明応九年の政変の基礎的考察

 明応9(1500)年7月2日、3代守護義統の嫡男義元と次男慶致の対立が起こり、その翌年義元が越後に出奔するという事件が起きる。いったい能登畠山家の中でこのようなクーデターが起こった背景にはどのようなものがあるのか。この政変における後の影響についても考察していくこととする。

はじめに
 「明応九年の政変」をクローズアップさせたのは、能登畠山氏研究の第一人者である東四柳史明氏である。当初東四柳氏は義元・慶致の争いを足利義稙(義材)と細川政元との中央政争と関連付けて能登守護を罷免されたとされた(注1)。しかし、同氏論文「能登守護畠山慶致のことども」(注2)において、永光寺所蔵の『永光寺年代記』(古文書A参照)の記載から「前掲論文の解釈を再考する必要に迫られた。」とし義元・慶致との畠山家内の兄弟争いであると訂正し原因付けた。

(1)家中の分裂
 義元は父・義統の嫡男であったが、父とはあまり仲が良くなかったとも言われている(詳しくは畠山義元特集参照)。1478(文明10)年に能登に下向した畠山義統は、近江余呉荘を中継基地として対幕府交渉を行った。その役を担ったのが畠山義元と平光知である。この2人は近江余呉に邸宅を置いており、能登に下向したのは1490(延徳2)年のことである。一方1482(文明14)年に能登府中で行われた和歌会には次男である弥次郎(畠山慶致)の名前があり、父と共に七尾に在住していた事実が確認され、弟弥二郎(慶致)が父に寵愛されているのがわかる。このような状況下で1497(明応6)年に3代当主義統が死去した。家督は嫡男である義元が家督を継承したが、家中の家臣団は義統が寵愛した弥二郎(慶致)派と当主である義元派に分裂していた。当然のことである。義元派に属する人物は隠岐統朝、波々伯部某。一方の弥二郎(慶致)派は遊佐統秀、三宅俊長であった。
 やはり、育った環境が違ったために兄弟も対立したのか、1500(明応9)年に義元・弥二郎(慶致)は兄弟で争いを始めた(古文書A参照)。これが明応九年の政変である。この兄弟対決は、東四柳氏が「明応九年の義元能登出奔時の政変については、直後における能登国内の荘園年貢の収納状況に変化がないことから、内乱状況は認めがたい」(「畠山義元と能登永正の内乱」『加能史料会報』19号,2008年より)とある。おそらく1500(明応9)年11月の賀茂社領能登国土田荘の明応九年分公用銭算用状の注進(「賀茂別雷神社文書」より)のことであると思われる。つまり、義元は形勢不利とみるやすぐに出奔し(古文書B参照)、能登の国内経済にはさほど影響はなかったと言える。
 この政変で義元が出奔すると、必然的に慶致が当主となった。慶致が当主になった証拠は、1503(文亀3)年の「畠山義統の七周忌」を実施した人物の名である。(古文書C)によると、七周忌を行ったのは「左衛門佐慶致」であり、元守護の七回忌を営む主は当然のごとく守護だと考えられ、それが義元の弟である弥二郎に比定される。義元が出奔して以降の慶致政権では、慶致派の家臣である遊佐統秀、三宅俊長が中枢となって運営されている。政権が交代した徴証であるとも言える。
 一方兄弟争いに負け出奔した義元は、越後に客居した。義元の父義統が越後守護上杉房能と結んで越中侵攻の計画をたてていたり、1499(明応8)年には越後白山神社の鐘が穴水中居の鋳物師によって作られていることからも、元来能登と越後は懇意な関係であった。その縁から越後に亡命したのであろう。義元の立場から言えば、頼れる当て(越後長尾氏)があったからこそ、政変時にそれほど争わずに出奔したとも言える。越後では出奔後の義元を迎え入れる体制が整っていたのであろうことが推察される。

古文書A『永光寺年代記』(羽咋市永光寺蔵)
(明応)九庚申
帝崩(後土御門天皇)、九月廿八日、十月廿五日太子踐祚(後柏原天皇)、
七月二日夜、能(州)符(府)中御兄弟(畠山義元・慶致)取合、


