「両流相論」の時代

はじめに
 冨樫教家と冨樫泰高は兄弟だが家督争いを長い間演じてきた。この教家と泰高と対立を一般的には「両流相論」と言う。この対立は根が深く1441(嘉吉元)年から1447(文安4)年まで続いた(加賀嘉吉文安の内乱)。結局は加賀を半国ずつ守護することで両派妥協が成立するが、その後も冨樫家中で対立は続いていった。冨樫政親(泰高派)と冨樫幸千代(教家派)の対立も基本的には、この両流相論から発展したものであった。実に1441(嘉吉元)年から30年以上経っても家中争乱が継続していたことになる。なぜこれほどまでに争乱が長引いたのか、ここでは「両流相論」の背景を中心に論じていきたい。

(1)両流相論の発端−加賀嘉吉文安の内乱−
 1433(永亨5)年から冨樫の家督は教家が継承していた。しかし、恐怖政治で知られる6代将軍足利義教の怒りを買った冨樫教家は1441(嘉吉元)年6月18日に守護を解任され、その跡は教家の弟冨樫泰高が還俗して継承した。6月24日嘉吉の乱において将軍義教が赤松満佑に暗殺されると、幕府の管領細川持之が人心の安定の為、義教に追放された人物を復権させる方針を発表した。すると、冨樫家中でも教家が家督返還を要求し、泰高がこれを拒否して、家中を二分する「両流相論」の時代が幕を開けた。ここでは、これからの対立を「泰高派」と「教家派」の対立軸を中心に見ていく。

1441(嘉吉元)年頃の対立軸
  冨樫泰高派 冨樫教家派
中心人物 冨樫泰高(加賀守護) 冨樫教家
被官主力 山川家之 本折但馬入道
支援者 細川持之(管領)
摂津満親(幕府奉公衆)
畠山持国?
(河内・紀伊・越中・大和守護)

 時の管領細川持之は「人心の安定の為、義教に追放された人物を復権させる方針」を打ち出したと言うが、この方針は加賀には当てはめられなかった。というのも、泰高が家督を継承する際、管領細川持之を烏帽子親として還俗した。この事から、泰高と管領持之にはある種の連携が生まれていたと言えよう。一方、家督返還を要求した冨樫教家には幕閣で細川氏と対立する河内・紀伊・越中守護の畠山氏を背景にしていた。つまり加賀で対立する泰高・教家に中央で対立する細川・畠山が後ろ盾として付いたことになる。家督を継いで僅かしか期間が経っていない泰高政権が教家派と互角に対抗できた理由のひとつには、管領細川氏の支援があったということは当然の見方であろう。持之が幕府管領であった為、当然幕府としては泰高を正式の守護とし、加賀に領地を持つ幕府奉公衆・摂津満親を泰高に合力させるなど、情勢は泰高有利に進んでいた。
 しかし、この情勢も管領細川持之管領を辞し、没した1442(嘉吉2)年に大きく転換する。

1442(嘉吉2)年頃の対立軸
  冨樫泰高派 冨樫教家派
中心人物 冨樫泰高 冨樫亀童丸“のちの成春”(加賀守護)
被官主力 山川家之 冨樫教家
本折某
支援者 細川持賢(丹波・讃岐・土佐守護) 畠山持国(管領)

1442(嘉吉2)年細川持之は管領を辞して、細川の家督自体も弟持賢に譲った。さらに同年には持之は死去した。持之の次に管領となったのは、畠山持国である。管領となった持国は冨樫教家派を全面的に指示し、守護の冨樫泰高を罷免し、教家の嫡子冨樫亀童丸(成春)を守護に補任した。しかし、加賀の在地勢力は泰高を支持した為、泰高は罷免以後も加賀を実効支配していた。教家派は軍を差し向けなんとか泰高派を破って一国を手に入れた。敗れた泰高派は被官山川家之が畠山持国邸襲撃未遂事件を起こすなど、中央での不利もあって窮地に立たされたが、山川家之が切腹することで、なんとか事無きを得た。この後も両派の対立派続いたので、幕府は1447(文安4)年和解案を提示した。すなわち、冨樫泰高を加賀南半国守護に、冨樫成春を加賀北半国守護にすることで妥協を図るものであった。
 この妥協案を両派受け入れたものの、教家派では、被官の本折氏や狩野氏が和解に反発するなどかなりの混乱があった。このことから、両派には根深い対立感情と利害関係があったことが伺われる。それでも、両派が妥協したのは、長期に渡る対立と合戦により冨樫家及び加賀国内の疲弊が原因であったのであろう。さらには、冨樫家督を争いを通じた幕府内での政争激化が問題化し、幕府にとっても「両流相論」状態を終結させたいという意向があったことも見逃せない。
 この加賀嘉吉文安の内乱においては、両派の力関係だけでなく両派の後ろ盾の影響力が大変大きかったと言える。なぜ加賀において、幕閣有力者の影響力が強かったかというと、加賀に多数存在する幕府御料所が幕府を軍事的・財政的に支える基盤であったことに他ならないであろう。その為、幕府も加賀への影響力を重視し、結果守護である冨樫氏への介入も大きくなっていったのである。この為、両派の後ろ盾のどちらが管領職についているかによって、冨樫氏の軍事動員力も大きく左右された。1441(嘉吉元)年においては、泰高支持の細川持之が管領だった為、加賀に領地を持つ奉公衆・摂津満親に対し泰高への合力を命じている。14422(嘉吉2)年に於いては教家支持の畠山持国が管領だった為、加賀を実効支配していたのは泰高にも関わらず、冨樫亀童丸(教家嫡子)が守護に補任された。この時、在地勢力は泰高を支持してなかなか亀童丸の影響力が及ばなかったのであるが、ついには実力行使で教家派が軍を派遣して泰高派を破った。これは、在地勢力を味方に付けるだけでなく、如何に中央での後援者の力を得ることが必要であったかを物語るようである。実際、1442年教家の嫡子亀童丸が守護に任じられて加賀に入部した時も教家は在京していた。これは、教家が幕閣の有力者との交渉を自派を有利にするための手段として重要視した証拠である。

