山尾州家(政長流)の畠山政長・尚順陣営が不利に立たされた。そこで、新政権の中心である京兆家・細川政元から基家は同年5月19日に畠山家の家督継承を認められて、幼少の息子・義英を伴って上洛・出仕し、将軍の偏諱をうけて「義豊」と改名した。このため、義豊(基家)は、細川政元派としての活動を余儀なくされ、前将軍・足利義稙の復権を目指す畠山尾州家(政長流)の畠山尚順との対決が最大の命題となっていた。この事から興福寺大乗院門跡の尋尊は「細川と畠山は主従の儀なり」(『大乗院寺社雑事記』より)とあるように、細川京兆家との関係がとても重視されていた。
 同年7月に、義豊は河内守護に就任して畠山尾州家(政長流)との対立を有利にするため、河内に下向して領国の安定化を図ったようだ。その際、嫡子である畠山義英と守護代・遊佐越中守就盛も京都に残し、幕閣として列したようだ。
 1493(明応2)9月に、足利義稙の逃亡先で畠山尾州家(政長流)の分国である越中を家臣である誉田氏が攻撃したが潰走した。また同年10月に義豊自身が畠山尾州家(政長流)の尚順の本国である紀伊に京兆家の援軍を得て攻め込んだが戦線は進まず失敗した。1495(明応4)年3月に再び紀伊へ攻め込んだが7月には失敗に終わっている(『大乗院寺日記目録』より)。この敗戦を受け畠山尾州家(政長流)の反転攻勢が見られ、細川京兆家から「和与申合」が畠山総州家(義就流)の遊佐氏と、その味方で大和の国人越智氏の臣・岸田氏に意見されたが、それに遊佐弥六は大いに反発した(『大乗院寺社雑事記』より)。これにより「細川と畠山は主従の儀なり」とは言われてはいるが、この頃の畠山総州家(義就流)は全くの主従関係ではないと言えよう。この動きに伴い、畠山総州家(義就流)と細川京兆家の連携には歪みが生まれたものの、1496(明応5)年10月には畠山尾州家(政長流)との合戦で勝利するなど、軍事的経済的に細川京兆家に依存していたわけでは無いようだ。
 そんな中、1497(明応6)年に義豊政権の中枢の宿老である遊佐氏と誉田氏と互いの地下人が用水相論を起こすとそれをきっかけに武力衝突となった。この対立を利用した畠山尾州家(政長流)の畠山尚順が誉田氏・平氏を自陣営に取り込み、尚順方が河内に侵攻し大半を平定した。劣勢を挽回するため京都から嫡子・義英の援軍があったが大敗を喫した。この後、度々両畠山家の対立が河内で続いたが、1499(明応8)年1月30日に河内十七ヵ所において戦死し、義英は船で逃げる有り様であった。
畠山義英<はたけやまよしひで>(1488-1522?)