古文書B『永光寺年代記』(羽咋市永光寺蔵)
文亀元辛酉
人皇百五代後柏原天皇、
畠山義元沒ラク、


古文書C『翰林葫盧集』13巻
 (畠山義元)大寧寺殿七周忌
 (中略)
牽迦界瞻部州大日本國北陸道能州路鹿嶋郡八田郷府中居住大功徳主左衛門佐(畠山)慶致、文亀三年龍集癸亥八月二十日、伏値先考大寧殿前左金吾太彦孫公大禪定門七周忌之辰(下略)

(古文書D)「天野文書」[1503(永正3)年ヵ]
於二其方一無二如在一候由、自二二郎方一申越候。神妙之至候。
猶以其心得可レ為二肝要一候。謹言。
 十月十九日   義元(花押)
天野二郎左衛門尉
 

(2)兄弟の和解とその背景
 さて、義元・慶致の兄弟対決は意外な形で幕切れをする。両者が和解し、義元が守護に還任したのである。では兄弟対決をした両者が和解した背景とはなんだろうか。1506(永正3)年に能登の他、全国各地で大規模な一向一揆が起こった(「東寺光明講過去帳」より)。これは11代将軍・足利義澄を擁立する細川政元が、対立する足利義材(義稙)の後ろ盾となる北陸守護勢力(注3)の減退を図ろうと本願寺に懇願して起こした北陸の一向一揆が原因であった。能登でも一揆軍の名前として、「能登国一宮代坊主」「鈴(珠洲ヵ)の三崎の鬼次郎」の名前があった。能登でも一揆の勢いは強く、「能登天満城」が陥落(「永光寺年代記」より)したと言われている。「七尾」という地名の所見が1513(永正10)年なので、この「能登天満城」とは七尾城のことを指す可能性もある。すなわち、1488(長享2)年に冨樫政親が一向一揆によって倒されたように、能登畠山家は存続の危機を迎えていた。
 そこで慶致は義元との連携を深めたようだ。(古文書D)にみられるように1506(永正3)年の段階で義元と慶致の子・二郎(後の義総)との連携がみられ、義元が守護としての活動が見える1508(永正5)年以前に兄弟の和睦がなったと東四柳史明氏は考察している。さらに東四柳氏は、1503(文亀3)年の足利義澄が能登守護畠山慶致を「敵か味方かわからない」(古文書E)と称したのを、この時点ですでに義元と慶致の和睦がなっていた徴証と述べ「明応九年の政変」後のかなり早期の段階で和睦が図られたとしている。和睦をした後も義元は守護還任の 1508(永正5)年まで越後に客居しており、能登畠山氏と越後長尾氏との連携が必要であり、東四柳氏は「長尾能景の勧めで義元との対立関係を解消し、北陸の守護勢力連合の一翼を担い、政元と結ぶ本願寺=一向一揆を制する側に転じていたためであろう。」と、義元と慶致の和睦を斡旋した人物に長尾能景の存在を挙げている(注4)
 確かにこの時点で和睦がなっていたとすれば1504(永正元)年、朝廷に対して「錦御旗」の下賜を願望も納得がいく。すなわち義元派と連携した時点で慶致も反細川政元の立場となり幕府があてにならない。そのため朝廷への協力を仰いだということである。また、1508(永正5)年に義元の守護還任した後すぐ義元派家臣と慶致派の家臣がうまく融合し政権運営をしている点でも合致がいく。また、越後長尾家にとっても能登畠山家との関係悪化は、すなわち日本海海上交通の要所を抱える能登との対立を意味し、京都への特産物の海上輸送がストップするなど物流の面で不利に立たされるなど、経済的な利益が揺らぐため、能登の政権との安定的な関係を欲していたという事情もある。しかしここで問題点がある。1503(文亀3)年に慶致が父義統の七周忌を能登の大寧寺にて盛大に挙行したが、そこに兄・義元が参加している様子が見られないことである。七周忌と言えばかなりの大行事であり、従来の説では義元・慶致兄弟が対立しており慶致が挙行し、義元が不参加と考えられていた。しかし、和睦がなっているのであれば肉親であり兄・義元の参列も当然ではないか。「翰林葫盧集」には参列者のことは見えないが、少なくとも和睦したのであれば義元と共同で法要を行っても良さそうなものである。

 ここで一つの推論を述べる。慶致と義元の和睦があった後も義元が守護に還任しなかった理由は、1503(文亀3)年の1段階目の和睦として「現状を追認する和睦」だったとする説である。つまり慶致が守護を引き続き務め、越後に居る義元と連携を図り一向一揆を制する側になる、というものである。これは、慶致方にとっては義元方との対立を解消し基盤の安定と長尾との連携も模索できる。さらに現政権もそのままであり利点が多い。その徴証に(古文書F)がある。これは1506(永正3)年〜1507(永正4)年に義元が天野次郎左衛門尉(俊景)に忠節に対し所領安堵を約束している文書である。義元と慶致が対立していると仮定すれば義元が守護に還り咲いた後の恩賞の約束と言えるが、この時点ですでに義元と慶致の和睦がなっているとすれば話は変わってくる。すなわち義元は現守護である慶致の意向を受けてこの文書を発給している。この戦の規模は相当のものであったと思われる。おそらくこのような能登の内乱を鎮圧するために、慶致も義元方の家臣と協力して鎮圧に当たっていたと言える。とすれば、もう一つ疑問が残る。1508(永正5)年になぜ畠山慶致が守護の座を降り、畠山義元が守護に還任したのであろうか。

古文書E『鹿苑日録』文亀3年
(七月)卅日、雨降、(中略)自能州守護殿(畠山慶致)陞座報来、使歡首座公府(足利義高)伺之、
(八月)二日、(中略)能登陞座御暇之事、蔭涼(東叙等元)被乞書状、遣之、
三日、能登守護未御禮申、夜番 然則敵国也、御暇不出也、夜間歡首座冷麺請之、
四日、歡首座下向、(下略)
十七日、自蔭涼有使云、(中略)又能州江無下向段御感云々、其外、五山中、有下向尊宿止之上意也云々、(下略)
 

(古文書F)「天野文書」[1506(永正3)年〜1507(永正4)年]
今度届被官討死忠節、本領前々所可知行候。
笠師村事為■所申付候。弥可粉骨候。謹言。
 十二月廿六日   義元(花押)
天野二郎左衛門尉
■は米へんに斤
※義元の花押から同年代と推定される。

(3)「義元在京−慶致在国」体制
 畠山義統政権の晩年の1493(明応2)年に起きた「明応の政変」。10代将軍・足利義材(後の義稙)を細川政元が廃し、11代将軍・足利義高(後の義澄)を擁立した出来事である。この出来事の後、義稙は自身の支持者である畠山政長の分国越中に動座し、神保長誠が支える「放生津幕府」が1497(明応6)年9月に越中を出て越前朝倉氏に身を寄せるまで続いた。畠山義統は越中亡命政府である義稙に参じ支持をするものの、義澄方にも通じていた。1499(明応8)年に義稙は上洛戦に敗れ周防の大内氏の下に逃れる。義統の母(畠山義有の妻で、賀茂別雷社、社家竹内氏出身)と、大内政弘の母は姉妹であり、
能登畠山氏と大内氏は縁戚関係ということもあり、その後も義稙方と義澄方とも両天秤外交を展開したようで、その結果として義澄方から「敵か味方かわからない」(古文書E)と評されたと思われる。その後、1507(永正4)年に細川政元が暗殺され義澄方の動揺が起こると、翌年の1508(永正5)年に義澄とその支持者の細川澄元を大内義興、細川高国、畠山尚順などの軍事援助により追い出し、足利義稙が再度征夷大将軍に復帰する出来事が起こった。畠山慶致が守護の座を降り、畠山義元が守護に還任した1508(永正5)年と同じ年のことである。