1447(文安4)年頃の政治組織
  冨樫泰高派 冨樫教家派
中心人物 冨樫泰高(加賀南半国守護) 冨樫成春(加賀北半国守護)
守護代 山川豊前入道仙源 本折越前守常範
本折入道祖若
支援者 細川勝元(管領) 畠山持国

この妥協成立により一旦は「両流相論」が沈静化した。この頃の冨樫家代表者は冨樫泰高と見られていたようだ。幕府に出仕したのも泰高の方が早いし、冨樫家棟梁である「冨樫介」を称したのも泰高である。これは、幕府管領である細川勝元が泰高支持だったことや、冨樫成春が1447(文安4)年時点で15歳とまた若年だったことが要因であったのであろう。

(2)北半国守護「赤松政則」の影響
 泰高派と教家派の妥協によって「両流相論」は一応沈静化はしたものの、各々の組織が「半国守護」として温存されたので、常に対立再燃の危険性をはらんでいた。しかし、この両流半国守護体制がまたもや幕府によって崩壊させられた。1458(長禄2)年、赤松政則の加賀北半国守護補任である。
 嘉吉の乱で没落した赤松一族の赤松政則が、後南朝から神璽を奪還した功によって管領細川勝元より加賀北半国守護に任じられたので、成春は守護職を罷免された。これは畠山持国に対抗する細川勝元が加賀での自派勢力拡大の為、恩賞として成春の加賀半国守護を取り上げ赤松政則に与えたとも言われる(木越祐馨『日本の名族七−北陸編−』より)。1456年から赤松政則に対する北半国守護宛行の密約があったとされるが、成春に比べて泰高が中央のパイプ(信頼関係)を強固に持っていたから南半国守護も合わせて没収されなかったのであろう。過去冨樫家は、管領の権勢拡大政策によって1387(嘉慶元)年に加賀一国の守護を没収されているだけに、如何に冨樫氏が中央政界との関係に苦慮したのかがわかる(注1)
 この赤松政則の守護就任に冨樫成春らを始めとする教家派も黙ってはいなかった。赤松勢力の加賀入部を阻もうと、被官岩室某が赤松勢と合戦を起こしたが、無念にも敗北した。この時の泰高派の動きは不明だが、恐らくは幕府に配慮して加担していなかったと思われる。ただ、泰高派も赤松政則の守護補任に対し心情は穏やかでなかった。自派は南半国守護を罷免されなかったとしても、冨樫家全体では勢力の減退であり、冨樫家弱体が懸念された。泰高派・教家派はここに赤松政則という共通の敵を得たため、対立を解消し合流がなされたものだと思われる。すなわち、成春守護解任より1年後の1458(長禄3)年には泰高・教家が共に父満春33回忌の法要を執行している。また、1464(寛正5)年には南半国守護の泰高が隠居し、教家派成春の嫡子・冨樫政親が跡を継いだ。これらは両派が連携・合流したことを示すものである。特に、泰高隠居は両派の合流を象徴するできごとで、冨樫政親に家督を移譲することによって冨樫家一本化が実現したのであった。この家督継承は、表向き泰高が嫡子・泰成が病身であったためとされているが、これは幕閣の有力者に赤松氏に対する怒りをカモフラージュする理由づけであろう。幕府の決定した赤松政則の守護就任を表だって批判すれば、幕府内で立場の弱い冨樫氏は守護を取り上げられる可能性もあった。ここでも中央政界との関係に苦慮する冨樫家が見て取れる。
 1467(応仁元)年、赤松政則が本領播磨に復帰した為、加賀北半国も冨樫政親に宛行われた。すなわち、冨樫家一本化が効を奏して冨樫氏が一国守護に復帰したのである。

冨樫政親政権の陣容
  冨樫政親政権(1475年-1488年)
加賀守護 冨樫政親
守護代 北半国守護代 南半国守護代
槻橋近江守 山川高藤

上記冨樫政親政権の陣容を見て頂きたい。北半国守護には旧教家派の槻橋氏が、南半国守護には旧泰高派の山川氏が守護代に任じられている。一見旧体制の温存にも見えるが、1473(文明5)年に旧教家派が擁立した冨樫幸千代政権には、旧教家派の主力である本折氏(本折祖福)、槻橋氏(槻橋豊前守)の名前が見えなくそれらの臣が政親方に付いていたり(文明の一揆)、1488(長享2)年の長亨の一揆でも、山川氏等の旧泰高派に加え、額氏(額丹後守)や槻橋氏(槻橋近江守)ら旧教家派の臣が殉死している等、政親が旧両派を越えて上位権力者として君臨しているたことが伺える。

(3)「両流相論」の再燃
 1471年、冨樫幸千代冨樫政親(鶴童丸)に対抗するシンボルとして擁立された。擁立された理由は、この年京都で勃発した応仁の乱において政親が旧敵である細川勝元陣営である東軍に属したためであった。「両流相論」の時代の再燃である。政親は冨樫成春の嫡男であり本来は反細川派であって、旧教家派からの不満が噴出したのであった。不満を噴出させた旧教家派の勢力は、冨樫幸千代の下結集し、政親と対立した。ただ、上記(2)にも示したとおり、幸千代方には旧教家派の主力である本折氏、槻橋氏の名前がなく、旧教家派が一枚岩であったわけではなかった。つまりこのことは、1464(寛正5)年の泰高・教家両派合流以後、段々対立が解消されてきたとはいえ、対立感情・利害関係が完全に解消されるには至らなかったことを示している。成春の嫡子である政親が泰高派を継ぎ、弟の幸千代が教家派として対立するという状況は、政親にとって複雑な心境であった事でろう。それでも政親自身は泰高派としての立場を貫いた。

1474(文明6)年頃の対立軸
  旧冨樫泰高派 旧冨樫教家派
応仁の乱 東軍・細川勝元方 西軍・山名宗全方
中心人物 冨樫政親 冨樫幸千代(加賀守護)
被官 山川高藤
本折祖福
槻橋豊前守
額景春(熊夜叉)
沢井
阿曾盛俊(孫八郎)
狩野伊賀入道
小杉某
小杉基久(新八郎)
支援者 本願寺門徒
白山衆徒
専修寺門徒
甲斐氏(越前守護代)

前述のように、文明の一揆に於いて旧教家派である冨樫幸千代勢は本折氏や槻橋氏等の主力を欠いていた。しかも、この時期守護に補任されたとはいえ、「政親に同心するのが道理」という幕府奉書が出されたこともあり、情勢は著しく幸千代方に不利であった。そこで、幸千代は実力を互角にする為に専修寺門徒を味方に引き入れたのではないかと思われる。しかし、政親方も本願寺門徒を味方にしたため、幸千代の不利は変わらず結局1474年に蓮台寺城の合戦で敗れ、幸千代は京都に敗走した。政親はこうして再び一国守護を手に入れた。

(3)長亨の一揆の前後における対立
 幸千代を討伐の際に交わした約束「一向宗を保護する」という約束をした政親であったが、一揆勢の行動は次第に横暴になった為、約束を反故にして、一転弾圧に踏み切った。一旦は弾圧に成功し領国内を安定化させたが、再び一向一揆方の不満は爆発し、ついに1488(長亨2)年大規模な一揆が加賀において勃発した(長亨の一揆)。その際、一向一揆に総大将として元守護の冨樫泰高が擁立された。すなわち、この戦いは政親に対する一向一揆という側面に加え、冨樫政親冨樫泰高という冨樫家の家督争いの側面も持っていた。泰高が総大将になった理由は、一揆方が一揆の大義名分を得る為、泰高の後ろ盾であった細川氏の援助を期待してという一向一揆方の理由と、一揆を利用して守護に返り咲きたい泰高方の理由があり、お互いの利害が一致した為であった。この対立は直接の原因が冨樫政親と一向一揆方の対立に求められるが、旧泰高派と旧教家派の争いも無縁とも思えない。つまり一向一揆方は冨樫家の内紛である「両流相論」を利用してこの一揆を起こしたと言える。後期に成立した書物である『富樫家遠孫成田家由緒』や『富樫家遠孫成田家由系譜』よると冨樫政親には冨樫政直という嫡子が1488(長享2)年に生まれたと言い、泰高にすれば成春の嫡子である政親や政直には愛着は無いわけで、孫の冨樫恒泰(稙泰)の将来等を考えた時、機会があれば政親を打倒して復権しようと考えても不思議ではなかろう。そうなると、この長亨の一揆の前後に再び「両流相論」が再燃したのである。

 長亨の一揆において一向一揆方(=泰高方)が勝利したことから、冨樫泰高が加賀一国守護に復帰した。政親方は長亨の一揆によりほぼ壊滅状態に追い込まれた。しかしながら、1490(延徳2)年に冨樫家は「家督訴訟」を幕府に対して起こしそえが受理されている。ということは、この時期の前から家督相続問題で冨樫家は内紛状態であった。
 では泰高と冨樫家の家督争いを演じたのは誰であろうか。候補として考えられるのは、1473(文明5)年の文明の一揆で対立した冨樫幸千代である。幸千代は文明の一揆後も京都において守護奪回工作を続けており、1479(文明11)年には幸千代の「加賀入国必定」と言われるほど、入国が現実味を帯びていたほどであった。しかし、この後の幸千代が活動も知られず、10年以上経った1490(延徳2)年に冨樫家と対抗できる力を持っているとは考えにくい。
 となると、泰高の相手は、必然と冨樫政親の嫡子である「冨樫政直」ではなかろうか。冨樫政親は生前は第9第将軍・足利義尚の近江六角征伐にも帯同したほどであり、冨樫政親を贔屓していた。その近江征伐の最中、加賀の国で長亨の一揆が起こり、政親が帰国を願うと許し、しかも政親の状況が不利になると将軍の命で周囲に援軍を要請するほどの贔屓ぶりであった。であるならば、長亨の一揆後に家督に復帰した泰高は幕府でとても居心地が悪いに違いない。そればかりか、冨樫政直が家督復帰を幕府に願い出て訴訟になったのではないか。

1489(長享3)年頃の対立軸
  旧冨樫泰高派 旧冨樫教家派
中心人物 冨樫泰高 冨樫政直(政親の子)
被官   冨樫親春
支援者 本願寺門徒
白山衆徒
細川政元
将軍・足利義尚
足利義政

 つまり、長亨の一揆は「両流相論」の再燃を引き起こしたのである。しかしこの対立は武力を経ることなく決着する。1489(長享3)年には将軍・足利義尚が病死し、翌1490(延徳2)年に足利義尚の父・足利義政が死去すると、冨樫泰高にとって幕府内での敵が勝手に消滅した。それゆえ、1490(延徳2)年に「冨樫家督訴訟」を幕府に対して起こし、それが受理されたのである。この訴訟の結論については明らかではないが、おそらく細川政元の影響や現状を追認することが争いを大きくしない原則になることから、冨樫泰高の相続が認められたのではないか。冨樫家はようやく59年の時を経て「両流相論」状況を克服したと言えよう。
 しかし、皮肉なことに、「両流相論」の代わりに冨樫家では一向一揆との協調と対立というもっと大きな内部矛盾問題と向き合う羽目になる。ある意味冨樫家対一向一揆という対立構図が、これ以降「両流相論」を再燃させないことにつながったのかもしれない。

おわりに
 以上、「両流相論」が起こった背景とその推移を述べた。冨樫家家中の対立に幕閣有力者の政争がかなり関与していたことと、幕閣有力者の政争が加賀において大きな意味をもったことを指摘した。さらに、この対立が落とした影響を冨樫政親冨樫幸千代との対立(文明の一揆)でみてきた。すなわち、泰高派・教家派の1464年の合流以後も依然として対立感情が消えていない実態があったのである。
 この「両流相論」時代は長期にわたる合戦によって、多大な軍事力を費やしたため冨樫家の財政支出が拡大し、さらに国内経済の疲弊をもたらした。結果的にそれが冨樫氏の在地掌握を遅らせ、経済基盤を脆弱化させてしまった。これが加賀守護冨樫氏の衰退を早めたことは言うまでもない。結論を大きく言うならばこの「両流相論」が文明の一揆を引き起こし、歴史書でも有名な長亨の一揆後の「百姓の持ちたる国」のような状況を生んだと言える。

(注釈)
(注1)さらに赤松正則が半国守護となったことに関して、赤松氏の観点からも理由が考えられる。それは、本領播磨復帰が赤松氏の望みであり、その前段階としての加賀守護にはそれほどこだわらなかった為である。

参考文献
野々市町史編纂専門委員会『野々市町史資料編1』野々市町,2003年
(共著)『加賀・能登歴史の扉』石川史書刊行会.2007年
(共著)『地域社会の歴史と人物』北國新聞社,2008年

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