守護大名の「在京」と「在国」の意味するもの

 1477(文明9)年に京都の自邸に火を放ち下向し在国大名となった畠山義統。その後、分国能登で権力基盤を築くが、なぜ下向して「在国大名」になったのか、さらに言うと、なぜそれまでは「在京大名」だったのか。この稿では、守護大名が在京する意味、下向して在国する意義を能登畠山氏の場合を通して考えていく。

はじめに
 室町時代の守護大名は原則「在京」で京都に住んでいた。よく一般に思われるイメージは、「在京大名は分国を在国している守護代に乗っ取られ下剋上される弱い存在」としての認識が多いようにも思える。つまり、「在京することは悪で、在国に変化することが戦国大名への必須条件」のように思われていることが多いのではないか。筆者のその昔はそのような認識をもっていた。ではなぜ守護大名は「在京」していたのであろうか。戦国大名は「在京」しないのであろうか。

 まず第一に、守護の任免権は幕府にあるので、権力を安定させるためには幕府に常にパイプを持っておく必要があった。例えば、加賀では守護職が頻繁に幕府によって交代させられてきた(詳しくは「両流相論」の時代参照)し、河内畠山氏でも応仁の乱以降、畠山総州家畠山尾州家との間で何度も守護が交代した(詳しくは「河内畠山氏特集」参照)。守護の頻繁な交代は、室町幕府3代将軍・足利義満や6代将軍・足利義教の時も守護の権力を削ぐために多く行われた。特に6代将軍・足利義教が嘉吉の乱で暗殺されると、義教によって交代された守護の復権の動きが見られ、そこで前守護・復帰した守護と骨肉の争いになった経緯が多くあった。加賀冨樫氏の例はまさにその一例であり、能登畠山氏はその交代劇の中で、畠山満慶が兄の畠山満家に家督を譲渡したことで、畠山家中は争いなく解決し、当時は「天下の美挙」と言われ、当時としては珍しいことであり、争うケースがほとんどだったようだ(詳しくは「畠山家の出自・能登畠山家のおこり」参照)。さらにその後も、管領の交代などをきっかけに、守護を交代されるケースも相次いだため、守護は在京して幕府に出仕し、中央政界とのパイプを築くき、変化に備える必要があった。また、守護から独立性を高める国人や将軍直属の奉公衆の領地が分国の中で多くある場合もあり、それらの勢力を抑え込むためには、中央政権たる幕府の力は絶大だったと思われる。さらに寺社や公家の荘園も室町時代は多く、守護請に対する訴訟も多く、幕府の政所での沙汰を有利にするためには在京することも有利に働いたと思われる。つまり、守護大名として必要性が大いにあって「在京」していたのである。

 第二に幕府側からの「在京大名の意義」を見ていきたい。室町幕府の将軍・足利氏は多くの所領をもっていないのである。鎌倉幕府の執権・北条氏は一族が多くの守護になっていたし、江戸幕府将軍の徳川宗家は400万石にも及ぶ直轄領があった。室町幕府将軍・足利氏は全国各地に将軍直属の奉公衆の領地が点在していたが、直轄領は見当たらない。これは将軍が守護大名に命じて軍を動かす体制であったためと思われる。多くの守護が幕府から離反することを理論上想定していないための制度とも言える。例えば、1457(長禄元)年に幕府に敵対的な行動を示す鎌倉府の足利成氏を廃して時の将軍・足利義政の弟・政知を関東公方とすべく派遣した。しかし、政知が幕府から奉行人などを連れて下向しても鎌倉公方(古河公方)に組する諸勢力はなかなか寝返らず、政知は鎌倉に入ることすら出来なかった。このようにみていくと、周囲の勢力が同意しなければ、幕府の意向は成就することはできない。そうであるならば、「在京大名」の有力者が幕政に参加することで日本全国支配を展開したと言える。室町幕府4代将軍・足利義持が無くなったあと、その後継者を指名するのではなく、「在京大名」と話し合った結果くじ引きで行うとしたことにも現れている。つまり、幕府にとっても「在京大名」を必要としていたのである。

 しかし、この原則を変えたのが応仁の乱である。既知の通り、応仁の乱は1467(応仁元)年に始まり、足利義尚・義視の将軍継嗣問題、管領畠山家の義就・政長の家督継承問題に端を発した戦乱である。京都を戦場とし東軍・細川勝元と西軍・山名宗全を中心として1477(文明9)年まで実に12年の長きにも渡り戦乱が続いたのである。この結果、日本各地で戦争が起き、そのため守護が「在京」することができなくなった。隣国や国内の反勢力の存在が分国を動揺させ、「在京」の意義より「在国」の意義が増したと言える。さらに将軍家や管領・細川家や有力大名山名氏との関連で、敵対関係がめまぐるしく代わり「在京」でのパイプ形成が上手くいかなくなっていた。その点で前述の第一の「在京の意義」を失った結果、第二の意義も失われていったと言えよう。

(1)応仁の乱における畠山義統の在京
 次に、能登畠山氏と在京・在国の関係を見ていきたい。注目すべきことは、応仁の乱における足利義視の動きである。義視は結果的に将軍になれなかったものの、1468(応仁2)年には「管領」として斯波義廉を、「政所執事」として伊勢貞藤を置いて幕府のような形を整えたのである。いわゆる足利義政の正統な室町幕府(東幕府)に対して、「西幕府」を構成したのである。そして、この「西幕府」に畠山義統は与していたのである。このことはすなわち、義統と正規の将軍である足利義政との断絶を意味する。1467(応仁元)年には、将軍・義政から畠山義統ら西軍諸将に東軍に帰属するよう御内書を下されたり、同年に京極持清方によって京都の義統邸が放火されるなど、政治的駆け引きが盛んだったようだ。
 その応仁の乱も、1470(文明2)年には畠山総州家の畠山義就の猶子となっていた義統の弟・畠山政国が朝倉孝景に殺害されるなど、義統を落胆させるできごとも起こった。翌1471(文明3)年に、越前の朝倉孝景が東軍に寝返ったことにより、西軍の勢いは減退してくる。そして1477(文明9)年に、管領畠山家の畠山義就が河内国に軍勢を率いて下ると、幕府は西軍方の主力・大内政弘が京都の陣を払って分国・周防に下向する。主力を欠いて戦えなくなった西軍の能登守護・畠山義統と美濃守護・土岐成義も同年11月京都の自邸に自ら火を放って二人はいったん美濃に逃れた。前述する「はじめに」で示した第一の意義を「在京」に見いだせなくなっていたからである。すなわち、この義統の京都からの下向は義統にとっては「不本意な下向」であったと見るべきであろう。よく一般の歴史書には「京都を見限って下向した」などと、大名自らの意思で分国に下向を決意したような記述も見られるが、それは真実とは言えない場合もある。

 義統はすぐには分国能登に下向しなかったようで、1478(文明10)年7月17日に義統は足利義視・美濃守護・土岐成頼と一緒に将軍・義政に赦免され(「尋尊大僧正記」などより)、その御礼としてこの三者の使者が美濃国より上洛している(古文書Aより)。このことから、義統は京都の自邸を焼いた後すぐに下向したのではなく、いったん土岐氏の分国である美濃に逃れ、将軍・義政の赦免を請うているのである。すぐに分国へ下向しなかったというのは何を意味するだろうか。京都を見限って在国大名となり基盤を強化を目指すのであれば、すぐに下向すべきである。幕府にしてみれば、有力な守護大名である能登畠山氏と土岐氏を完全に敵に回せばまた幕府に不利になり戦乱が拡大する恐れがある。前述する「はじめに」で示した第二の「在京」の意義である幕府の構成者は多い方が良く、敵対勢力は少ない方が良い。よって、すぐに分国に帰って個別な存在となれば討ち果たすことも可能ではあるが、能登畠山氏と土岐氏が連帯していたという事実が赦免された理由ではないだろうか。

 では将軍から赦免されたのに、義統はなぜ「在京大名」に復せず、分国能登に下向し「在国大名」となったのであろうか。それは前述する「はじめに」で示した第二の「在京」の意義である幕府の構成者に畠山義統がならなかったからである。それまで敵対した勢力を幕閣に迎え入れれば現在の幕閣にいる有力「在京大名」に反感を買う。だからこそ8代将軍・足利義政は義統にその後も冷遇された。義統はご機嫌を伺う為に帰国後の1479(文明11)年に幕府に贈答品を贈ろうと政所執事・伊勢貞宗に取次ぎを依頼するが、一度も返事をもらえないなど冷たくあしらわれている(「晴富宿禰記」文明11年7月27日条より)。その後も義統は何度も将軍家に謝辞の内容の手紙と贈り物を頻繁に送っている。室町幕府の体制は、将軍の専制だけで決まるものではなく、「在京大名」との衆議を重ねて行われるものである。だからこそ、将軍・足利義政が個人的に畠山義統を冷遇したのではなく、幕閣のメンバーから「長らく西軍に味方した畠山義統を受け入れ難い」と思われたため、そのことを察した義統は「在京」をあきらめ、能登に下向したのではなかろうか。また前述の「はじめに」応仁の乱を契機に、動揺する分国経営を安定化させるため、「在京」する意義より「在国」する意義が増して能登畠山氏以外でも「在国」する大名が多くなったという背景もある。