 当初は兄弟の和睦だけで守護還任の話はなかったにも関わらず、慶致の子・義総を義元の後継者とするという条件(注5)はあれど、義元の守護還任という事情が慶致方に生まれたと状況はなんであろうか。守護還任後の義元の動きを見ていこう。義元は守護還任後、比較的すぐに上洛した。1509(永正6)年12月には義稙邸で「猿楽」を細川高国・大内義興らと共に鑑賞している。また、1511(永正8)年8月24日に足利義稙が京舟岡山で将軍義稙・細川高国が政敵である前将軍・義澄・細川澄元等の敵軍を破った合戦(舟岡山合戦)では、「尚通公記」によると「公方衆二千人計、細川右京兆(高国)三千人計、大内左京兆(義興)衆八千人計、畠山修理大夫(義元)衆三百人計、都合一万五六千計」としているなど、義元は義稙軍の主力として参加している。
 以上のように義元は義稙政権の後見者の一人として在京大名になった。これは義稙政権の側近でとして主力であった畠山尚順の影響だと考えられる。尚順には1509(永正6)年に嫡男・鶴寿丸(後の稙長)が誕生した。その鶴寿丸が1510(永正7)年の幕府の猿楽の饗応準備をしていたとされる。僅か2歳の鶴寿丸が饗応の中心となっていたのは、尚順が常に在国していたわけでなく、分国・紀伊を往復していたためであった。尚順は義稙政権の基盤を強化するために、自身の基盤強化を急いでいた。そのため、京都での幕府を支えるのが幼少である鶴寿丸では義稙政権が手薄になってしまう。そこで同族である能登畠山氏の義元を頼みとし在京させたのではないか。しかし、慶致が上洛し分国・能登を離れては再び1506(永正5)年のような大規模な一向一揆があると対応できなくなる。そこで、義元・慶致の2段階目の和睦として「義元を守護に還任し上洛し幕府に出仕し、慶致を能登に残すことで基盤の安定化を試みた」のではないか。そして隣国加賀で「両流相論」と呼ばれる一族対立が原因で冨樫家が衰退した二の舞を防ぐために、慶致の実子である「義総を義元の後継者とする」という条件を附した。これは全くの推論の域を出ないが、この2段階目の和睦を斡旋したのは畠山尚順ではなかろうか。折しも尚順は嫡男・鶴寿丸(後の稙長)を幕府に出仕させ自身は紀伊での基盤強化のために下向している。そこで、「義元守護還任で在国−慶致が入道して能登在国」体制を斡旋したのではないか。
 この案は能登畠山家にとって幕府との強固な関係を深めれば1506(永正5)年のような畿内の実力者による大規模な一向一揆を防げる利点もある。この「明応九年の政変」はともすれば、幕府との関係から一向一揆による能登畠山家の滅亡の可能性や、一族対立から内乱状態に発展しかねない不安定要素があった。その状況を解消に導くために能登畠山家の再統合を義元と慶致は行ったのではないだろうか。すなわち、義元派と慶致派が再統合したことで家中にいらぬ不具合が起きることを防いだと考えられる。
 そのような状況の1510(永正7)年、前守護・保寧院徳宗(畠山慶致)も上洛して公家との交流をしている時期があった(古文書G)。保寧院徳宗(畠山慶致)は同年9月に近衛尚通に能登下向を伝えている(「後法成寺関白記」『加能史料Y』P.61より)。この上洛が短期間のものであったのか、この後慶致の在国を示す史料は多い。1511(永正8)年5月(古文書C)、1512(永正9)閏4月、1513(永正10)年5月に保寧院徳宗(慶致)は、近衛尚通に能登国の海鹿草を毎年1桶送っている。さらに1512(永正9)年には羽咋の気多社に安堵状を発給している。これは「義元在京−慶致在国」体制の一環ではなかろうか。慶致は入道してもなお、畠山家中でそれなりの処遇があったことが2段階目の和睦が成立した要因なのかもしれない。しかし、この慶致の在国が再び義元派と慶致派の分裂を産むきっかけとなったようで、1513(永正10)年に能登永正の内乱が起こり再び兄弟は対立するに至る。この時は、慶致の実子である畠山義総が義元方として調停を行ったことで鎮圧できた。あるいは、この乱では慶致の名前が積極的に出ないことから義元方と連携しており、慶致方の家臣が起こした内乱の可能性もある。この後、慶致は1525(大永5)年に死去するが全く活動が知られない。家中から実質引退しているとみるべきである。しかも1515(永正12)年に義元が死去し、自身の実子である義総が家督を相続したにも関わらずである。慶致が能登永正の内乱で擁立され失脚したか、慶致がこの反乱で義元派であったか、義総があくまで義元派としての立場で家督を相続したのかのパターンが考えられるであろう。
 畠山義総政権でも畠山尾州家(政長流)の畠山尚順との連携は続いたようで、1519(永正16)年に畠山勝王を総大将として、さらに能登畠山氏・越後長尾氏の協力を得て第1次神保慶宗征伐を起こした(越中永正の乱でも見られる(詳しくは「北国の政治秩序体制『畠山体制』」参照)。この件以降、能登畠山家と畠山尾州家(政長流)はかなり良好な関係が続いたようで、尚順の子・畠山稙長が義総の子・畠山義続を後継者に指名する関係に発展したのではないだろうか(詳しくは「畠山稙長遺言、畠山義続の河内畠山家相続」参照)。

(古文書G)『後法成寺関白記』永正七年
(三月)廿四日、庚午、晴、前藤中納言(武者小路縁光)・飛鳥井中納言(雅俊)・保寧院(畠山慶致)・時枝等来、有鶯合、歡一盞、徳宗(畠山慶致)太刀一腰、爲盃頂戴禮打刀一腰進之(下略)
 前守護・畠山慶致(保寧院徳宗)が近衛尚通邸の鶯合に赴く

(4)永禄九年の政変との違い
 1566(永禄9)年に9代当主義綱を追放した「永禄九年の政変」とこの「明応九年の政変」の違いはなんであろうか。「明応九年の政変」では、畠山家が困難になるとトップレベルの決断で、旧当主と新当主の和解が図られたが、「永禄九年の政変」では加賀での一向衆の蜂起など様々な困難があったが、若年当主である次郎(義慶)が主体性を発揮することができず、次郎(義慶)派家臣の思惑で義綱の環任は叶わなかった。結果、政変から10数年で能登畠山氏は滅亡している。これは、「明応九年の政変」の時代に比べ、「永禄九年の政変」の時代になって能登畠山家の家臣の力が強大化し、相対的に大名権力が低下していた結果であろう。

むすびに
 この「明応九年の政変」は、能登畠山家の大名権力を揺るがすできごとにも関わらず滅亡しなかった理由はなんだろうか。将軍が交代する「明応の政変」をきっかけに畿内での権力争いは複雑に展開していった。一方能登畠山家はその幕府での権力争いを乗り越えるように畠山義元畠山慶致の兄弟対立が和解するきっかけとなり、逆に大名権力を確立した。さらにこの時期に幕閣の中枢に入る込むことで、この後近江六角氏などの縁戚も得ることができ、京都の公家衆との縁もできた。それが義元の次代畠山義総政権の最盛期を謳歌することになるのである。能登畠山家は、なんとか戦国末期まで能登畠山氏を存在させることができたのは、この時に基盤を固めたことが大きいと思われる。

(注釈)
(注1)東四柳史明「能登畠山氏家督についての再検討」『国学院雑誌』73巻7号.1972年
(注2)東四柳史明「能登守護畠山慶致のことども」『七尾の地方史』24号.1990年
(注3)畠山義元は元々足利義材(義稙)を支援している義稙派で細川政元とも対立していた。
(注4)もともと東四柳氏は『志賀町史・沿革編』(志賀町.1980年)において、一向一揆の勢力が強大化し、それが能登でも徐々に進行し越後長尾氏が上記の条件で兄弟の和解を勧めたと、長尾氏が和睦斡旋をした可能性を指摘している。
(注5)この条件があったとすれば、守護に還任した義元は自分の子(宮内大輔)がいるのに、保寧院徳宗(慶致)の子である義総が次代の守護になっていることに説明ができる。。

参考文献
東四柳史明「能登畠山氏家督についての再検討」『国学院雑誌』73巻7号.1972年
東四柳氏他『羽咋市史中世社寺編』羽咋市.1975年
東四柳氏他『志賀町史・沿革編』志賀町.1980年
東四柳史明「能登守護畠山慶致のことども」『七尾の地方史』24号.1990年
東四柳史明 「畠山義元と能登永正の内乱」」 『加能史料会報』19号.2008年
車谷航「明応年間における和平交渉の展開と「二人の将軍」」『戦国史研究』85号,2023年
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