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人物:畠山義総 - Hatakeyama Yoshifusa -

幼名・次郎、左衛門佐・修理大夫・従四位下を歴任、出家後は徳胤と名乗る。法名は興臨院殿伝翁徳胤。 畠山義至の二男。第七代目能登守護。早くから叔父畠山義元の後継者として定められ、義元をよく助けた。 能登七尾城およびその城下町の開祖ともいえる。彼の安定した統治下能登は一流の文化国として発展していく。 義総本人もまた一流の文化人で、古典研究・和歌・連歌・儒学・漢詩文に通じ、多くの連歌師や歌人が招集に応じたり下向したりした。 天文十四年七月十二日死去。享年五十四歳。

義総文化活動ちぇっく!

義総は若い頃から古典研究の一人者として知られている。 「源氏物語」「伊勢物語」「古今和歌集」などの研究に励み、 「弄花抄」「細流抄」「武田本伊勢物語」などを熱心に収集し、七尾城内の蔵書は三万棹に及んだという。
当時の歌人・連歌師も多く下向し、能登を題材とした作品を多く残している。 (※これらの作品についてご存知の方はぜひきむちに教えてください。)
家臣団も文芸に造詣が深い者が多く、漢詩文の温井招春、歌道の半隠斎宗春、能書家の井上総英、茶人の丸山梅雪等である。 また、冷泉為和の弟子入りした家臣に、後藤総員、飯川光誠、遊佐大法師、神保総誠、伊丹八郎四郎、神保与一、温井千松丸、井上総英が見られる。

身分 人名
公卿 冷泉為広、冷泉為和、持明院基規、持明院基春、勧修寺尚顕、勧修寺尹豊、船橋のぶ賢、転法輪三条公頼、甘露寺伊長、他
僧侶 上乗院僧正、永俊、虎伯、彭叔守仙、他
連歌師 月村斎宗碩、宗[王賛]、寿慶、永閑、宗牧、他
歌人 岩山道堅、正[音_]、圭純、他
猿楽大夫 日吉大夫、他
年代 公家
地下人
僧侶 文化
芸術人
目的
永正十三年〜永正十五年(1516〜18) 1 - - 1 - -
永正十六年〜大永元年(1519〜21) - - - 1 - 1
大永二年〜大永四年(1522〜24) - 1 6 7 - 6
大永五年〜大永七年(1525〜27) 6 1 7 14 4 8
享禄元年〜享禄三年(1528〜30) 4 2 5 11 5 5
享禄四年〜天文二年(1531〜33) 2 2 2 6 - -
天文三年〜天文五年(1534〜36) 1 1 2 4 1 -
天文六年〜天文八年(1537〜39) 1 1 2 4 1 -
天文九年〜天文十一年(1540〜42) 1 2 2 5 - 5
天文一二年〜天文十四年(1543〜45) - - - 0 - -
18 9 27 54 11 26
文化人能登下向者表 (図解 石川県の歴史より抜粋)
※目的はAが荘園所領年貢督促・直務支配・困窮による下向、Bが畠山氏の招請・文化活動

義総政治活動ちぇっく!

能登畠山氏最盛期と言われる永正十二年〜天文十四年の三十年間(義総統治年間)は能登の政治は極めて安定していた。
それは、義総が義元の後継者として早期に定められたことと、その後内乱が鎮圧され能登畠山氏は戦国大名として、まずまず安定した基盤を得ることが出来たことのみに起因するのではない。
これからきむちが思うところの要因をいくつか検証してみる。

支配体制

義総の政治支配体制は、従来の守護-守護代体制を引継ぎ目新しい所はない。
だが、前の内乱からの教訓か守護代職には嫡家ではなく、庶流の秀盛、秀頼親子を起用した。 さらには、温井紹春、半隠斎宗春などの近臣を育て、家臣権力の分散とともに大名権力の向上を成功させた。 しかし、この方法は微妙な権力の天秤を保たせる指導者の力量を問われ、凡才であった義続の代にてもろくも崩れたのであった。