(古文書A)「兼顕卿記別記」文明10年8月21日条
廿一日、庚戊、リ、(中略)自濃州今出河前大納言(足利義視)御使伊勢八郎(貞職)、備中守貞藤子也・土岐(成頼)雜掌齋藤修理(康明)亮(進)・能登守護(畠山義統)雜掌(佐脇宗隆)等入洛、今度各御免之儀、先且爲畏申入也云々、鵝眼・龍馬等濟々牽進之由、有其沙汰也、(下略)

(2)「在国大名」義統の外交
 義統は分国能登に在国すると盛んに文化人を七尾に招請した。(注1)これは畠山義統の公家的な趣向というよりは、寺社や公家勢力を取り込むことで、室町幕府との関係をさらなる悪化を防ぎたいという思惑があったとのだとも思う。また義統は幕府に対してのかなりの贈答品を贈っている(下の表1より)。これは幕府にこれ以上敵対心が無いとの意思表示に他ならない。義統の弟である政国は、前述のように畠山総州家の畠山義就の猶子となっていたが朝倉孝景に殺害されていた。義統が在京して幕閣にいない今、幕府に敵対を続け政国が存命していたとするならば、「在京大名」たちの衆議によって義統が能登の守護を罷免させられることも十分考えられる事であった。それほど、守護大名にとって幕府の力は重要なものなのである。その中で、「在国大名」となった畠山義統は分国で安定的な支配を展開した。
一方で、幕府にとっても多くの守護大名が「在国大名」となっても、音信を継続し、贈答品を贈ってくるのに助けられていた事情がある。応仁の乱は幕府のお膝元である京都を中心に行われ、幕府組織が多大なるダメージを受けたと共に、多大なる軍事費も、町が焼けて庶民から取る税金も減り、また「在国大名」が増えて大名からの資金提供も徐々に乏しくなっていた。1486(文明18)年の次期将軍・足利義尚の「任右大将拝賀の儀では、幕府も公家も資金提供がままならない程の貧窮状態であった。だからこそ、かつての敵対勢力であった畠山義統も徐々に受け入れていったと思われる。

 だが幕府との関係悪化をいとわない「在国大名」もあった。近江・六角高頼である。六角氏は応仁の乱後、守護家の権力を高めるため、近江国内の将軍直属の奉公衆や公家や寺社領の荘園を国人や被官に与え分国近江の領国化と権力基盤強化に努めた。高頼は応仁の乱では西軍方であったため、現在の幕府とは対立関係にあった。分国経営を安定化させるためとはいえ畠山義統と逆の反幕府的行動をしている。畿内の分国で反幕府の行動を考えると、幕府の権威が落ちたこともあるが、高頼にとっては幕府と対立しても勝算があるほどの経済力や外交力を有していたと見える。実際、奉公衆、公家や寺社から六角氏に対する訴訟が幕府に持ち込まれた。直属の被官である奉公衆の領国を守るため、1487(長享元)年9月に室町幕府9代将軍・足利義尚は六角高頼攻めを決定し、前管領・細川政元に約2万人の兵力で出陣させた。高頼は居城の観音寺城を出て山中に逃れてゲリラ戦を展開したので、将軍自らも出陣することとなった。将軍自ら出陣するというのは、南北朝期の初期の幕府には見られるが、安定期の幕府からすると異常なことである。この戦には前管領の細川政元や加賀守護・冨樫政親は参陣したものの、他の守護大名の積極的な参陣は見られない。もちろん、能登畠山氏もこの戦に参陣しなかった。冨樫政親は将軍・義尚の信頼を得るために参陣したが、それとは義統の動きは対照的である。今まで幕府の意向を探ってきたのにこの変遷はなぜか。主な理由は3つ。1つ目は、在国して権力基盤を固めつつあった義統は幕府の動きに対しても是々非々となった。2つ目は、「在京大名」が減って応仁の乱で経済的に困窮した守護大名は、簡単に幕府の意向に従わなくなった。そこで畠山義統が参陣に応じなかったとしても目立つことは無くなっていた。3つ目は、能登畠山氏は近江の余呉に初代能登畠山家当主・畠山満慶の時代から荘園を持っていた(詳しくは「能登畠山氏と余呉庄の考察」参照)。これには当然近江守護である六角氏の支援がなければ領地を維持できないため、六角氏を敵対視していなかったなどの理由があろう。この幕府に対するスタンスの違いは結果的に、参陣した冨樫政親は長享の一揆(1488)年で戦死したのに対し、畠山義統は以後も安定した治世を展開し、さらには将軍直々に攻め込まれた六角高頼も、将軍が陣中で病没したため赦免された結末を考えると、如何に応仁の乱が幕府の権威を落ち、守護大名のトレンドが「在京」<「在国」へ変化したことが見て取れる。

 その後も畠山義統の領国安定化政策は続く。1489(延徳元)に能登国菅原庄が守護によって押領され、御経を中止するというできごとがある(北野社家引付)。義統は荘園の押領を進め、在地の基盤を成していった。同年の10月には、足利義政の東山山荘の普請役を勤めないなど(「蔭涼軒目録」より)ずいぶん幕府に対して態度が変わったことが見て取れる。この行動を考えると、六角高頼の行動と似ている。しかし一方で、対幕府外交には守護「在国」後も力を発揮できるよう、嫡子の畠山義元を能登畠山氏の荘園がある近江・余呉に住まわせ対幕府外交を担わせた。このような反幕府的な行動が見られる原因は何故か。1489(延徳元)年になると、将軍・義尚は六角高頼征伐を成し得ぬまま近江陣中で没する。将軍後継者には、足利義視の子・義稙(義材)と、堀越公方・足利政知の子・義澄が候補となり、幕閣でそれぞれ支援するグループが現れ、政局はまたもや混迷を増す。翌1490(延徳2)年に義政が死去したことで、将軍は義稙(義材)に継承されるが、義政の室・日野富子は義澄を支持するなど、混迷は収まらなかったので、地方の守護まで幕府の管理が及ばなかったのではないかと思う。

表1(畠山義統の幕府進上物表)『七尾市史通史編』より
  鳥目(銭) 太刀 白鳥 海鼠腸 海鼠子 煎海鼠 鯖背腸 鯖子 塩引 来々
1481年分 12000疋 5振 1頭 4羽 17尺 10 830桶 30桶 30束 150桶 120桶 1 50尺 400
1483年分 3300疋 4振   4羽     700桶 20桶 30束 130桶 100桶   10尺  
1485年分 9000疋 6振   4羽 11尺 40 150桶 20桶 30束 150桶 100桶   10尺  
総計 24300疋 15振 1頭 2羽 28尺 50 1680桶 70桶 90束 430桶 320桶 1 70尺 400

(3)義統時代の能登国の状況
 話を応仁の乱の頃に戻して、能登の状況をみていこう。『応仁広記』によると、能登国の奉公衆(将軍の直臣)である「長九郎左衛門尉政連」は山名家の領国である但馬国朝来郡に乱入し山名家臣と戦い討ち死にしたという。『長家家譜』によると長政連は将軍・足利義政に従い1467(応仁2)年に但馬で討ち死にしたとされる。『長家家譜』は江戸期に成立した書物で、引用には相当の注意を払う必要があるが、『応仁広記』と一致するので、長政連が将軍に従って討ち死にしたというのは事実であろう。となると、長家は東軍に属したということになり、能登守護・畠山義統が西軍に属したのと対極をなすこととなり、能登でも応仁の乱に伴う動乱があったことが想起できる。『長家家譜』によると長政連の跡を継いだのは鳳至郡高瀬城に居た長光連(注2)であった。文明年間中にはさらにその光連の子である「長下総守教連」が現れる。そして、この長教連は、『長家家譜』の氏連の段に「文明中能州兵乱、温井氏等徒党を結び郷民蜂起す、この時居城穴水で氏連は生害したもう」という記述がある。坂下喜久次『七尾城と小丸山城』(北國新聞社出版局)によると、1455(享徳4)年の時点では長氏(長下総守教連)が天満宮宝殿を建立しており(「輪島崎天神社文書」)この時点で輪島市の大屋地域は長氏の支配下にあると思われる。しかし、時代が下って1476(文明8)年には重蔵宮講堂を温井氏(温井彦左衛門尉為宗)が建立している(「重蔵神社蔵棟札拓影」より)。さらに、1478(文明10)年には温井備中守俊宗が願主となり天満宮を建造しており(「輪島崎天神社文書」より)、この時期には輪島市大屋地域は温井氏の支配下にあると考えられる。 『永光寺年代記』に、「文明元年、客星出る、町野合戦」とある。どのような合戦であったかは定かではないが、文明元年といえば1469年であり、先述した『長家家譜』の温井氏による穴水城攻めの年代と一致する。となれば、輪島市の東部に位置する長氏の領地であった町野庄(下記地図参照)も温井氏の支配下になったのではなかろうか。また、輪島市の南方にある三井町の興徳寺は、元々真言宗であったが、文明中に温井備中守次男・政貞が出家し空西となって住職となったとあり(「三井村仏照寺縁起」より)、この頃には三井町まで温井氏の勢力範囲になっていたことがわかる。このように『長家家譜』の記述だけでなく、能登の鳳至郡で文明年間中に長氏と温井氏の大規模な合戦が起こったことは事実のようである。
 この長氏と温井氏の大規模な合戦は、おおかた温井氏の勝利で終わる。温井氏が勝利をした理由は、応仁の乱に長氏が東軍として積極的に参加して、能登国内の防備が手薄になったためではなかろうか。とすると、応仁の乱は能登国内にも非常に大きな影響を与え、動乱を起こしたのである。さらに、1486(文明18)年9月には、能登国が台風(大風)に襲われる被害があった(「永光寺年代記」)。1488(長享2)年には加賀国で長享の一揆(参考・「加賀冨樫氏野々市の歴史」長享の一揆のコンテンツ)が起こり、加賀一向一揆勢力に守護大名・冨樫政親が滅ぼされる事件が起こる。その影響は能登にも波及し、1490(延徳2)年には能登国衆の一向一揆が蜂起を企てる、井口某の裏切りで義統は何とか弾圧に成功するという事件があった。このように、義統が分国能登に在国した1478(文明10)年以降、能登国は決して安定した国内状況にはなく、守護が「在京大名」に復する条件が整っていなかったと見える。

長と温井の対立
<地図は「戦国を楽しむ」様から利用させていただきました!>

(4)「在京大名」義元と能州下向
  1493(明応3)年に、管領である細川政元が将軍・義材(後の義稙)を見限り、新将軍として足利義高(後の義澄)を擁立するクーデターが起こった。いわゆる「明応の政変」である。クーデターに敗れた義稙(義材)は懇意にしていた畠山尾州家の畠山政長(1493年に自害)・畠山尚順の分国である越中の守護代・神保長誠を頼って逃げた。この時、越中放生津に逃れた義材のもとに、畠山義統や越前守護・朝倉貞景、越後守護・上杉房能、加賀守護・冨樫泰高らの北陸の大名を中心に、山口の大内義興、肥後・相良長毎らも支援を表明した。越中に動座した前・将軍は一度は畠山義統応仁の乱で味方した西軍の足利義視の子・足利義稙(義材・義尹)である。分国・能登のすぐ近くである越中に前将軍が滞在しているので、敵対すれば能登国内も分裂して無用な内乱が起きかねないという事情もあったのであろう。しかし、その後、能登畠山氏を含めた北陸勢力は前将軍・義材に軍事協力をしていない。それはなぜか。室町幕府の新政権である第11代将軍・足利義高政権は、当初は、斯波義寛や赤松政則らも「在京大名」だったが大半の大名は下向してしまった。それでも義高政権を支えた管領・細川政元と、政所・伊勢貞宗、若狭守護・武田元基、近江守護・六角氏綱と対立することはリスクになる。そこで、畠山義統は1594(明応3)年12月に、幕府が行う法華八講(法華八巻を講じる法会のこと)の「京都八講供料」として三万疋を進上している(『尋尊大僧正記』明応三年十二月三日条より)。三万疋とは約300貫の価値であり、表1の進上の合計金額を上回るかなりの金額である。しかもこの法華八講は停止され、新将軍・足利義高の元服費用に転じられ、同月に義高は元服の儀を行っている。この多額の能登畠山家の進上金が義材と敵対する義高方(細川政元方)に渡る可能性は十分考えられる。事実上足利義高の元服代金であったのではないだろうか。つまり能登畠山家は前将軍・義材に軸足を置きつつも、新将軍・義高にも通じるを両天秤外交をしていたのである。守護大名にとって将軍と対立することがいかにリスクかわかる事例でもある。

