冨樫政親特集

冨樫政親イメージ像
↑冨樫政親イメージ像(畠山義綱画)

☆冨樫 政親<とがし まさちか>(1455〜1488)
 冨樫介と称す。成春の子。加賀南半国守護の後、加賀守護となる。幼名鶴童丸。通称次郎。泰高より1464(寛正5)年に南半国守護の座を譲られた。応仁の乱では東軍に組する。弟・冨樫幸千代と対立し一揆の力を得て打倒する。その後、一揆との協調関係を破棄し弾圧に転じたが、1488年ついに一揆衆は蜂起した(長亨の一揆)。政親篭る高尾城は20万人とも言われる一揆勢に囲まれ陥落し、政親は自害して果て、亡骸は野々市大乗寺に葬られた。

政親支配体制ちぇっく!
政親政権は4期に大別できる。


政親政権第1期(1464-1467)<半国守護期>
 1458(長禄2)年に北半国守護を中央の思惑もあり赤松氏に奪われ、泰高派と成春派の対立が緩和した。それゆえ、冨樫成春の嫡子であった政親が1464(寛正5)年に泰高が隠居する際、南半国守護を継承したのである。であるから、半国守護であっても政権の内情は安定したと言える。


政親政権第2期(1467-1474)<両派対立期>
 北半国守護であった赤松氏が本領播磨に復すると、北半国守護も政親が手に入れ加賀一国の守護に補任される。しかし、その事により、再び冨樫家の内乱が発生し、応仁の乱を機に政親は泰高とともに東軍に属し、政親に反対する北半国の国人たちに擁立された冨樫幸千代(成春の次男)は西軍に属し対立した。両派の対立は、1474年に本願寺門徒らの力を得た政親方が幸千代を破った事(文明の一揆)により終結する。


政親政権第3期(1474-1475)<一向一揆協調期>
 幸千代打倒で本願寺門徒に協力を求めた際、本願寺を保護するという約束を政親はして、幸千代打倒後は本願寺と協調体制を取る。しかし、早くもその翌年には、槻橋近江守の意見を入れて弾圧に乗り出すので、協調関係は1年で崩壊するのである。自信を深めた本願寺門徒らの年貢無沙汰などの行動と守護権強化を図る政親の領国政策との矛盾が生じた結果である。


政親政権第4期(1475-1488)<一向一揆弾圧期>

北半国守護代:槻橋近江守
南半国守護代:山川高藤
奉行人:槻橋親長、安江永秀

 槻橋氏は元々教家党であったので、近江守が教家党の地盤であった北半国守護代に、山川氏はもともと泰高党であったので高藤が南半国守護代になったと思われる。
 国内には泰高支持層や幸千代支持層の残党や、一転し敵対関係となった本願寺の大坊主・門徒土豪など反政親勢力が多数存在した。それゆえ、政親の守護権力強化が急務であり、領国政策も厳しく行われた。そして、一揆勢の不満爆発により、1488(長享2)年についに政親は倒されたのである(長亨の一揆)。


政親政治活動ちぇっく!
 彼の領国政策を主に第4期政権を中心に考えると、いかに守護権力を強化するかにあった。それゆえ、領国では在地武士の荘園横領行為を停止させる守護としての秩序を保つ役目を果たす一方、自らは自分の権力を高める為に別の場所で横領行為を働くなど矛盾した行動を見せた。これは、領国の武士達の不満を招くことになるが、こうした行為は「政親の施策はそれなりに現実的」という指摘を東四柳氏はしている。そういった事から、政親は不安定な加賀の領国経営に関してはある程度の成果を得ていたともいえる。しかし、下記にも記述したように六角征伐に従軍した際、その軍費調達に厳しい税を課して民衆の反発をかうなど、民衆の反発行動を楽観視していたことも伺える。また、木越祐馨氏は長亨の一揆で守護代である山川高藤が結局は裏切り高尾城を脱出していることから、「政親は、そういう側近だけしか、なかなか自分の権力の基盤として固めることができなかったようです。守護代のような、本来ならいっしょにいなくてはいけない人たちが最期は離脱していくというところに、若かったゆえに政治基盤の弱さがあったのではないだろうか」(『富樫氏の歴史と伝承』富樫氏と高尾城の歴史研究会、62頁より)と、政親政権の権力基盤を分析している。
 政親の室は、四辻中納言の娘、あるいは熱田大宮司の娘ともいわれ、政親自害後は高田専修寺の真慧と再婚したとも言われる。

政親外交活動ちぇっく!
 彼の外交政策を主に第4期政権を中心に考えると、将軍権力を利用して不安定な守護権力の高揚を図ろうとしていたことがうかがえる。例えば、1486(文明18)年9代将軍義尚の右大将拝賀式に本折・槻橋らの被官を率いて上洛し供奉したり、1487(長享元)年に始まった将軍義尚自ら六角征伐に行く幕府軍に細川政元、若狭武田国信、京極高清らと共にの従軍した。この頃の将軍権力は著しく低下し従う守護はあまりいなかったが、将軍権力を利用する為にここまで将軍家に尽くすという政親の行動は、それ程加賀での守護権力の後退があったのであろう。実際、加賀では応仁の乱の西軍派に始まる反足利義尚勢が残っており、それが政親の領国経営を阻んでいるのである。さらに従来より加賀の地は将軍などの中央政争により左右されたので、その影響であろうか必要以上に将軍に尽くしたともとれる。しかし、彼の将軍義尚への忠誠行動は、政親が一向一揆に攻められた時、将軍が各国に援軍派遣を命令したことや、政親自害後蓮如に門徒の破門をせまったなど、義尚と政親の間には信頼関係が出来ていた事を付け加えておく。

政親出陣履歴ちぇっく!
 泰高の跡をうけた政親は応仁の乱では東軍に属す。しかし、政親は泰高と対立していた成春の嫡子であり、敵対していた細川に反発する者も多くいた。それらの勢力は、成春の次男である冨樫幸千代を擁立し、政親に対抗した。1473(文明5)年、越前甲斐氏と結んだ幸千代に敗れると、同じ東軍の朝倉を頼り逃亡する。しかし、朝倉氏と甲斐氏が和解すると、幸千代側への甲斐氏の支援が弱まり、政親は加賀へ進入する。その時、幸千代についた専修寺派門徒の対立関係にあった本願寺派門徒を味方につけ、幸千代方を撃破した(文明の一揆)。
 六角征伐に従軍中、反政親派の国人・土豪と本願寺派の大坊主や門徒が一揆を結成する動きをみせるなどただならぬことを知らされた政親は義尚に許しを得て帰国したが事態は好転せず、翌年(1488年)ついに一揆衆は蜂起した。将軍義尚は信頼厚い政親を助ける為、能登畠山氏の義統、越前朝倉氏の貞景に援軍派兵を命じた。しかし、両軍とも一揆衆に苦戦し政親篭る高尾城は20万人とも言われる一揆勢に囲まれ陥落し、政親は自害して果てた(長亨の一揆)。

ちぇっくぽいんと!
 政親が領国政策に苦悩したのは、一揆勢だけでなく、国内の反政親派(幸千代派等)の影響もあった。それゆえ、守護大名権力の基盤が安定しなかった。また、加賀には多くの幕府御料所(直轄領)の存在し、加賀が幕府を軍事的、財政的に支える基盤であり、中央政争に巻き込まれることが不可避の状況を生んでいたし、国内に守護に服さない将軍直属の奉公衆が多数いた事も冨樫政権の脆弱さを生んでいた。(詳しくは加賀冨樫政権について参照)その状況を、冨樫家を統一させ、権力の基盤の脆弱さを可能な限り打開しようとしたのが政親であった。

★参考資料
●鶴童丸花押
冨樫鶴童丸花押
●政親花押
冨樫政親花押
参考資料
木越祐馨(共著)『日本の名族七−北陸編−』新人物往来社,1989年
高澤裕一(共著)『県史石川県の歴史』山川出版,2000年
東四柳史明(共著)『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社,1988年
富樫氏と高尾城の歴史研究会『富樫氏の歴史と伝承』金沢市都市政策局圏域交流課,2007年
野々市町史編纂専門委員会『野々市町史 資料1』野々市町,2003年
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