遊佐統秀特集

遊佐統秀イメージ像
↑遊佐統秀イメージ像(畠山義綱画)

☆遊佐 統秀<ゆさ むねひで>(生没年不詳)
 美作守。能登守護代遊佐嫡家の孫右衛門尉忠光の子。妻は賀茂別雷社の片岡禰宜の賀茂光顕の娘(『地域社会の史料と人物』北國新聞社.2009年.P30より)。「統」は三代当主畠山義統の偏諱だと思われる。義統政権下で守護代を務める。義統が在京時は能登を統括する立場にあったようである。義統の帰国によって権力が弱められたが、義元に家督が継承された後の、1500(明応9)年に義元と慶致の対立が深まると、義統の次男・慶致を擁立した(明応九年の政変参照)。その守護代として実権を握った。のち両者に和解が成立すると、慶統派の家臣筆頭として実力を保った。

統秀政治活動ちぇっく!
 世襲の守護代の遊佐嫡家の家柄であった統秀は当然守護代に就任した。統秀の古文書上の初見は1470(文明2)年である(古文書A)。この時統秀は、永光寺(羽咋市)に山林おける竹木伐採等を禁じている。これより、はっきりした古文書は1478(文明10)年までみられないが、在京している守護に代わり、実務を行っていただろう事が推察される(注1)
 統秀の守護代としての活躍がもっとも見えるのは1478(文明10)年のことである。須藤儀門氏は「守護被官の五井兵庫頭と珠洲郡の高座宮(珠洲市 須々神社)との神田訴訟では、あくまでも正理をもって宮側の正当性を認めたことなどあり、その政務実績の評価は高い。」(注2)と指摘する、高座宮と五井氏と訴訟をみていくことにしよう。
 「須々神社文書」によると、1478(文明10)年に能登国高座宮の神主・大宮友永が五井兵庫頭が神田を押領したので、守護・畠山義統に訴えた。同年8月28日に同社の訴えを認めて守護代・遊佐統秀に命じて押領を停止させた。しかし、五井は調停後もなお押領を続けたようで、再度友永が能登府中に出て訴訟をする事態に至った。統秀は五井の行動を「曲事」であると訴えを入れて、「御屋形さま注進すべきである」として、統秀の推挙を添えて極月(12月)に注進した。しかし年内には御屋形様の返答は到来しない(注3)ので、「年始の御神事たいてん候てハ、上らふの御ため不可然候」(年始の神社のイベントができなくなっては大変なので)という理由で、遊佐の独断で神田の年貢を大宮友永方に渡しなさいと命じている(年始の神事は無事行われた)。そして、翌年正月10日に義統の奉書が能登府中に到来し、神田を全て高座宮に返還せよとの奉書が遊佐(統秀)を介して同社に届けられた。さらに、神保加賀守からも御奉書が重ねて届いたという。この一連の動きをみても、統秀はすべて独断で国政を進めていたわけではなく、あくまで守護である義統に注進して、奉書を持って政治を行っていたことがわかる。さらにただ守護の意を介するだけでなく、守護に注進し返答を待つまでの間、暫定的な措置を自らの判断として行う権利を持ちえたようである。このようなことができたということは、能登国内で統秀が「守護代として権力を持っている」と認知されているからこそできたものである(注4)

 さて、下剋上となる戦国期には、守護の帰国時にすでに守護代が分国の権力を手中にして守護の権力を奪うといったことが見られるが(例:斯波氏領国朝倉氏など)、なぜ守護・義統と守護代・統秀の間にはさしたる確執が見られなかったのであろうか。
1479(文明11)年、それまで室町幕府の幕閣の中枢にいて在京していた守護・義統が、応仁の乱で西軍が敗れたことにより分国・能登に帰国すると、義統は能登国内の政治を取り仕切ったようである。1478(文明10)年8月に義統が永光寺(羽咋市)に発給した文書(古文書B)は、「書下」(かきくだし)という文書で、守護代を通じた間接的に命令を伝える「奉書」と異なり、守護の命令を直接的に伝える形式である。(古文書A)でみてきたように1470(文明2)年の段階で永光寺に対しての命令は、統秀が出している。それに対して、義統の下向が秒読み段階に入った1478(文明10)年では(古文書B)にみられるように、義統は守護が主体の領国統制に意欲を燃やしているのである。このように義統が能登の国政に強い意欲を燃やしていたことに加え、文明年中には将軍直属の奉公衆である長氏と畠山氏被官の温井氏が大規模な内乱を起こしており(詳しくは守護大名の「在京」と「在国」の意味するもの参照)、守護と守護代との確執があっては両者権力を失いかねない状況から協力関係が生まれたのかもしれない。