 義統は1497(明応6)年に死去し、嫡子・畠山義元が跡を継ぐ。1499(明応8)年には、前将軍・義義材が京を目指して近江まで攻め込むが六角高頼・氏綱に敗れて敗退し、周防守護・大内義興の下へ逃れる。一方、能登畠山家の家督を継承した義元も、弟・畠山慶致との確執があり、1500(明応9)年に明応九年の政変で義元が越後へ出奔し、慶致が家督を継承するできごとがあった。畠山義元は前将軍・足利義稙派であったため、新しい守護・畠山慶致は新将軍・足利義澄・細川政元派としての立場であったようだ。元々兄弟の争乱が明応九年の政変の原因であるが、中央政界のパワーバランスも家中の騒動に加味されていることは間違いない。しかし、その慶致政権も1503(文亀3)年になると幕府より慶致政権は「能登守護未御礼申、然則敵国也」というようにみられ"新たな能登守護は敵か味方かわからない”と評されたのである。つまりこの頃から兄・義元と弟・慶致との連携が見られるから義澄政権と疎遠になったのだと言われている(詳しくは「明応九年の政変」参照)。1506(永正3)年の段階で義元と慶致の子・二郎(後の義総)との連携がみられるとしてそれ以前に義元。慶致兄弟の和睦がなったとみえる。
 そして1508(永正5)年には前将軍・足利義稙が周防守護・大内義興の支援で山口から入京することに成功し、義澄を破って将軍に復帰することに成功した。義稙政権は義澄方との対立を抱えており、軍事力の多くを依存している大内義興の影響が強い。さらに管領である細川高国の存在も無視できない。一方で一貫して義稙を支持している畠山尚順は分国紀伊の基盤が安定しない。その結果、尚順の要請によるものか畠山の同族である能登畠山家も在京大名となり、細川、河内畠山、大内、能登畠山の4家で支える構図となった。能登畠山家にとっては分国・能登の経営の安定を考えると「在京」することは好ましくない。ただし、将軍に復帰した関係も切りたくない。その結果、畠山義元畠山慶致兄弟の和睦はさらに進展して、義元が守護に還任し「在京」し、慶致は入道し保寧院徳宗となって「在国」して能登の国政を預かるという「義元在京−慶致在国体制」が1508(永正5)年に確立した。さらに次期守護に慶致の子・畠山義総に内定することで、明応九年の政変以来に能登畠山家中は義元派と慶致派に分断されていた派閥構成の再統合することで家中の安定を図った。能登畠山氏が再び幕閣で中枢を担うチャンスであったとも言える。義元は室町幕府御相伴衆に任命されるほどの寵愛ぶりだった。1509(永正6)年12月には義稙邸で「猿楽」を細川高国・大内義興らと共に鑑賞するなど、能登畠山家は再び「在京大名」となって幕政に影響を与えていった。

 義元が在京した理由は「義稙政権が政情不安定だった」ために他ならない。前述する「はじめに」で示した第二の「在京」の意義である。特に復帰した義稙政権は、旧義澄政権との対立は解消しておらず敵が多く、少しでも多くの味方が「在京大名」として京都にいることが必須条件であった。実際に1511(永正8)年には足利義尹(義材・義稙)・細川高国が京都に迫る細川政賢に追われて丹波国に逃げて畠山義元もこれに追従している。そして、3週間後には義尹(義材・義稙)が京都を奪還するために、京都船岡山で合戦となり、義澄方(義澄は合戦の10日前に病没)を破って入洛することに成功した。この船岡山合戦について「尚通公記」によると「公方衆二千人計、細川右京兆(高国)三千人計、大内左京兆(義興)衆八千人計、畠山修理大夫(義元)衆三百人計、都合一万五六千計」と、義元は細川高国、大内義興に次ぐ義尹軍の主力として参加していることがわかる。この舟岡山合戦の時に義稙政権を支えた河内畠山氏畠山尾州家の様子が知られない。この時の畠山尾州家の当主である畠山尚順は紀伊の治世の安定化のために紀伊に在国して京都にいなかった。そのため、僅か3歳の畠山鶴寿丸(後の畠山稙長)と遊佐越中守就盛が京都に「在京」しており、およそ合戦に参加できる状態ではなかったようだ。このような事情からも、将軍・足利義稙にとって能登畠山氏の勢力が必要とされており、畠山義元が幕政に関わる「在京」する意義があった。さらに、将軍・足利義稙は1513(永正10)年3月に極めて少数のお供を連れて京都を出奔して京都が騒然となった。その義稙の出奔の原因は「両京兆(細川高国・大内義興)に対して述懐(うらみ)があったため」(『後法成寺関白記』)であったとされる。この出奔は、義稙が「諸事の義稙の御成敗に背かないこと」(『和長卿記』)を誓うことで帰洛したという。このような将軍が突如政務に不満で出奔するという例は室町幕府の将軍では度々ある。義稙政権は細川高国・大内義興らの多大な貢献で成立している政権ではあるが、義稙は多くの大名を取り込む多数派工作をすることで、細川・大内両家の政権への影響力を下げようとしたと思われる。

 義元は将軍・義稙の信頼と当時の義稙政権の状況から幕閣の枢軸に位置したが、1513(永正10)年10月に能登国で錯乱が起きたためにそれを鎮圧するため畠山義元自ら能登に下向した(詳しくは「(能登永正の内乱」参照)。この内乱は「在国」していた保寧院徳宗のグループの者達が義元に対して起こした反乱だと考えられる。いったんは統合したかに見えていた能登畠山家中は未だ不満がくすぶっていたのである。この乱は翌1514(永正11)年に次期家督継承予定者である畠山義総が下向して調停することでなんとか収束をみた。慶致の子である義総が調停することは保寧院徳宗のグループにとってはトップとして擁立する相手がいない事態となり、弱体化する要因となったことは固くない。その結果、義元はこの乱を「在国」することで鎮圧できた。ただ義稙政権にとって幕閣の枢軸に位置する「在京大名」が「在国大名」になるのは、多数派工作に逆行することであり、幕府の弱体化を意味する。しかし、それでも将軍が下向を許可したのは、能登永正の内乱がよっぽど逼迫した状況だったのであろう(注3)。この乱鎮圧後も義元は再び在京することなく分国能登に留まって「在国大名」となった。翌1515(永正12)年には中風を煩い、実質的な政務を義総に行わせていたという病状的な理由に加え、「在京大名」としての意義よりも「「在国大名」の利点が上回っていたとも言えよう。そして、義元は同年の9月20日に死去し、家督は予定通り義総が継承した。

(5)「在国大名」義総の外交
 家督を継承した義総は能登国内で安定した基盤を築き、文芸にも熱心で、外交に長ける。ゆえに能登畠山家は1515年〜1545年までの30年間、義総の治世の下で安定した発展を遂げることとなる。義総は家督を継いだ初期の1516(永正13)年に在京が確認できる「在京大名」だった。同年2月に細川高国の自邸に招かれている(「後法成寺関白記」)(注4)。ただ、翌年の1517(永正14)年には冷泉為広が能登に下向し、七尾城内で様々な歌会が催されていることからも、義総の在国が確認でき「在国大名」となっている。政権が安定した畠山義総がなぜ「在京大名」にならずに「在国大名」でいたのか。それを国内事情と幕府側事情に分けて見ていく。
 まず国内事情としては、1513(永正13)年におきた能登永正の内乱の影響であろう。先述したとおりこの錯乱は大規模なもので、当主が能登に下向し、後継者である義総も下向した。時代は下るが、1531(享禄4)年には、加賀一向一揆が政治路線の違いから大一揆方と小一揆方(若松本泉寺ら加州三カ寺派)に分かれて内紛(参考・「加賀冨樫氏野々市の歴史」享禄の錯乱のコンテンツ)が起った。義総はこの内紛で小一揆方に味方し、加賀津幡の合戦が行われた。しかし、小一揆方は負けて、亡命してきた者を義総は能登で保護した。これは能登畠山氏と本願寺の対立を深化させる結果となった。さらに、義総に反旗を翻した畠山九郎を加賀本願寺が保護し、本願寺の支援を受けて能登に乱入するなど紛争は激化の一途をたどった。このような状況では、義総が在京できるはずがない。国内外の不穏な動きに対処するために義総は「在国」していたのだと言えよう。
 次に幕府側事情を見ていく。1517(永正14)年に、義稙政権を支えた大内義興が分国周防に下向した。義興は義稙との関係が悪化していたことに加え、領国が隣国の大名・尼子氏との対立を抱えてたこともある。また、河内畠山氏畠山尾州家の畠山尚順は分国を平定するために紀伊へ下向し、義稙政権を支える「在京大名」は細川高国のみとなった。幕府を支える有力大名が1つのみとなってしまえば、将軍・足利義稙も細川高国に依存せざるを得ず、義稙と高国にはトラブルが絶えず、一時高国と対立関係にあった細川澄元と手を結ぶような状況であった。こうして1521(大永元)年3月、細川高国と不和になった義稙が淡路島に出奔すると、高国は義稙の帰洛を良しとせず、義澄の子・足利義晴を将軍として擁立し、義稙との関係を絶った。今までの能登畠山氏の外交スタンスからいくと、足利義視の系統である出奔した義稙を支援するようにも思えるが、義総は9月に将軍・足利義晴に対して代始を賀している(古文書Bより)。能登畠山氏の外交政策を転換させた理由は、義稙が次々と「在京大名」を信用せず出奔し、次第に人心が離反していることが大きく影響していることは間違いない。
 理由がもう1つ。それは能登畠山氏の本願寺対策である。1539(天文8)年に義総は娘を近江の大名・六角定頼に嫁がせ婚姻関係を結んだことにより同盟関係を結んだ。この頃の近江六角氏は、「細川京兆家とともに天文期の将軍(義晴)を支える最も重要な大名」(山田康弘「戦国期大名間外交と将軍」『史学雑誌』112編11号,P46より)という地位にいた。それゆえこの同盟は「能登畠山氏にとって、将軍に近しく、またそれゆえに本願寺に対して一定の発言力をもっていた六角氏との同盟は、将軍との関係安定化をはかり、さらには、本願寺との関係改善を進めるうえで大きな利点があった」(前掲山田康弘氏論文,P49より)のである。すなわち、義総は本願寺対策のために「在国大名」である国内事情があるに加え、義稙政権は諸大名との関係が不安定で、幕政を担っても諸大名との友好的な外交が期待できないという「在京大名」になっても利点が感じられないという幕府側事情もあった。それを解消するために、新将軍・足利義晴に接近し、地理的に京都に近く、将軍家や本願寺との関係が深い近江六角氏へ接近することにしたと考えられる。能登畠山氏が「在国大名」となるにあたり、京都に近い近江六角氏を幕府に対する申次として重用していたのではないだろうか。

(古文書B)「親孝日記」大永元年9月11日条
十一日、(中略)
一、自典廏御(細川尹賢)申云々、畠山左衛門佐殿(義総)御代始(足利義晴)御禮御申候、御禁忌之條、御披露之旨、私まて御状を被進者、可爲御□著之由、以女中御申候儀候、可被進之歟、如何之由、服部をもて被尋下、可被進候旨申上之處、御案事服部被申候間、則所存之通一筆調進上、自畠山−殿(左衛門佐)御代始御禮御申候旨、令披露候畢、尤以珍重存候、仍此方へ時宜被仰下候者、所仰候旨、(以下欠く)
□は「示」へんに「兄」

むすびに
 守護大名が「在京大名」「在国大名」になる意義を、応仁の乱の前後に分けて将軍・足利義政と畠山義統の例と、将軍・足利義稙と畠山義元畠山義総の例を元に考察した。 ここに能登畠山氏を例に「在京大名」の意義について確認していきたい。応仁の乱以前は、幕政の中枢として関わることで自分たちの分国を安定させることが利点としてあるので、「在京大名」>「在国大名」という利点があった。しかし、応仁の乱以後は戦乱によって経済的負担が大きくのしかかった。「在京大名」で幕政に関わる場合は、幕府や朝廷関連の出費を負担せざるを得ず、経済的困窮に分国も動揺している以上幕府と適度な距離をもった関係の方がよく、「在京大名」<「在国大名」という利点になっていった。ただし「在国大名」になった守護大名も幕府とのつながりを完全に排除することは分国経営に悪影響があるので、畿内の有力者や公家などもとも良好な関係を保つことは必要だったと言える。

 この考察から、応仁の乱以前の守護大名について「在京大名は分国を在国している守護代に乗っ取られ下剋上される弱い存在」としての認識はあてはまらず、むしろ「在京大名」の方が分国を安定化するためにも必須条件であることが指摘できた。一方で応仁の乱以後は「在京大名」の意義が薄れており、すでに大半の守護大名が「在国大名」に転じていた。すなわち「在京することは悪で、在国に変化することが戦国大名への必須条件」という事情は守護大名にもよくわかっていたことであった。つまり、戦国大名の多くは、下剋上によって守護代や庶民から成り代わったものではなく、守護大名が時代に趨勢に応じて変化していったものが汎化していったものが多いと言える。

 ただ本稿では、「守護在国後の守護−守護代体制の在り方」を十分に論じることができなかった。今まで領国を取り仕切っていた守護代と、急に分国に戻った守護との軋轢は必須であると思われる。能登畠山氏においても「在京大名」から「在国大名」にシフトした際の守護・畠山義統と守護代・遊佐統秀との関係を十分に考察することができなかった。戦国期になると、能登畠山氏は守護・畠山家と遊佐氏や温井氏などの重臣と対立する事象が目立ってくる。全くの仮説ではあるが、これは守護が「在国大名」になったことで、幕府と在京大名との関係のように路線対立や軋轢が起こった結果ではないかと思われる。今後はその状況を明らかにするために研究していきたいと思う。

参考文献
(共著)『クロニック戦国全史』講談社,1995年
山田康弘「戦国期大名間外交と将軍」『史学雑誌』112編11号、2003年
坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年
東四柳史明「畠山義元と能登永正の内乱」『加能史料会報』19号,2007年
久水俊和(編)『「室町殿」の時代安定期室町幕府研究の最前線』山川出版,2021年

(注釈)
(注1)例えば、能で有名な京の観世大夫氏重が七尾に下向して、義統に扶持を得て七尾城中で盛んに能が催されたと言う。また、1480(文明12)年義統の招請で和歌で有名な招月庵正広が能登に来訪すると、七尾で歌合など数々の興行を行った。
(注2)『長家家譜』によると光連は政連の弟で、政連の養子となったと言われる。
(注3)加賀守護の冨樫政親が、将軍・足利義尚に従って六角高頼を征伐するために近江従軍していた1487(長享元)年、反政親派の国人・土豪と本願寺派の大坊主や門徒が一揆を結成する動きをみせるなど加賀国内での錯乱の動きに政親が義尚に許しを得て帰国した事情に通じるものがある。
(注4)細川高国邸に招かれるという在京の証拠がある一方、翌月の3月には近衛尚通が能登国に下向する者に義総の手紙を託すなど能登在国の証拠もあり、ずっと在京していたわけでは無く分国能登と往復していたと思われる。

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