文明の一揆
[1473〜1474年]

冨樫政親VS冨樫幸千代

●原因
 この合戦は冨樫政親冨樫幸千代との単純な兄弟対決ではない。背景には、まず1467(応仁元)年より続く応仁の乱での東軍(細川方)と西軍(山名方)の対立に端を発している。冨樫政親は東軍に属したと言われ(注1)、それに対し西軍に組して細川氏及びそれに味方して政親に対抗する加賀の勢力に冨樫幸千代が擁立されたのである。冨樫家は一時「両流相論」とも言える泰高党・教家党に分かれて対立したが、1458(長禄2)年の冨樫成春失脚と赤松政則加賀半国守護の就任に供なって一旦は統一された。しかし、潜在的な両者の対立までも消えるはずもなく、まさにこの応仁の乱でそれが噴出し、旧成春党が成春の嫡男冨樫幸千代を擁立するのである。
 隣国能登の畠山義統は西軍に属し、さらに加賀国内の国人も西軍に属している勢力が多数派であった(『大乗院寺社雑事記』より)。1471(文明3)年に隣国越前の朝倉孝景が西軍より東軍に寝返ると、越前国内の西軍派が加賀に頼ってくる状況となった(注2)。こうして政親と対立することになった幸千代は、新興の本願寺派に門徒を奪われていた専修寺派が本願寺を破り加賀の勢力維持を図るため幸千代と結んだ。その反対に政親は本願寺派などを見方に引き入れ(注3)ることなった。戦力を整えるために寺社勢力を味方につけることは、室町・戦国時代では一般的にみられることである。こうして政親と幸千代という兄弟対立の他にも様々な代理戦争がここに結びついていたのである。
 この合戦はよく「文明の一揆」と称されるが、「一揆」というと庶民が立ち上がり為政者に抗すると考える人が多い。しかしこの合戦では、守護家の内紛に幕閣や宗教がからんできたものであり、実際には「文明の一揆」と称するより、「加賀文明の内乱」とした方が適しているかもしれない。
冨樫政親軍 冨樫幸千代軍
勝敗 WIN LOSE
兵力 詳細不明 詳細不明
応仁の乱 東軍・細川勝元方 西軍・山名宗全方
支援者 本願寺門徒
白山衆徒
専修寺門徒
総大将 冨樫政親 冨樫幸千代
主力 山川高藤
本折祖福
槻橋豊前守
額景春(熊夜叉)
沢井
阿曾
狩野伊賀入道→自害
小杉某→自害

●経過    

●合戦の影響
 冨樫政親が本願寺門徒と提携した為、自信を深めた本願寺門徒は領国内での発言権を増強させる結果となった。それは、政親が推し進める守護権力強化とまさに反対の方向に進む事となるので、領国政策に矛盾を生じさせた。門徒らは年貢無沙汰などの問題行動を起こし、政親は槻橋の忠告を入れ本願寺派弾圧を決定するなど、対立はすぐにも起こり、翌年には協調体制は崩壊した。
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 ここでの注目すべき点は、本願寺門徒だけがこの合戦に加わったのではないという点である。政親方にも白山衆徒がいるし、幸千代方には専修門徒が加わっている。一般には、本願寺門徒が政親に加勢した事だけクローズアップされがちだが、この時点で本願寺門徒は政親が利用した宗教の一派に過ぎないのである。

(注釈)
(注1)神田千里氏はその著書『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』で「冨樫政親は当初は西軍だったとも(『経覚私要鈔』応仁元年六月三日条)、東軍方に降参した(『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月九日条)ともいわれる。」(P.62より)と指摘している。
(注2)越前守護代の家柄であり西軍に属する甲斐氏は朝倉氏に敗れて加賀に逃亡している。(『大乗院寺社雑事記』より)
(注3)『官知論』では、幸千代打倒後に保護すると言う約束を政親がしたという。

参考文献
神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』吉川弘文館,2007年
(共著)『日本の名族 七』新人物往来社,1989年
(共著)『図説石川県の歴史』山川出版,2000年
(共著)『クロニック戦国全史』講談社,1995年

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