能登畠山家の氷見支配

はじめに
 能登畠山氏が隣国越中まで支配権を及ぼしたのは意外と知られていない。例えば、越中守護河内畠山家の守護代行として、 能登畠山家が越中の動乱を調停した畠山体制などがその一例である。しかし、ここ で取り上げる越中の氷見地方は、前述の間接的に影響力を及ぼしたのと違って、能登畠山家が直接支配を展開した場所である。 すなわち氷見は越中国でありながら「能登守護」能登畠山家がその戦略城、支配した土地であるのだ。そのため、氷見の国人たちは、能登畠山家、越中神保家の内部紛争に巻き込まれ、振りまわされていたのである。ここでは、その能登畠山家の氷見 支配について論じてみたい。

(図A)
能登と氷見地方の位置関係図

(1)能登と氷見の関係−湯山城を中心に−
 能登にある勝山城は、弘治の内乱で反乱軍(温井方)の拠点となった交通の要所である。それは加賀への陸路ばかりでなく、荒山峠を越えれて氷見にも出ることができるので、能登を陸路から抑える絶好に位置に勝山城はある(上図A参照)。
  一方、荒山峠を越えた越中側の街道を抑える所に位置するのは湯山城(森寺城)である。越中八代氏はこの氷見・湯山城近くを拠点としたらしい。八代氏として有名なのは弘治の内乱 (1555〜1560)時に椎名氏の援軍として、義綱方に味方し能登に来往した八代俊盛 である。図Aを見ていただければわかると思うが、氷見の位置は同じ越中の富山城より能登の七尾城の方が断然近いのである。そのため、氷見地方は能登との経済的繋がりも強かったと考えられ、それが畠山氏が氷見に影響力を及ぼしたい理由であった。湯山城からは16世紀初頭の遺跡が出土している。16世紀初頭の氷見と言えば、越中永正の乱が想起される。すなわち、越中守護畠山尚順に従わない守護代神保慶宗を征伐する為に、能登の畠山義総、越後の長尾為景が越中に軍勢を進行させ、慶宗を敗死させた合戦である。この合戦において、七尾城から進軍する畠山軍は越中進行の前線基地として湯山城を築城した(注1)のである。ただ、同築城は越中への陸路の確保・畠山軍の前線基地化という理由の他に、七尾と氷見との地理的条件から経済的結び付きを考慮して、制圧したとも考えられよう。このような状況から八代庄を拠点とした「八代氏は湯山城築城と共に畠山氏に属した可能性が高く、湯山城には畠山氏から派遣された武将が駐留していたものと思われる。」という氷見の16世紀の状況が見えてくる。つまり、16世紀初頭にはすでに氷見は能登畠山氏の直接支配権に組み入れられたという事である。
 16世紀半ばの弘治の内乱時で氷見は能登畠山軍の基地化されていたが、これはすでに16世紀初頭より基地化が進んでいた結果によろう。しかし、同合戦で荒山峠の越中側の要所である湯山城は、能登側の拠点である勝山城を抑えた反乱軍によって占拠されてしまう(文書B・文書C参照)。反乱軍にとって、本拠となる勝山城の防備を固め、且つ七尾城(畠山軍)へ交通路を遮断し軍事的・経済的圧力をかけるためには、湯山城を抑える事が絶対に必要であったである。またこの他にも、七尾城方以外が氷見湯山城を占拠した例として永録九年の政変で追放された畠山義綱が1568年に起こした能登御入国の乱がある(文書D参照)。やはり、義綱も七尾城方(畠山義慶ら)に圧力をかけるために氷見を占領したのであろう。それほど、畠山氏にとって氷見は重要な地であったのだ。

文書B「三引文書 松雲公採集遺編類纂 138」
畠山晴俊感状
去二日、於湯山、無比類働、神妙候、弥可抽軍忠事肝要候、穴賢々々
 (弘治三年)六月七日   (畠山)晴俊(花押)
  三引与八郎とのへ

文書C「三引文書 松雲公採集遺編類纂 138」
温井続宗連署感状
去二日、於湯山、無比類働、神妙候、弥可抽軍忠事肝要候、謹言
温井兵庫助
 続宗(花押)
(弘治三年)六月七日 三宅筑前守
 綱広(花押)
神保宗左衛門尉
 綱誠(花押)
   三引与八郎殿