※前の内乱:明応六年、畠山義統の死により嫡男義元が家督を相続したがそれを不服とした守護代遊佐統秀らが寵愛の深かった次男慶至(注)を擁立したもの。永正三年の一向一揆が起きた際両者は和解して、義元の守護職復帰と義総を後継者に据えることが取り決められた。

七尾城下の形成

七尾は義総が大永六年ごろ、府中守護屋敷から七尾城に移った頃から発展したと思われる。 禅僧の彭叔守仙が「猶如昨夢集」所収の「独楽亭記」に七尾城下が次のように歌われている。

七尾の町の繁栄のさまは、偏えに能登の太守である畠山義総のすぐれた手腕による賜物である。 七尾山の山麓には、多くの人々が移り住み、家並みは一里程にわたって続いている。 その町中を色々な行商人たちが行き交い、道ばたには常設の店舗も多く立ち並んでいる。 七尾山の麓に開かれた市場町は、まさに活況を呈している。 夕暮れどきになるとこの町では、大寧・安国両寺の鐘声が、互いに応えあうようにして鳴りひびき、その情景は、幻想的である。 また、七尾山から前峯の石動山へは、一筋の尾根道が通じており、朝な夕なに多くの人馬が、途絶えることなく行き来している。
この歌より、「常設の店舗」という一文は少なくとも七尾城下においては大規模な戦闘が行われる危険性が無かったことを思わせる。 戦闘用山城として高く評価されている七尾城らしからぬ情景だが、文化を育むには戦争はしばし邪魔な存在となりうる。 ただし、これは能登全体の安定を表しているものでは無いようだ。 加賀・越中国境ではこの当時も一向宗徒とのいさかいが相変わらずあった。 しかし、この問題も義総は側仕えの政僧を使い頻繁に本願寺幹部との接触を持ち解決に励んだようである。

※独楽亭:七尾山大石渓の温井第の片隅に、総貞(紹春)が風流を好んで建てた小庵。

...以後の調査により、やはり(奥)能登一帯で見込める生産力は全国的に見るとたかが知れているらしい。 この事については現在誠意調査中である。

義総出陣履歴ちぇっく!

畠山義綱殿より資料提供がありましたので、それを関係部分全引用させていただきます。 義綱殿、ほんとにありがとうございました。

「時は1519年、越中守護は畠山宗家の尚順であった。そのころ越中守護代神 保慶宗は寺同士の戦いに神保家勢力拡大のチャンス、とみてか争いに加わり、越 中の内乱を拡大させた。 そこで、尚順は義総に慶宗討伐の要請をした。これをうけた義総は越後 の長尾為景と共同で攻め込んだが、畠山軍の苦況が続き、さらに北陸の冬が到来 し軍を撤退。  翌年再び、長尾と共同でせめてやっと慶宗を敗死させた。  以後、義総は能登の畠山・越後の長尾・越中の神保で三国同盟を成立させ北陸 の政治的安定を図った。
一五一九年は能登の文化的全盛期前。 ここで義総的政治運びが見られる。 義理を守りつつ(神保慶宗の討伐)、安定を図る(後の同盟)この巧みな処断は他の者たちに悪しからぬ印象を与えたように思われる。 また、この時期は能登畠山家はお家騒動を乗り切り、義総も壮年であり、家督継続後4年。 近隣、(宗家を通じての)都へのパフォーマンスとして絶大の効果がある。 この後も、寺社・土豪衆・近隣勢力のバランスに乗り切り能登に安定をもたらしたことは上記にも書いた通りである。 戦闘に於いても義総の「政治に対するバランス感覚」が窺い知ることが出来る。
文責:遊佐きむち守 <waku@cc.mbn.or.jp>

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(注)「慶至」は「慶致」の誤りである。

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