 それでも、義統の死後、義元の家督継承に不満があったのか、それまで義統に抑えられていた不満が爆発したのか、義元が家督を継承して3年後の1500(明応9)年に、義統の次男で父に寵愛されていた慶致が義元と対立すると、慶致を支援して擁立し5代当主とした(明応九年の政変)。 慶致政権の中枢にいたのはもちろん統秀である。やがて、細川政元の策略で北陸に一向一揆が吹き荒れ、畠山家が滅亡の危機にさらされた1506(永正3)年に義元・慶統両者の間に和解が成立すると、義元は守護に返り咲くことになった。第二次義元政権は、義元派と慶致派の両立で政治が運営されたが、その慶致派の筆頭として遊佐統秀がいた。

古文書A 「中興雑記」(羽咋市永光寺蔵)
能登國洞谷山永光寺(鹿島郡)事、於寺中門前・山林等切取竹木、
其外甲乙人不可濫妨狼籍(藉)、若有違犯輩者、可處罪科之状如件、

   文明弐年九月日   (遊佐)統秀 判


古文書B 「中興雑記」(羽咋市永光寺蔵)
能登國洞谷山永光寺(鹿島郡)事、為祈願寺上者、任先例、
於寺領諸公事等、不可有相違之状如件、

   文明十年八月十一日   (畠山)義統 判
 住持

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 義統が能登に招き1480(文明12)年〜1486(文明18)年まで滞在した歌僧の招月庵正広。この正広が遊佐統秀の「津向の北の磯山に小庄ある所」(注5)の歌会の催しに出向いたことなどが知られている。また、統秀が京都の伊勢貞宗に依頼して観世太夫(猿楽)の下向斡旋を行っているのは、本人の政治力もさることながら、文芸に興味があった事が見て取れる。

(注釈)
(注1)1475(文明7)年の「須々神社文書」で、高座宮の松の木3本が守護の命令で切り取されたとき、遊佐(統秀)と三宅(忠俊)から申次があったようだが、古文書の年代に疑問符がついているので(『加能史料』戦国Tより)、あえてその出来事を本文中に記しなかった。
(注2)須藤儀門『室町武士遊佐氏の研究』業文社.1993年
(注3)このことから、1478(文明10)年12月時点でまだ義統が能登に在国していないことがわかる。
(注4)しかし、疑問が残る。統秀が「権力を守護代」として認知されていたならば、なぜ高座宮に守護奉書を届けたのが、遊佐統秀だけでなく神保加賀守からも重ねて伝えられたのか。このことは、在国衆としての遊佐統秀の権力の限界を示しているものかもしれない。それゆえ、在京衆(であるかどうかわからないが)であり守護・義統に近習する神保加賀守から改めて守護の奉書をもらったものであろうか。
(注5)坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年

参考文献
須藤儀門『室町武士遊佐氏の研究』業文社.1993年
坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年
(共著)『戦国大名家臣団事典』新人物往来社.1986年
(共著)『日本の名族七北陸編』新人物往来社.1989年
池上裕子(編)『クロニック戦国全史』講談社.1995年
坂下喜久次「能登の都七尾の歴史を訪ねて(『七つ尾』14号)
中西国男「中世における加賀・能登の猿楽」『北陸史学』22号.1973年
ETC・・・・

義綱公式見解「守護代として能登を仕切った実力者」

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