 弘治の内乱において反乱軍(畠山晴俊等)が畠山方の湯山城を攻め落とし、その際に活躍した三引与八郎(鹿島郡三引保が本拠の国人)にたいして、反乱軍中枢が感状を発行したものである。このふたつの文書から畠山晴俊の地位と身分が、「三引与八郎」に対する扱いでわかる。文書Bの発給者が宛先を「三引与八郎とのへ」と表現したのに対し、文書Cでは「との」より格上の「殿」で表現し「三引与八郎殿」と記述している。すなわち、文書Bの発給者>文書Cの発給者という身分階級が読み取れる。つまり文書Bの発給者「畠山晴俊」が反乱軍の大将なのである。しかし一方、2つの感状は発行日が同じであり、また文言もほぼ一緒である。同じものなら普通はトップからだけの感状でいい。それを格下の者がわざわざ発給すると言うことは、文書Bの発給者の感状だけでは褒美の効果は薄く、文書Cの感状がなければ実質効果がないためである。この関係から、反乱軍内での実力関係が文書Bの発給者<文書Cの発給者となっている事を示す。すなわち、畠山晴俊は温井続宗・三宅綱広・神保綱誠の傀儡であったのである。

文書D「自養録裏文書 加能古文書」
畠山義綱書状案
態差上飛脚候、仍以計策当月遡日七尾之義相破、同日玉尾城(多茂城)乗取、同日三日八代安芸入道(俊盛)相踏候、神明之地へ入城候、符中池田要害へ者、遊佐孫右衛門尉・神保周防守其外馬廻之者共入置候、然者従七尾国中へ通路不相叶候、湯山之儀も無別儀候間、一国大略手入分候、七尾之儀以調略加申付候、七日城于今敵相踏候条、三宅彦次郎従加州口相働、去年拵候坪山抱候、於始末者加心易候、猶富木小次郎(胤盛)加申候、恐々謹言
(永録十一年五月六日)    (畠山)義綱 在判
(曲直瀬正盛)道三入道殿

(2)八代俊盛と湯山城
 従来、1557(弘治3)年が文献初見となる越中八代氏(この頃の中心人物はおそらく八代俊盛)は越中の政権(神保氏或いは椎名氏)に属する勢力だと思われていた。実際、弘治の内乱八代俊盛は椎名宮千代から義綱軍への援軍という形で派遣されている(文書E参照)。しかし、元より八代は能登畠山の臣であるから、椎名氏の援軍として俊盛が派遣されたのではなく、1557年の温井方の氷見での勝利で領地を失った八代俊盛が椎名氏の下に逃れ、機を見て椎名氏の援助を受けて海路七尾城へ参ったと言うのが真実ではなかろうか。事実、弘治の内乱後の俊盛は椎名宮千代の元に戻らず能登に駐在して義綱政権の中枢入りする。このことは従来『長家家譜』などによって、「新参者の俊盛」を義綱が気にいったため重用されたと言われていたが、実際には俊盛が本領氷見の回復為に奮戦した結果、反乱軍を撃退できるきっかけとなったのでその功績から重用されたと考える方が自然である。
 政権の中枢入りした俊盛は、永録九年の政変において長続連遊佐続光と共謀し、義綱の追放に加担し、その後の義慶政権では年寄衆にまでのぼりつめた。しかし、そんな俊盛も温井景隆の畠山帰参によって家中での立場が悪くなり、1568年に鶏塚で挙兵(詳しくは鶏塚の合戦参照)して敗れている。

文書E 「歴史古案 四 米沢市立図書館」
畠山義綱・同徳祐連署状写
為加勢八代安芸守(俊盛)渡海、神妙之至悦喜候、為礼儀差越使僧候、爰元調策之儀不可有由(油)断候、可被心安候、日限可為逗留之由雖令申、行半及其沙汰候者如何候間、分別頼入候、次今度相越候兵船共、五三日抑留候、俊盛(八代)一円不令納得候、達而申聞候、同心可令祝着候、委細揚首座申含候、猶遊佐美作守(続光)・長九郎左衛門(続連)・飯河若狭守(光誠)可申す候、謹言
(弘治三年)七月廿七日 (畠山)義綱
(畠山義続)徳祐 印判
椎名宮千代殿
一時援軍が抑留され来れなかったが、無事に着き椎名宮千代に対して謝意を示している。

(3)能登畠山氏の氷見支配の根拠
 児島清文氏は「湯山城(森寺城)私考」において、「満則は能登と越中の一部(氷見)を分与された」としている。つまり、1408年に畠山満慶が能登一国守護となったと同時に、氷見の公的支配権を認められたという見解を示している。また、一時義統が越中侵攻を図った理由も畠山政長が氷見を横領したためと説明している。しかし、本当に能登畠山家が氷見を最初から有していたのであろうか。 畠山家のような守護大名は室町幕府の制度を基本としている。それゆえ、能登国の守護として能登の公的支配権を認められたことは確かであろうが、幕府制度の下、越中の一部の守護権を分割し、能登守護に公的領有を与えたと考えられるのであろうか。
 私はおそらく、越中国の守護権は氷見も含めて越中国すべてが河内畠山家の元にあったと考える。ただ、氷見地方は七尾と非常に近いという地理的関係から守護請などを能登畠山家が受け持っていたのではないかと推測する。つまり、河内畠山家と能登畠山家において氷見の公的な支配権は河内畠山氏、実質的な管理は能登畠山氏という特殊な関係をお互い認めていたのではなかろうか。しかし、このことが越中における能登畠山家の影響力を強める結果となり、そのため、ほとんど河内畠山氏の権力が越中に及ばなくなったとき、能登畠山家が「越中守護代行」として、越中国内の内乱を調停したり、反守護勢力の武力鎮圧などする「畠山体制」が誕生する要因となったのではないか。

むすびに
 越中国・氷見地方は地理的に能登国・七尾に近く、軍事的・経済的に能登と結び付きの強い地域である(注2)。そのため、能登畠山氏も氷見の政情安定化には相当気を配っていたと考えられる。しかし、越中守護と対立する神保慶宗を征伐する越中永正の乱を契機とし、能登畠山家は氷見を実効支配する事で安定化させようとした。しかし、この事はかえって氷見の軍事的地位を高める事になり、弘治の内乱では反乱軍が戦略的に氷見制圧を重要視し、攻撃し制圧するという事態も生じたのである。
 今まで氷見の国人たちの資料も少なく、能登畠山家との関係もあまり注目されてこなかった。しかし、実際には七尾と氷見の地理的関係から能登畠山家と氷見の国人は密接に関係していることが、『氷見市史』などの書籍を通じて徐々に明らかになってきている。今一度、能登(七尾)と氷見の関係を軍事的・経済的・人的側面などから捉え直し、あらたな氷見の中世での特徴を明らかにすることが今後の課題であろう。

(注釈)
(注1)
湯山城が能登畠山氏によって越中侵攻の拠点としたことは、同城の構造が越中側に進軍し易いようになっている点からも明かである。久保尚文氏によると(『越中中世史の研究』より)湯山城は「構造的には能登側を大手としている」と指摘している。ただ、大野究氏は『氷見の山城』において越中永正の乱を契機に湯山城を築いたとし、児島清文氏は「湯山城(森寺城)私考」において能登畠山3代当主義統が「本拠七尾城の背後を守るとともに越中進行の拠点として、越中側に一大城郭を構える必要が生じた」と述べ、湯山城の築城年代を嘉吉・文安の頃(1441年〜1447年)としているなど、その築城年はまだ定説を見ない。
(注2)余談ではあるが、明治の廃藩置県が実行されると、氷見地方は能登地方に設置された「七尾県」に編入された。これは七尾と氷見が経済的結び付きが深かった事が関係していることは想像に難くない。

参考文献
久保尚文『越中中世史の研究』桂書房.1983年
児島清文「湯山城(森寺城)私考」『富山史壇』66号
大野究(他)『氷見の山城』氷見市教育委員会.2001年
氷見市史編さん委員会『氷見市史資料編一』1998年
氷見市立博物館(編)『戦国・氷見-国人たちの足跡-』ひふみ印刷社.1999年
etc・・・

BACK


Copyright:2003 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama