その他の一門衆


★その他の能登畠山嫡流家一門★

畠山教国<はたけやまのりくに>(?-1470)
 宮内大輔。畠山満慶の子どもで、2代守護・畠山義忠の弟。「教国」は将軍・足利義教の偏諱と思われる。1459(長禄3)年、足利義持の33回忌で冨樫泰成らとともに教国も仏銭10貫を負担した(「蔭涼軒日記」)。1461(寛正2)年には嵯峨瑞林院に同院領の押領で訴えられ(「蔭涼軒日記」)1464(寛正5)年には将軍足利義政の鞍馬寺塔婆勧進猿楽に教国が供奉したり(「蔭涼軒日記」)、さらに1465(寛正6)年には将軍と共に石清水八幡宮放生会に供奉し(「斎藤親基日記」)将軍の春日社参詣のための奈良下向にも教国は供奉している(「蜷川親基日記」)。これらのことから教国は在京して幕府と密接に結びついて活動していたようだ。
畠山義有<はたけやまよしあり>(?-1439頃)
畠山義有  治部少輔・阿波守。畠山義忠の嫡男で3代畠山義統の父。義有の妻は、賀茂別雷社の社家・竹内氏の出身(『地域社会の史料と人物』北國新聞社.2009年.P30より)。1433(永享5)年に法楽百首歌会を張行のを始め、男山八幡宮・北野天神社へ和歌百首の奉納を行なったり、自邸で歌会を催したりもした。父義忠の影響を受け文化に精通していたといえよう。しかし、大和方面の幕府の凶徒討伐軍に加わっている陣中で病死した。1439年頃の早すぎる死であった。この為、能登畠山家の畠山義忠の跡の家督は、義忠の孫である畠山義統に直接渡されたのである。
↑畠山義有イメージ像(畠山義綱画)
畠山政国<はたけやままさくに>(?-1470)
 幼名次郎。足利義政の偏諱か?畠山義有の次男。畠山義就の猶子となったが1460(寛正元)年9月16日に義就が出仕を止められると、河内畠山家の家督を継いだ。しかし、同月21日には廃され義就の嫡子基家(義豊)に家督を奪われた。義就と不和になった政国は、越前に逃亡するが、朝倉孝景に捕らわれ手打ちにされた。この時、政国に付随した4人も生涯を共にしたと言う(『加能史料戦国1』P104)。
畠山某<はたけやまぼう>(生没年不詳)
 実名不詳。宮内大輔。畠山義元の次男。義元の嫡子であり、本来なら兄弟共々後継者候補の立場にあるべきだが、明応九年の政変でその立場が変わった。敵対していた父の畠山義元と義元の弟である畠山慶致の和睦の条件として、「義元の跡を慶致の子・義総が継ぐこと」となり、宮内大輔とその兄は後継者からはずされたのである。
 宮内大輔は、父・義元が能登守護に復帰していた頃には京都に住んでいたようだ。1511(永正8)年には後土御門天皇の第四皇女・智円女王と安禅寺の敷地居住権について争っている(「実隆公記」永正8年5月22日条)。皇族と争うなどそこそこの権力を持っている証明である。また、翌年には足利義尹(義稙)の御者三上某が宮内大輔邸で調馬する(「御随身三上記」永正9年3月20日条)など、父・義元が将軍義稙に重用されていたゆえ、宮内大輔も一目置かれていたことが想像できる。文化面では、1511(永正8)年に公家である甘露寺元長(1457年〜1527年)との和歌のやりとりなどがあったり(「実隆公記」永正8年5月22日条)、1514(永正11)年には宮内大輔邸で犬追物が興行されている(「守光公記」永正11年7月1日条)。また、1515(永正12)年には、宮内大輔は幕府の御供衆に列していたようだ(「大館常興書札抄」より)。義総が父・義元の後継者に決まっても、宮内大輔は京都の私邸で過ごし、能登畠山家の一族としての教養が培われ、幕閣で重要な地位にいたのである。兄の方は実名不詳であり、事績も全くわかっていない。
東岳受旭(生没年不詳)
 七尾市大田町の曹洞宗海門寺(かいもんでら)の中興の祖・東岳受旭(とうがくじゅきょく)は、1576(天正4)年に作られたとされる墓石(七尾市指定文化財)に風雨にさらされ判読が難しいが、「源朝臣前畠山慶致公次男也(後略)」とあることから、畠山慶致の次男の可能性がある。海門寺と能登畠山家の関連性を伝える貴重な資料である。(北國新聞2013/6/5付)
畠山駿河<はたけやまするが>(生没年不詳)
 実名不詳。畠山慶致の四男。畠山義総政権の時に抑圧されて加賀に出奔した。義総の死後、嫡子義続が跡を継ぐと反乱を起こす好機と考えたのか、1547(天文16)年能登に乱入し押水合戦を起こした。駿河軍は善戦したが、温井総貞らを中心とする義続軍に鎮圧された。
畠山義繁<はたけやまよししげ>(?-1533)
畠山義繁  幼名次郎。畠山義総の嫡男で畠山義続の兄。「次郎」は能登畠山家の長男につける幼名である。初見は1512(永正9)年。「守光公記」によると、参議廣橋守光の幕府祇候に供奉した者の名前に「修理大夫(畠山義元)父子(畠山義総)等也、修理大夫孫者(義繁ヵ)御共衆一列也」とある。義総が1491(延徳3)年生まれなので、1512(永正9)年では22歳。子どもが生まれていい歳であり、普通に考えれば嫡男の義繁があてはまる。順当にいけば彼が家督を継ぐはずだったであろうが、1533(天文元)年6月5日に早世した。実名を持っているということは、青年に達して元服していたとみえる。さらに、興臨院の過去帳によると「花岳宗芳首座禅師 天文十五□□年七月 大用寺殿息女」とみえ、義繁が結婚し娘がいたことがわかる。義繁の早世により、早くから義続が家督後継者として認められた。興臨院の過去帳によると法名大用寺殿心月徳安大禅定門。
↑畠山義繁イメージ像(畠山義綱画)
璧雲徳藺(生没年不詳)
 義総の子というが兄弟の順未詳。義総の猶子となる。南禅寺喝食であると言う。
閑嘯軒(生没年不詳)
 義続の子で義綱の弟。1563(永禄6)年9月28日に閑嘯軒は公家の山科言継を訪ねている。これは、単独の行動ではなく、翌1564(永禄7)年5月21日に言継が義綱に返状を調えていることから、前年の訪問は義綱の依頼であったと言える。山科言継は医業を内職としており、庶民から薬の調合を依頼されたり、中国からの薬売りも来訪していたと言う。同じく医道に興味を持っていた義綱が医者としての山科言継に興味をもったものであろうか。 義綱の政権安定期に至って、閑嘯軒は京都での能登畠山家の出張所としての活動を行っていたのかもしれない。

☆畠山家の女性☆

畠山義元の娘(生没年不詳)
 法名菊芳と言われる。
畠山九郎の娘(?-1544)
 法名殊源恵海。畠山義総の猶子となって、三条西実世の妻となった。1544年6月6日没。
畠山義続の長女(生没年不詳)
 近江佐々木氏六角義賢のもとに嫁いで正室となる。早世したと言われる。実在が疑われている。
畠山義続の次女(?-1547)
 法名興禅寺殿春岳宗椿。1539(天文8)年6月18日に近江佐々木氏六角義賢のもとに嫁いで後室となる。能登畠山家が中央政権とのパイプを太くするための政略結婚である。一説には畠山家から六角氏へ嫁いだのはこの女子の一人だけともいわれる。六角氏最後の当主となる六角義弼(義治)を出産した。
六角義賢の娘(生没年不詳)
畠山華  近江佐々木氏六角義賢の娘で、同盟関係強化のため天文年間後期に能登守護畠山義綱の正室となった。近江六角氏の史料『江源武鑑』では1555(弘治)元7月25日輿入れしたとしているが、同本の信憑性からその日程の再検討の必要がある。輿入れの際、六角義賢から楢崎石見守賢光を女佐の臣として遣わし、また様々な嫁入道具を贈ったと言われ、野洲郡戸田庄を化粧領に与えられたと言われる(『江源武鑑』より)。
↑六角義賢の娘イメージ像(畠山義綱画)

★松波畠山家★

松波畠山氏内浦の歴史


★西谷内畠山家★

西谷内畠山氏中島の歴史


★その他の畠山家一門衆★

神保氏張<じんぼうじはる>(1527-1592)
 安芸守。守山城主。室は織田信長の妹。氏張は『寛政重修諸家譜』では畠山義綱の子とされ、『北越軍談』では義綱の兄とされている。しかし、現在では神保氏重の子という説がもっとも有力であり、能登畠山家との血縁関係は否定されている。能登畠山氏の越中進出が読みとれる部分である。その後、織田に好を通じ佐々成政に仕え没した後は徳川家康に属した。文禄元年8月5日に死去。65歳。所領であった、下総国香取郡伊能村の宝応寺に墓がある。

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