 仮名次郎。上総介。基家(義豊)の嫡子。畠山総州家4代当主。義英が5歳の時の1493(明応2)年4月23日、「明応の政変」と言われる細川政元・伊勢貞宗らのクーデターによりそれまで両畠山家の対立の中で、それまで優勢であった畠山尾州家(政長流)の畠山政長・尚順父子がいっきに不利に立たされ、逆に畠山総州家(義就流)の畠山義豊(基家)・義英が有利な立場となり、幕府に出仕を再開した。それでも、畠山尾州家の畠山尚順の河内勢力はまだ根強く、父・義豊(基家)は1493(明応2)年7月には河内に入国し、治世の安定を図った。一方、京都は嫡子・義英を残して代行者としたようだ。ただ僅か5歳で畠山家の家督代行ができるはずもなく、守護代・遊佐越中守就盛を補佐として残した。畠山総州家(義就流)の有力家臣を京都に残した義豊は当然河内で苦戦を強いられるはずで、それほどまでに畠山総州家(義就流)は逼迫してたと言える。すなわち、京都に残留して幕閣として出仕しなければならないが、河内を平定させるためには、一番影響力のある父・義豊の力が欠かせなかったと言える。このような状況だったからこそ、翌年1494(明応3)年12月18日に僅か6歳で元服しているが、弓倉氏はこの早い元服を「義豊が尚順と対するに際し、自己の後継者としての義英の位置づけを行おうとしたからであろう。」(注1)として、早くも家中の体制を固めようとしていたのである。義英は当初の外交方針は、父と同じく将軍・足利義澄を支える細川政元と連携した。
 しかし、1497(明応6)年不安定な父・義豊の領国の河内では、宿老の遊佐氏と誉田氏での深刻な対立が武力衝突まで発展し、その隙に畠山尚順が誉田氏らを取り込み河内に大規模に侵攻した。義英も1498(明応7)年8月に河内に進軍し、河内野崎城(大阪府大東市)を攻撃するも、宿老の遊佐就盛が一時行方不明になるほどの大敗を喫した。さらに、1499(明応8)年1月に父・畠山義豊が戦死し、義英が船で逃げる大惨敗を受ける中で、僅か13歳の義英が畠山総州家(義就流)の家督を継承することになった。
 このような畠山総州家劣勢の中で、畠山総州家(義就流)と、畠山尚順を中心とする畠山尾州家の河内の奪い合いが続いた。畠山尚順は、前将軍・足利義稙の復権を狙い京都を奪還する計画を進めており、将軍・足利義澄方の畠山総州家(義就流)が河内を失えば戦況はとても苦しくなる状況であった。1499(明応8)年9月に細川政元は有力被官の赤沢朝経を援軍として河内に派遣した。このあたりも首位から「細川と畠山は主従の儀なり」と見られていた一因と見られるが、義英も細川氏の分国摂津で援軍を得て河内進軍を再開した。義英方は多くの犠牲者を出したが、河内野崎城(大阪府大東市)他17拠点を奪還した。さらに、同年12月に摂津天王寺の戦いで畠山尚順が大敗したことで、前将軍・足利義稙は山口へ逃亡し、畠山尚順は紀伊へ没落した。義英政権では守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。
 1504(永正元)年3月頃からに細川氏の内訌が起こり激しくなると、義英は細川氏からの独立を模索し同年12月には畠山尾州家の尚順と和睦した。1506(永正3)年正月に細川政元の武将赤沢朝経の攻撃を受け大和の吉野に没落し、続いて畠山尚順の拠点である紀伊広城に移った。しかし、その和睦も長く続かなかった。1507(永正4)年に細川政元が暗殺されると、義英と畠山尚順の和睦は破綻したと言う。細川氏は、細川政元の養子・澄元と細川高国に2分された。畠山尚順は、前将軍・足利義稙と結ぶ細川高国と連携したためと思われる。義英は嶽山城(大阪府富田林市)に籠もって尚順と対立したが、1508(永正5)年1月に、同城が尚順の攻撃により落城した。ただし、義英は細川澄元の名を受けた赤沢長経により救出されたことで、再び畠山総州家と畠山尾州家の対立は決定的となった。同年4月大内義興らに擁立されて入洛した足利義稙は、将軍に復し細川高国政権が発足すると、前将軍・足利義澄と細川澄元は没落した。その後も、義英と畠山尾州家の畠山尚順との対立は続き、一進一退が繰り返された。1518(永正15)年に、将軍・足利義稙・細川高国政権を在京して支えた大内義興が分国・山口に帰国すると政権自体が傾き、義英は和泉に進軍した。1519(永正16)年に細川高国と対立する細川澄元が挙兵し、翌1520(永正17)年に将軍・足利義稙と和睦した。その事から畠山稙長と対立する畠山総州家の勢力が盛り返し、一時河内高屋城を畠山義英が奪うことに成功したが。同年5月に細川澄元方の三好之長が敗北すると、畠山尾州家である尚順の子・畠山稙長に河内高屋城を奪われた。
 1521(大永元)年には将軍・足利義稙が細川高国と不和になり、淡路に下向した。高国は前将軍である足利義澄の子・足利義晴を将軍として擁立した。この対立軸の中で、畠山尚順は足利義稙に伴って淡路に到着し、義英も尚順と和睦して淡路に行った。尚順と義英の和睦の理由は、畠山尾州家の畠山稙長が新将軍・足利義晴方についたためである。何度も対立した足利義稙とは何度も対立し、また細川高国とも通じていたが、状況的にみて、細川高国が畠山稙長を取り込むために畠山尚順・畠山義英が手切れされたためと思われる。その証拠に同年に義英は畠山稙長に攻撃され敗北している。これ以後、義英の徴証が知られず、弓倉氏は状況からして1522(大永2)年に没したのではないかとしている。
畠山勝王<はたけやましょうおう>
 義英の子。1519(永正16)年に長尾為景と組んで越中神保慶宗を攻めた。これを、井上鋭夫氏は勝王は畠山総州家(義就流)と畠山尾州家(政長流)の和睦により尚順の猶子となっており、尚順の越中奪回の動きと呼応したと見ている一方、弓倉氏は勝王の動きを畠山総州家(義就流)の独自の越中奪回の動きとしている。
畠山義尭<はたけやまよしたか>(?-1532)
 義宣。上総介義英の子。畠山総州家5代当主。1523(大永3)年には観心寺の段銭の免除の判物を発給するなど当主としての活動がしられる。弓倉氏は(注1)の論文にて「義尭は足利義維・細川晴元のいわゆる堺公方府にたって、足利義晴・細川高国の畠山稙長と抗争を展開した。」とするが、1526(大永6)年に幕府管領として畠山義尭の名が有る(注2)。これは一体どういうことか。後に寝返ったものか。
室町幕府の管領は、「三管領」と言われ、細川・斯波・畠山しか管領になれないと言われているが、実際に幕府の管領は1487年からただ一人を除いて細川氏以外は任命されていない。その唯一の例外が1526(大永6)年の「畠山義尭」なのである。この年は、管領である細川高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こる。そして、細川高国と対立していた細川晴元が、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。そして、将軍・足利義晴は六角氏を頼り近江へ動座し、翌年には足利義維が「堺公方府」として西幕府として畿内の勢力が混沌となった時期である。そんな中で畠山義尭が管領に任命された理由は、細川高国、細川晴元のどちらを管領にしても内紛の拡大は避けられず、さらに将軍・足利氏を巻き込んだ争いに発展する可能性がある。そこで、管領を一端細川氏ではない畠山義尭に任命したのではなかろうか。しかし、畠山総州家の勢力は、畠山尾州家との対立で減退しており、さらに幕府が分裂しているのこともあり、畠山義尭の管領職自体も短期間であった可能性がある。
 義尭の被官である木沢長政が、細川晴元と連携し義尭に対立するようになって畠山政権が弱体していったと言われる。そこで義尭は三好元長の一族である三好勝宗に支援を頼んで勢力を挽回を企てた。1532(亨禄5)年5月に木沢長政の本拠地である飯盛城を義尭・三好勝宗連合軍が攻めた。木沢長政は三好政長に支援を頼み、細川晴元が支援し、さらに晴元を支援する本願寺光教が木沢に味方し、形成は逆転された。三好勝宗は打ち取られ、撤退しようとした義尭も「畠山義高(尭)御自害」(「続南行雑禄」)と自害に追い込まれた。
畠山在氏<はたけやまありうじ>(生没年不詳)
 仮名小次郎。右衛門督(上総介)。義尭の子。畠山総州家6代当主。在氏政権は家臣の木沢長政が握っており、傀儡政権の様相を呈していた。1537(天文6)年には代替文書とも言える観心寺への弾銭等の免除発給文書が知られるゆえ、その頃までには家督を継承していたと思われる。在氏政権は畠山尾州家(政長流)との連携は続いていたが、1541(天文10)年11月に木沢長政が細川晴元に反旗を翻すと、在氏も同調し飯盛城に拠っていた。同年11月幕府は木沢長政と細川晴元との和睦の調停交渉を続けたが結局不調に終わった。同年翌月幕府は畠山稙長と在氏の和睦の調停交渉を行うが、木沢の調停を先にしているあたり、幕府側も在氏政権の内情を木沢が実権を握っていると踏んでいたのであろう。結局幕府のどちらの調停も実を結ばず、翌年飯盛城は陥落した。その後、在氏は本願寺などに音信を通じ、復権を図った。後細川氏綱の乱で晴元政権に帰参したが、氏綱と結ぶ三好長慶・遊佐長教ら軍勢に敗北し没落した。
畠山尚誠<はたけやまひさのぶ>(1531-?)
 仮名次郎。(上総介)在氏の嫡子。畠山総州家7代当主。父在氏が細川氏綱と晴元との戦いで、晴元方に付き没落してから家督を継承した。1549(天文18)年には代替文書とも言える観心寺への弾銭等の免除発給文書が知られるゆえ、その頃までには家督を継承していたと思われる。
 1551(天文20)年5月5日に畠山尾州家(政長流)で実権を握っていた遊佐長教が暗殺され内紛が勃発すると、その動きに合わせて尚誠の被官・平左衛門大夫誠佐(誠佐の「誠」の字は尚誠の偏諱と思われる)と遊佐越中守家盛等とともに河内奪回戦を計画していた。しかし、畠山尾州家は地元の国人と縁戚関係などを結ぶなどして組織を強固しており、尚誠の企ては失敗に終わった。その後、1556(弘治2)年に畠山高政(政長流)が安見房宗とともに布施氏を征伐しようとした際、尚誠が布施氏方に加勢している。これを弓倉氏は「尚誠は大和・河内・紀伊国境付近の局地勢力になってしまった。」と評している。つまり、畠山尾州家と対立する勢力との抗争に乗じないと、畠山総州家は自ら対決する力は残っていないということである。尚誠の終見は1565(永禄8)年に足利義輝暗殺後の一乗院覚慶(足利義昭)の求めに応じているが、その後の徴証は知られない。一説には松永久秀の仲介で畠山高政の家臣となったという説もある。状況的にみて、弓倉氏はその説を好意的にみているようだ。

むすびに
 畠山総州家(義就流)は義英以降没落し、その後は管領細川氏の傀儡となってしまった。河内畠山氏やその家臣の発給文書が河内に多いのに対し、畠山総州家の当主及び発給文書は奈良に多いらしい。これは、畠山総州家が河内に支配権がほとんど及ばなかったからであろう。

注釈
(注1)弓倉弘年「義就の子孫達」(『南紀徳川氏研究』4号1991年)より
(注2)
桑田忠親(編)『戦国史事典』秋田書店、1980年、171頁より

☆参考文献
桑田忠親(編)『戦国史事典』秋田書店、1980年
弓倉弘年「戦国期河内畠山氏の動向」『国学院雑誌』昭和57年8月号.1982年
弓倉弘年「天文年間の畠山氏」『和歌山県史研究』16号,1989年
弓倉弘年「義就と子孫達」『南紀徳川氏研究』4号,1991年
木下昌規『足利義晴』戎光祥出版,2017年
天野忠幸(編)『戦国武将列伝7畿内編【上】』戎光祥出版,2022年
小池辰典「明応の政変後の争乱における畠山義豊と足利義澄陣営」『戦国史研究』2022年

BACK

「河内畠山氏」目次へ戻る


Copyright:2023 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama