加賀津幡の合戦(亨禄の錯乱)
[1531年]

畠山・朝倉連合軍VS一向一揆

●原因
 加賀一向一揆は政治路線の違いから内紛(参考・「加賀冨樫氏野々市の歴史」享禄の錯乱のコンテンツ)が起る。能登畠山家や朝倉などの守護勢力は周辺大名と協調路線をとろうとする小一揆方に加担した。それゆえ、この「加賀津幡の合戦」は一向一揆の内紛である亨禄の錯乱の中に位置付けられる合戦である。畠山家は若松本泉寺ら加州三カ寺派(小一揆)を救援するために朝倉と協力し軍を派遣し、加賀に侵入するのであった。
畠山・朝倉連合軍 一向一揆軍(大一揆)
勝敗 LOSE WIN
兵力 詳細不明 詳細不明
本拠地 七尾城・一乗谷館
総大将 畠山義総
神保長職
朝倉孝景
本願寺
主将 畠山家俊→討死   
主力 飯川若狭守→討死
三宅俊長→討死
誉田影重
真舘氏一→討死
温井孝宗→討死
遊佐某
三宅某
下間頼秀
下間頼盛
加賀津幡の合戦

●経過

●合戦の影響
 この錯乱の結果、加賀を追われた小一揆方(若松本泉寺ら)は能登へと亡命する。加賀は大一揆方を中心として本願寺の統制が始まり、小一揆を保護した事からも畠山家と本願寺の関係は悪化していくのである。そのため畠山家中の内紛で敗れたものは、畠山家と敵対関係にある加賀の一向一揆を頼って再起を図ろうとするのだ。それは、遊佐しかり、温井しかりである。 また、この戦いで飯川若狭守、温井孝宗、三宅俊長と能登畠山氏の有力家臣が戦死したことはこの合戦がいかに被害の大きいものだったかを物語るに十分である。

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